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第5話「尊すぎるメイド」


 セレーナは、フォレスター侯爵家の書斎で書類の山と格闘していた。


 資産目録、土地の権利書、王家への献上記録、過去三代にわたる婚姻契約の写し——全てを読み漁ったおかげで古い羊皮紙の匂いが、鼻腔に染みつくほどだった。

 

 この世界に転生し、フォレスター家の令嬢となってから数日。覚えなければならないことが、途方もなく多い。


 右手の中指で眉間を押さえる。集中。整理。


 ——フォレスター家の資産規模は、王国でも五指に入る。

 しかし、母親は政争に巻き込まれ、体を壊しすでに他界。

 父親も数年前に事故死。


 現在、一人娘のセレーナが家督を継ぎ、大貴族フォレスター家の当主となっている。


 つまり、天涯孤独な悪役令嬢。


 ——転生しても孤独だなんて。どういう因果かしらね。

 

 当面の課題は、跡取り問題。

 相応の貴族家から、適当な婿を娶り、家名を存続させなければならない。


 「まさか、私が婚活する立場になるなんて……」


 どうやらセレーナ・フォレスターとは、直情的な人物で、他人関係に難ありだったようだ。こういうタイプの人間は、人の優しさに飢えている。

 だからこそ、狙われる。アルトのような男が、甘い言葉を手土産にやってくる理由がここにある。


 ページをめくる指が止まった。王家との関係を記した古い書簡。文面は丁寧だが、行間に緊張が滲んでいる。


 ——王家の前では、うかつな行動は避けたほうがいい。

 この家は庇護されているんじゃない。監視されている。


 溜息をつきかけた時——扉が、軽くノックされた。


「お嬢様、紅茶をお持ちしました」


 アリサだった。


 トレイを両手で抱え、背筋をぴんと伸ばして入ってくる。カップがソーサーの上でかちゃりと小さく揺れた。緊張しているのだろう。この子はいつも、紅茶を運ぶたびに少しだけ手が震える。


 でも——その手が、温かい。


「ありがとう、アリサ。少し休憩しようかしら」


 セレーナは書類から顔を上げ、微笑んだ。受け取ったカップから、フルーティーな香りが立ち昇る。口に含むと、林檎に似た甘やかさが舌の上を通り過ぎていった。


「最近、甘い香りがお好きなようなので」


 ——いい紅茶。この子、私の好みをしっかり観察して覚えてくれてるのね。


「お嬢様は……色々とお変わりになったように感じます」


 不意に、アリサが口を開いた。


「以前はもっと……こう、厳しくて、近寄りがたい雰囲気でしたけど、今はすごく優しくて……」


 セレーナの指が、カップの縁で止まった。


 心臓が一拍、強く打った。転生者であることがバレたのか——一瞬、身構える。だがアリサは無邪気に微笑んでいるだけだ。疑いの色は、どこにもない。


「……そうかしら? 昔の私は、そんなに怖かった?」


「はい!」


 即答だった。あまりの勢いに、セレーナは思わず目を瞬かせた。


「で、でも……私は好きでしたよ」


 ——過去形。今はどう思ってるのか。


「今のお嬢様は。すごくお優しい感じになりましたね……それに、なんだか考え深く考えを巡らせているように見えます」


 アリサの目が、真っ直ぐにこちらを見ている。嘘がない。駆け引きもない。ただ純粋に、目の前の主人の変化を喜んでいる。


「たとえば?」


「えーっと。何かを話される、お答えになるときに、一瞬必ず思考されているというか。あ、ほんの一瞬ですけど……前はそんなことなかったので」


 ——この子は、純朴なようで、天性の洞察力がある。

 真奈美わたしに似たタイプかもしれない。


 セレーナは紅茶に視線を落とした。琥珀色の液面に、自分の顔がぼんやりと映っている。


 前世の真奈美は、人間不信の中で生きてきた。婚活カウンセラーとして他人の幸せを導きながら、自分自身は誰のことも信じられなかった。クライアントの笑顔の裏を読み、恋人候補の言葉の嘘を見抜き、人の本音ばかりを覗いてきた。


 でもこの体になってから、嘘が見抜けるようになった。

 だからこそ、こんなふうに——無条件で私を信じてくれる存在がいることを、とても嬉しく感じる。


「それは……ありがとう、アリサ。あなた正直なのね」


 声が、少しだけ掠れた。


「そんな、恐れ多いです! ……お嬢様は、私にとって何より大切なお方ですから!」


 アリサの声に迷いがなかった。胸の前で手を握り締め、一生懸命な顔でそう言い切った。


 セレーナは微笑んだ。少し寂しげで、少し温かい笑み。

 カップを両手で包み直した。磁器越しに、紅茶の温もりがじんわりと掌に伝わってくる。



 ——なんて尊い娘かしら。

 守ろう。この子の未来だけは。何があっても。



   * * *



「ねえ、アリサ。少し聞きたいんだけど」


 セレーナは紅茶を一口含んでから、さりげなく切り出した。


「バイオレット令嬢について、あなたはどう思ってる?」


 バイオレット・グレイスフィールド。王国三大貴族の一角であるグレースフィールド家の一人娘。人々から愛され、慕われている存在——。


 アリサの洞察力なら、何か違った側面が見えているかもしれない。


「バイオレットお嬢様ですか……」


 アリサの眉が、ほんの一瞬だけ寄った。


 ——そこ。その反応。


 すぐに元の表情に戻ったが、セレーナはその微細な変化を見逃さなかった。眉を寄せたのは〇・三秒ほど。意識的な制御ではなく、無意識の忌避反応。


「とても優しくて、たくさんの方々に慕われているお方です。いつも微笑んでいて、お上品で……」


 アリサの言葉は丁寧だった。だが——声のトーンが、先ほどまでと違う。ほんの少しだけ高い。緊張が混じっている。


「私はあまり、お近づきになったことはありませんが、皆さんにすごく愛されていますね」


 ——「皆さんに愛されています」。

 主語が「私」ではなく「皆さん」。自分の感情を外に預けている。「私はこう思います」と言えない時、人間は「みんながこう言ってます」に逃げる。


 セレーナの左の口角が、わずかに上がった。


「そうね……皆に愛されるお嬢様、よね」


 右手の中指を眉間に当てる。アリサの答えの構造を、頭の中で分解していく。


 ——この子にしては珍しく、本音を隠したわね。


「アリサ」


「は、はい?」


「怒らないから正直に言って」


 セレーナは穏やかに、だが真っ直ぐにアリサの目を見た。


「あなたは、バイオレットことが、あまり好きじゃないんじゃない?」


 アリサの目が大きく見開かれた。唇が震え、視線が足元に落ちる。


「そ、そんなことは……ただ、少し……苦手というか……」


「どうして?」


「それは……うまく説明できません」


 アリサは言葉を探している。手が胸の前で握られ、指の関節が白い。


「バイオレット様は本当に優しい方なんです。ただ……私には、どこか怖いんです。あの方は、本当はもっと強いというか、すみません」


 ——怖い。強い。


 この子は「優しい」と言いながら「怖い」と感じている。優しさと恐怖が同居する人間。それは——表面の優しさの裏に、「強さ」があるということだ。


 アリサのような純粋な人間の直感は、理屈よりも正確なことがある。言語化できない違和感こそが、最も信頼に値する情報。


 ——覚えておこう。バイオレット・グレイスフィールドには、表からは測れない「強さ」がある。


「ねえ……バイオレットの側近といえば誰だっけ?」


「ええと……執事のセバスチャン様ですね。クロイッツネル公爵家の方です」


 その名前が出た瞬間——空気の質が変わった。


 セレーナの背筋が、すっと伸びた。


 セバスチャン・フォン・クロイツネル。以前のセレーナの記憶を辿ると、バイオレットの傍に必ずいた銀髪の男。そして——昨日のお茶会でアルトが口にした「家の者達と相談」。あの言葉の先にいるのは、おそらくこの男だろう。


「アリサ、セバスチャンって……あなたから見て、どんな人?」


 アリサは首を傾げた。しばらく考えてから、ぽつりと言った。


「冷静で、賢くて、どんな時でもバイオレット様に尽くす方です。でも……なんというか……」


 言葉を探すように、天井に目を向ける。


「笑っていても、笑ってないみたいな……何を考えているのかわからない感じですね。……なんか、すみません、うまく言えなくて」


 ——笑っていても、笑ってない。思考が読めないか。


 セレーナの指が、カップの縁をゆっくりと撫でた。


 アルトの嘘は見え透いていた。あの男の演技は下手くそで、穴だらけだった。

 だけど——セバスチャンは違う。


 アリサの直感ですら感情が読み取れないとほどの完璧な仮面。いや、感情を読ませない技術というべきか。それは、嘘をつくのが上手いのではなく、本音そのものを消せる人間の特徴だ。


 ——この違和感の正体は、アナタね。セバスチャン。


 アルトの背後にいる仕掛け人。お茶会での推理が、一つの名前に収束していく。


 セレーナが紅茶の最後の一口を飲み干した、その時——扉がノックされた。


「セレーナお嬢様、王城から舞踏会の招待状が届きました」


 執事が差し出した封書。蝋で封じられた王家の紋章が、蝋燭の灯りを受けて鈍く光っている。


 封を切った。


 中身を確認する。アルト・デュラハンとの婚約者として、王城の舞踏会に招かれてる——。


 セレーナは招待状をテーブルに置き、窓の外に視線を向けた。夕暮れの空が、橙色から藍色へと変わり始めている。


 ——なるほど。公の場で、私の退路を断つつもりね。

 でも、この招待状の段取り。あのアルトに、ここまでの根回しができるとは思えない。


 招待状に視線を戻す。差出人の筆跡。王城の書式。手配の速さ。どれも——個人の思いつきではなく、誰かの計画に基づいている。


 ——やっぱり。セバスチャンが裏で動いてる。


 セレーナは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。呼吸を一つ、深く吐く。


 そして——左の口角だけを、ゆっくりと持ち上げた。


 ——知略で私に挑むつもり?

 上等よ。そっちがその気なら、私も全力で迎え撃つ。


「アリサ」


「はい、お嬢様!」


「舞踏会のドレス、見繕ってくれる? —— 一番目立つやつを」


 アリサの目がきらりと輝いた。


(つづく)

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