第4話「忍び寄る影」
その頃、セレーナの知らないところで——物語は別の顔を見せ始めていた。
アルト・デュラハンは自室の窓辺に立ち、その空を見るともなく見ていた。手にしたグラスのワインが、わずかに揺れている。
窓の外では、夕暮れの空が橙色から藍色へと移り変わっている。
彼の頭の中で、昨日の光景がこびりついて離れなかった。
セレーナ・フォレスター。大貴族フォレスター侯爵家の正当な継承者。己の欲に素直で世間知らずな令嬢——のはずだった。
今までなら、甘い言葉をいくつか囁けば、すぐに頬を染めて自分に夢中になる。特にセレーナのようなプライドの高いタイプは、扱いやすいはずだった。
(どうして急に、あんなに厄介な女になったんだ……?)
アルトはグラスを窓枠に置き、大きく息を吐き出した。
昨日のセレーナは——別人だった。
あの微笑みの奥にあった、底の知れない冷静さ。今まで自分を崇拝するような態度を取っていたはずの彼女が、まるでこちらの心の奥底を覗き込むような質問を、柔らかな声で投げかけてきた。
屋敷のこと。準備のこと。アリサを手伝いに寄越すという、あの提案。
すべてが——こちらの計画を見透かしたように的確だった。しかも急所を、正確に突いてきていた。
(これではまるで……俺が追い詰められているみたいじゃないか)
アルトは苦笑した。だが、その笑みはすぐに消えた。
セレーナはただの駒だったはずだ。彼女との婚姻が成立すれば、フォレスター家の莫大な財産は自分のものになる。その計画は周到に練り上げられていた。
それが今、揺らぎ始めている。
だが——それ以上に彼を困惑させているのは、計画のほうではなかった。
(なぜ……俺は、こんなに彼女のことが気になっているんだ)
アルトは髪をかきあげた。指の間を金色の毛が滑っていく。
セレーナの顔が浮かぶ。
あの笑顔。穏やかで、無邪気で、どこまでも柔らかい——のに、瞳の奥だけが、異様に澄んでいた。
あの透明な青い眼差しに見つめられた瞬間、自分の内側にある空虚さが、丸ごと見抜かれたような感覚があった。
(こんなはずじゃなかった。俺は財産が目当てで近づいただけだ。だが——彼女をもっと知りたいと思う自分がいる)
グラスに手を伸ばし、ワインを一口含んだ。渋みが喉を焼く。
その苦味すら、昨日のセレーナの紅茶を飲む横顔を思い出させた。
——扉が、静かにノックされた。
「アルト様、お客様がお見えです」
執事の声に、アルトは我に返った。
扉が開く。
その向こうに立っていたのは——銀髪の男だった。
セバスチャン・フォン・クロイツネル。
グレースフィールド公爵家の令嬢、バイオレット・グレイスフィールドの執事にして、知略知謀に長けた男。三十三歳。凛々しく、容姿端麗。感情をほとんど表に出さず、冷静で優雅なその佇まいには一切の隙がない。
ただし令嬢バイオレットの執事でありながらも、代々王家の参謀を務めるクロイツネル公爵家の三男であり、社交界では知らぬ者のいない名だ。
「おお、セバスチャン……わざわざすまないな」
アルトは彼の姿を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
セバスチャンならば、この計画を軌道修正できるはずだ。
なぜなら——この策略を考えたのは、他ならぬセバスチャンなのだから。
アルトはすぐに彼を部屋に招き入れ、窓辺から離れた応接用の椅子を勧めた。
「久しぶりだな、アルト。で……急ぎの要件とはなんだ」
セバスチャンは静かに腰を下ろした。その動作は流水のように滑らかで、衣擦れの音すらほとんどしない。穏やかな声。穏やかな表情。
だが、その眼差しだけが——研ぎ澄まされた刃のように、アルトの一挙一動を捉えていた。
「実は、昨日セレーナとの話で少し……いや、大いに戸惑っているんだ」
アルトは自分の執事に、ダージリンのアールグレイとミルクを別で用意するよう指示した。
セバスチャンは紅茶に異様なこだわりがある。茶葉の銘柄、蒸らしの時間、ミルクの温度——すべてに独自の流儀があり、指定のセットでしか飲まない。そういうものに無頓着なアルトとっては理解し難い拘りだ。
だがセバスチャンにとってそれは、策略に必要な儀式なのだという。
紅茶が運ばれてくるまでの間、アルトは昨日の出来事をセバスチャンに語った。
セレーナの変化。あの冷静な微笑み。屋敷への訪問をほのめかされた時の動揺。アリサを寄越すという提案に、咄嗟に返答できなかったこと。
セバスチャンは静かに耳を傾けていた。瞬きの頻度が——わずかに減っている。集中している時の、この男の癖だ。
「彼女は以前と違って、妙に冷静で、まるで俺を見透かしているような発言をしてくる。そう、まるで別人みたいだった……」
アルトの言葉に、セバスチャンは薄く微笑んだ。
紅茶が運ばれてくると、まずカップを鼻に近づけ、アールグレイのベルガモットの香りを確かめた。満足したように頷き、ミルクを三滴——正確に三滴——垂らす。その数は茶葉の発酵度と香りの強さに応じて決まっているらしい。
暫く湯気を眺めた後。ゆっくりとカップを口元に運び、一口含み、目を閉じて余韻を楽しんでいる。
そして——目を開けた。
その目の色が、一瞬前とは違っていた。
穏やかさの裏に、冷徹な計算が浮かび上がっている。
「ふむ。たしかにセレーナに何らかの変化の兆候がある。しかし、それに惑わされるな、アルト」
セバスチャンは落ち着いた声で語り始めた。カップをソーサーに置く音が、静かな部屋に小さく響く。
「セレーナとの婚約はお前の勝利への鍵だ。彼女の財産はお前にとって必要不可欠。だからこそ——彼女に主導権を握らせてはならない」
セバスチャンの指が、テーブルの上で何かを弾くように動いた。癖だ。思考が加速している時に出る、この男特有の動作。
「だからこそ、新たな手を打つ必要がある」
「新たな手……?」
アルトが身を乗り出した。
「次にお前がすべきは、セレーナの退路を断つことだ」
セバスチャンの声が、わずかに低くなった。
「退路を断つ……?」
「それには、彼女のプライドの高さを利用する」
「具体的には?」
「来週、王城で開かれる舞踏会にセレーナを誘い出せ。公の場で親密な関係を見せつけろ。そして王族や貴族たちが見守る場で、婚姻を宣言しろ」
「なるほど……彼女が引けない状況を作り出すってことか」
たしかにセレーナはプライドが高い。公衆の前で親密さを演じさせれば、彼女は後に引けなくなる。貴族社会において、舞踏会での振る舞いは婚約の公式な宣言に等しい。一度そこで手を取れば、破棄は醜聞になる。
しかしアルトは一瞬、躊躇した。
昨日のセレーナの顔が浮かぶ。あの澄んだ目。あの微笑みの奥にある、得体の知れない何か。
「だが、今のセレーナが思惑通りに動くかどうか……」
アルトの不安げな顔を見て、セバスチャンは静かに笑った。
口角の変化はわずか。だが、その目の奥には——確信が灯っている。
「心配するな。今回の舞踏会には、バイオレットも出席する」
その名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
「セレーナならば……彼女の前で、お前との親密さを見せつようとするだろ」
「なるほど……バイオレットがいれば必ずそうするはずだ。それに乗じて俺から婚姻を宣言すれば、拒むことはできなくなるということか」
アルトは納得し、満足げに頷いた。セバスチャンの計略はいつも完璧だ。これまで、彼の指導の下で計画は順調に進んでいた。
だが——アルトには、一つだけ打ち明けたいことがあった。
「あと……セバスチャン、じつは昨日から、セレーナに対して今までと少し違う感情を抱いているんだ……」
沈黙が落ちた。
セバスチャンの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
表情に変化はない。声のトーンも変わらない。だが——カップを持つ指の力が、わずかに強まった。磁器の取っ手に添えた人差し指の関節が、ほんの少しだけ白い。
これまでの会話の中で、セバスチャンはアルトの心の動きをとうに察知していた。声の震え方。セレーナの名を口にする時の微妙な間。語尾に混じる、困惑とは別の——熱。
「感情に流されるな、アルト」
セバスチャンの声は冷静で、感情の揺れを一切見せなかった。
「彼女はただの駒だ。お前が得るべきものを手に入れるために存在している。そのために、私はお前をサポートしているのだ」
その言葉には、有無を言わせぬ重みがあった。
セバスチャンの目的は別にある。その成就のためにアルトを利用し、セレーナごとフォレスター家を排除する——。それが彼の策略の全体像だった。
アルトは、その冷たい声に押されるように頷いた。
「分かったよ、セバスチャン。俺は計画をしっかり遂行する」
セバスチャンの思惑が何にせよ、アルトとしては、フォレスター家の資産を得られれば良いのだ。そして、セレーナも。
だが——胸の奥で何かが軋んだ。セレーナに対する「駒」という言葉が、昨日とは違う重さで響いている。
アルトはその違和感を振り払うように、グラスの残りを飲み干した。
* * *
セバスチャンは立ち上がった。
「では、私は準備を進めよう。舞踏会には私も同行する。お前の計画を完璧にするためにな」
穏やかな微笑み。完璧な所作。
アルトは深く頷き、その背中を見送った。銀髪が夕暮れの光を受けて、冷たく輝いている。凛々しい姿には一切の隙がなく、すべてを掌握しているような自信に満ちていた。
扉が閉まる。
廊下に出たセバスチャンは、歩きながら顎に手を当てた。
「セレーナの変化か……」
呟きは、誰に向けたものでもない。
アルトの報告を聞きながら、セバスチャンの頭の中ではいくつもの仮説が生成され、検証され、棄却されていた。
セレーナ・フォレスター。感情的で、自尊心だけが高く、容易に操れる令嬢——それが、これまでの評価だった。アルトを使って彼女の財産を吸い上げることで、バイオレットの脅威となるフォレスター家を排除する。完璧な計画だったはずだ。
だが——「別人に見える」という、アルトの違和感が杞憂でなく、事実なら。
愚かな悪の令嬢、セレーナ・フォレスターを操るるという、計画の根幹が崩れる可能性がある。
「屋敷の状況を探るような質問をしてきた……か」
——偶然か、あるいは——。
セバスチャンは足を止めなかった。月明かりが差し込む廊下を、静かに歩いていく。
「念のため、警戒しておこう」
月夜の中を颯爽と歩きながら、セバスチャンは薄ら笑みを浮かべた。
その笑みは——アルトに見せたものとは、まるで別の温度をしていた。
(つづく)




