第14話「仮面の魔女 レディ・ルミナス」
銀の仮面が、冷たい。
指先で縁をなぞり、頬にあてる。金属の重みが肌に馴染むまで、セレーナは鏡の前で呼吸を整えた。
仮面の奥から見える世界は狭い。視界の端が銀色に遮られ、まるで別の誰かの目を通して覗いているような感覚がある。
——悪くない。
むしろ、この感覚のほうが自然だった。セレーナ・フォレスターでもなく、佐藤真奈美でもない。どちらの名前も重荷も、仮面が遮ってくれる。
仮面のおかげで——謎の婚活カウンセラーでいられる。
緩やかに波打つ銀の仮面に、落ち着いた色合いのドレス。鏡に映る姿は、貴族の令嬢というよりも、どこか異国の占い師のようだった。
「レディ・ルミナス」
自分で名乗ってみる。仮面越しの声は少しくぐもって、別人の声に聞こえた。
——上出来。
* * *
バイオレットの屋敷の一角に設えられた相談室は、柔らかい陽光が差し込む小さな部屋だった。窓際に花が活けられ、テーブルの上にはティーセットが並んでいる。
バイオレットの趣味だろう。相談者の緊張を解くには申し分ない空間だった。
「ねえセレーナ……レディ・ルミナスとして演じ続けるのって、大変じゃないの?」
バイオレットが仮面の奥を覗き込むようにして言った。ここ数日で、二人は敬称なしで呼び合う仲になっている。
「いいえ。この格好も、話し方も——意外と楽なのよ」
嘘ではない。仮面をつけている間は、セレーナでも真奈美でもない「誰か」になれる。前世のカウンセリングルームに座っていた頃の自分に、いちばん近い。
「もうすぐリリィが来るわ」
バイオレットの声が少し硬くなった。唇を薄く噛んでいる。
「大丈夫?」
——バイオレットから、緊張を感じる。
「……正直に言うと、少し不安で。リリィは私には婚約相手の悩みを話してくれていたけれど——初対面の仮面の人物に、本音を明かせるかしら」
「明かせなくて当然よ。貴族の婚姻は政治で、本音は弱点になる。だから——」
セレーナは右手の中指で、軽く眉間を押さえた。
「——引き出すの。それが私の仕事」
バイオレットが小さく息を呑んだ。その目に、不安とは別の光——期待のようなものが混じった。
廊下の奥から、靴音が近づいてくる。
「来たわね」
セレーナは姿勢を正し、仮面の位置を確かめた。
* * *
リリィ・アルバートは、背の高い華奢な女性だった。
ブロンドの髪を丁寧に巻き上げた美しい容姿。清楚で、姿勢がよく、一目で良家の令嬢だとわかる。
だが——表情が暗い。
いや、暗いのではない。表情を「作っている」のだ。口元に浮かべた微笑みと、目の奥の温度が合っていない。社交の場で何百回と練習した笑顔が、無意識に貼りついている。
キリコの案内で部屋に入ったリリィは、仮面のセレーナを見た瞬間、わずかに足を止めた。肩が上がり、呼吸が浅くなる。
——警戒。当然ね。
「リリィ様、どうぞおかけください」
セレーナは声のトーンを意識的に落とし、ゆっくりと話した。カウンセリングの基本。相手より低い声、相手より遅い速度。それだけで人は少しだけ安心する。
リリィが椅子に腰を下ろした。背筋は伸びたまま。膝の上で両手を重ねているが、右手の親指が左手の甲を無意識に擦っている。
——自己安撫の動作。かなり緊張している。
セレーナは紅茶を注いだ。湯気が立ちのぼり、ベルガモットの香りが部屋に広がる。
「私はレディ・ルミナス。貴族の皆様の『婚活』をお手伝いしております」
カップを差し出す。リリィはそれを受け取ったが、口はつけなかった。カップの縁を見つめたまま、視線が定まらない。
「早速ですが——お話を聞かせていただけますか?」
リリィはバイオレットを一瞥した。バイオレットが小さく頷く。それを確認してから、リリィは背筋をさらに伸ばし——話し始めた。
「実は……ある貴族の方との縁談が進んでおりまして。身分は高く、家柄も申し分なく……将来を見据えたご縁としては最適だと、家族からも言われております」
言い慣れた台詞だった。
声のトーンが均一すぎる。抑揚がない。まるで暗記した文章を読み上げているように、言葉だけが滑らかに流れていく。時折、瞳の焦点が揺れている。
——「相手」の話をしているのに、一度も相手の名前を呼ばない。
セレーナは紅茶に口をつけながら、リリィの手元を見ていた。カップを持つ指が白い。力が入っている。
——身分、家柄、将来。全部、他人の評価軸。会話の中に、この子自身の言葉が、一つもない。
「……リリィ様」
「はい」
「一つ伺ってもよろしいですか」
「ええ、もちろん」
彼女は一瞬で、定型文のような笑顔を作る。
「その方と最後にお会いになったとき——楽しかったですか?」
リリィの指が止まった。
ほんの一瞬。だが、その一瞬にすべてが出ていた。目が泳ぎ、唇が開きかけて閉じ、視線がテーブルの上の花に逃げた。
——答えられない。「楽しかった」と嘘をつくことすらできないほど、本音と建前が乖離している。
「……楽しいかどうかは、結婚において重要なことではないと思います。貴族として、家のために——」
「それは、誰の言葉ですか?」
リリィの声が途切れた。
沈黙が落ちる。窓の外で鳥が鳴いた。
「リリィ様。私がお手伝いするのは——"本音の婚活"です」
「本音の……?」
「ええ。取り繕った条件を並べるのではなく、あなた自身が心から望む成婚を叶える。それが私の仕事です」
リリィは黙ったまま、カップの中の紅茶を見つめていた。水面に映る自分の顔を見ているのかもしれない。
「でも——初対面の、お顔も知らない方に……」
「ええ、信じられなくて当然です」
セレーナは穏やかに言った。焦らない。急かさない。
「けれど——一つだけ、断言できることがあります」
「……なんでしょうか」
「リリィ様が本当に結婚したい相手は、今お話しされた方ではありませんね」
空気が変わった。
リリィの肩が震えた。カップを持つ手から力が抜け、ソーサーに磁器が触れる小さな音が響いた。
「な——なぜ、そんなことが……」
「お話しされている間、一度もその方のお名前を呼ばなかった。家柄や身分の話をするとき、あなたの目は真っ直ぐ前を向いていた。けれど——『将来を見据えたご縁』と言った瞬間だけ、視線が右下に落ちた」
セレーナは左の口角を、わずかに上げた。
——右下に視線が落ちるのは、感情を抑え込んでいるときの人間の癖だ。
「あなたは——その縁談の話をするたびに、本当の気持ちを押し殺している」
リリィの目が大きく見開かれた。唇が震えている。
「ちがいますか?」
「……それは」
「他に——想いを寄せている方がいらっしゃるのではないですか?」
長い沈黙。
バイオレットが息を詰めて二人を見守っている。
やがて——リリィの目から、一筋の涙がこぼれた。
「……います」
声が、小さく割れた。
「彼は……大きな貴族の家ではありません。でも、彼と一緒にいると——何も取り繕わなくていいんです。笑いたいときに笑えて、黙っていても苦しくなくて」
言葉が溢れ出すように続いた。堰を切ったように。
「——身分が、家柄が……家族が、そんなの許すはずがない……」
「それで、諦めようとした」
「……はい」
「でも、諦めきれてない」
「……っ」
沈黙。
「はい……」
リリィは俯いたまま、小さく頷いた。
セレーナは紅茶のカップを両手で包んだ。磁器の温もりが、掌にじんわりと伝わる。
「リリィ様。あなたの気持ちは、間違いではありません」
「でも——貴族としては……」
「身分や家柄が大切でないとは言いません。けれど——それは、方法の問題です。解決できる」
リリィが顔を上げた。涙で濡れた目が、仮面の奥のセレーナを真っ直ぐに見ている。
「あなたが本当に望むなら——私が、必ず成婚に導きます」
「……本当に?」
「ええ。必ず」
事実、佐藤真奈美が『必ず』と宣言した際の成婚率は、100%だ。
—— 一度も、この約束を破ったことはない。前の世界でもそれは、私の絶対。
「身分の壁も、家柄の問題も、方法はあります。大切なのは——あなた自身が、その幸せを望むかどうか」
リリィの手が、膝の上でぎゅっと握られた。今度は自己安撫ではない。決意だった。
「……お願いします」
声は震えていたが、目はもう泳いでいなかった。
「レディ・ルミナスさん。私——本当に望む人と、彼と……結婚したいです」
その言葉に、セレーナは静かに頷いた。
「ようこそ、ウィッチ結婚相談所へ」
* * *
リリィが帰った後、部屋に沈黙が残った。
バイオレットが、長い息を吐いた。
「……すごかった」
「何が?」
「全部よ。リリィの本音を——あんなふうに引き出せるなんて」
セレーナは仮面を外した。頬に残る金属の冷たさが、少しずつ体温で消えていく。
「引き出したんじゃないわ。リリィ様がご自分で話してくれたの。私はただ——扉の前まで案内しただけ」
「でも、その扉がどこにあるか、誰にも見えなかったのに——あなたには見えていた」
バイオレットの声に、感嘆とも畏れともつかない響きがあった。
——買い被りすぎよ。
そう言おうとして、やめた。代わりに窓の外に目をやる。午後の陽が傾き始め、庭の薔薇に長い影が落ちている。
「次の相談者は、いつ来るの?」
「明後日です。今度は男性の方。キリコが紹介してくれた方で——」
「そう」
セレーナはテーブルの上の冷めた紅茶を一口飲んだ。
——これで、一人。
リリィの成婚が実現すれば、バイオレット陣営に新たな繋がりが生まれる。ベルトラムが作り上げた婚姻の支配構造に、小さな亀裂が入る。
一組の成婚が、一つの亀裂になる。
亀裂が重なれば——壁は崩れる。
セレーナは空になったカップを置き、仮面をそっとテーブルに載せた。
銀の表面に、窓からの光が反射して揺れている。
「バイオレット」
「なに?」
「いい相談所になるわ。ここは」
バイオレットが、ふわりと笑った。その笑顔に返事をする代わりに、セレーナは二杯目の紅茶を淹れた。
(つづく)




