第12話「魔女の茶会」
庭園に一歩踏み入れた瞬間、薔薇の香りが全身を包んだ。
白い石畳が木漏れ日を受けて柔らかく光り、左右に整えられた花壇にはピンクやクリーム色の薔薇が風に揺れている。グレイスフィールド邸の庭園は、その主人の性格をそのまま映したかのように、華やかでありながら品がよかった。
——さすがね。庭にまで人柄が出ている。
広場の入り口に、人影が待っていた。
「はじめまして、セレーナ様。私は執事セバスチャンの代理でキリコと申します。本日はバイオレット様のお付きとして参りました」
整った顔立ち。やや長めに整えられた青い髪と、涼しげな瞳。細身のスーツが完璧に仕立てられ、立ち姿にも隙がない。
——セバスチャンと同系統の上品さ。ただし、纏っている空気がまるで違う。
セバスチャンが鋼の緊張感を漂わせるのに対し、この人物には不思議な親しみやすさがあった。温和で、人懐こくて、裏表がない——少なくとも、表面上は。
セレーナは微笑みを返しながら、青い瞳は既に情報を拾い始めていた。
——歩き方。重心が……ほんの少し後ろ寄り。
腕の振り方が控えめ。肩幅に対して歩幅が狭い。
これは——。
思考の途中で、一旦棚に上げた。今はまだ確信がない。
「お初にお目にかかります、キリコさん。セバスチャン殿の代理とのこと、恐れ入ります」
「いえいえ、堅くなさらないでください。セバスチャン様からは、セレーナ様にお言葉を預かっております」
「お言葉?」
「——"過ぎた時間は巻き戻せない"……だそうです」
キリコがにこりと微笑んでその言葉を伝えた。まるで天気の話でもするように自然な調子だったが、セレーナの頭の中では瞬時に解析が始まっていた。
——過ぎた時間は巻き戻せない。
バイオレットとアルトの過去に固執するな、という意味?
それとも——旧いセレーナはもういないと、こちらの変化に気づいているのか。
どちらにせよ、あの男らしい言い回しだった。一見素っ気ないが、複数の解釈を許す。どう受け取るかで、相手の器を測ろうとしている。
——試されてるわね。でも嫌いじゃない、こういうの。
「承知しました。セバスチャン殿にはよろしくお伝えください」
涼しい顔で答えた。内心の分析を微塵も見せずに。
キリコはその反応を興味深そうに見つめていたが、すぐに「ではこちらへ」と先導し始めた。
その背中を追いながら、セレーナの目がもう一つの情報を拾う。
——声のトーン。意識的に低くしている。でも語尾に向かって、わずかに上がる瞬間がある。
これは地声が高い人間の癖。
さきほどの歩き方と合わせると——。
セレーナは口元だけで微笑んだ。結論は急がない。もう少し材料を集めてから。
* * *
庭園の奥に設えられたティーテーブルに、バイオレット・グレイスフィールドが座っていた。
白いワンピースに淡い紫のショール。風に髪がなびくたびに、柔らかい花の香りが漂う。
(セレーナ様が突然会いに来るなんて……何かあったのかしら。あの方は舞踏会の夜から、まるで別人のように見えた——ずっと、気になっている)
バイオレットは紅茶のカップを両手で包みながら、自分の鼓動が少しだけ速くなっているのを感じていた。
「セレーナ様、お越しいただきありがとうございます」
立ち上がって出迎えるバイオレットの笑顔は、相変わらず美しかった。純粋で、裏がない——少なくとも、そう見える。
——でも私は知っている。この子の「純粋さ」は、武器でもある。
「こちらこそ、突然のお願いにもかかわらず。お忙しいところ、ありがとうございます」
二人が向かい合うように丸テーブルに座り、それぞれの脇にアリサとキリコが控えた。紅茶が注がれ、最初の一口を互いが飲んだタイミングで——セレーナは本題を切り出した。
「実は今日は——少し、アルト様についてお話させていただきたくて」
「……アルト様の? なぜ私に?」
バイオレットの瞳に、一瞬だけ感情の波が走った。それを即座に微笑みで覆い隠す。
——その切り替えの速さ。やはり、この子は強い。
「最近のアルトは少し……心にぽっかり穴が空いたようなところがあるの。先日の舞踏会でお二人がダンスをされていた時、彼の表情に——後ろめたさのようなものが見えた」
「……」
「もしかしたら彼は、まだ、あなたへの想いを整理できていないのかもしれない」
バイオレットは目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。
「でも、アルト様が選んだのはセレーナ様です。私はもう……過去にこだわるつもりはありません」
静かで、決然とした声。だがセレーナの目は、テーブルの下で——バイオレットの右手がスカートの裾をぎゅっと握っている指先を見逃さなかった。
——言葉と、身体が違うことを言っている。
この子はまだ、痛みの中にいる。
「いまさら信じていただけないかもしれないけど——今の私は、あなたにも、アルトにも、不幸になってほしくないの」
バイオレットがゆっくりと顔を上げた。
「もし彼が、あなたの元に戻りたいと言い出したら——私は止めないつもりよ」
「——え?」
バイオレットの目が見開かれた。その隣で、キリコも僅かに眉を動かしている。
「セレーナ様、それは——ご自身の婚約を……?」
「私が言いたいのはね、バイオレット。あなたが無理に忘れる必要はない、ということ」
——未練は醜いものじゃない。本音を押し殺して笑うことの方が、ずっと辛い。
「過去にこだわるなとか、前を向けとか、そういう言葉は無責任よ。自分の気持ちに正直でいること——それが一番大事なの」
沈黙が落ちた。風が薔薇の花弁を一枚、テーブルの上に運んできた。
バイオレットの唇が微かに震えた。しかし涙は見せない。代わりに小さく「ありがとうございます」と呟いた。
——強い子。
でも、だからこそ危うい。
ここで沈黙を破ったのはキリコだった。
「セレーナ様は本当に魅力的な方ですね。アルト様が惹かれるのも、納得です」
軽い口調。だが目は笑っていなかった。セレーナの真意を測ろうとしている。
——この人、表は気さくだけど頭は切れる。セバスチャンが代理に選ぶだけのことはある。
だがそれ以上にキリコの言葉に反応したのは、アリサだった。
「キリコさん! セレーナ様には婚約者がいらっしゃいます! 惑わさないでください!」
声が少し尖っている。頬が赤い。
——アリサは本当に鋭い子だわ。今の一瞬で、キリコの声の裏にある心情を見抜いたのね。
キリコは穏やかに肩をすくめた。
「思ったことを言ったまでですよ。聞いていた噂とは……だいぶ違いますからね」
「噂、ね」
セレーナは軽く笑った。
「どんな噂かは大体想像がつくわ。でも——噂は噂よ」
そう言いながら、セレーナの視線はキリコの手元に向いていた。ティーポットを持つ指先。カップをテーブルに置く動作。
——指が細い。関節も繊細。これは男性の骨格ではない。
先ほどからの違和感が——確信に変わった。
「……キリコさん」
「はい?」
「あなた——女性でしょう」
庭園の空気が、一瞬で変わった。
アリサが目を丸くしてキリコを凝視している。バイオレットは驚いた表情を見せたが、完全な驚きではない。
キリコは数秒の沈黙の後、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……さすがですね、セレーナ様。一目で見抜かれたのは初めてです」
「一目ではないわ。三つ、手がかりがあった」
セレーナは指を一本立てた。
「まず、歩き方。あなたは重心がやや後ろ寄りね。これはスカートを履く習慣のある人間に共通する歩行パターンよ。ズボンを履く男性は、無意識に大股で重心を前に置く。あなたの歩幅はそうなっていない」
二本目の指。
「次に声。意識的にトーンを下げているけれど、話しているうちに語尾が自然に上がる瞬間がある。地声の高さが、ふとした拍子に漏れている」
三本目。
「そして指先。ティーポットを持つとき、男性は握り込むように持つけれど、あなたは指先で添えるように持っている。手が小さい人間の——つまり、女性の持ち方」
キリコは一つ一つの指摘に、感心したように頷いていた。
「完敗です。いやぁ、ここまで具体的に言い当てられると、もう隠しようがないですね」
「でも、なぜ? どうして?」
アリサが食い入るようにキリコを見つめている。
「深い意味にとらないでくださいな」
キリコは片手を振った。
「私はこういう格好が好きなんだ。それに——余計な虫がつかないからね。ただ、家にいる時は女性に戻るんだけど」
そう言って、アリサにウインクを飛ばした。
アリサは瞬時に顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「私は——あなたのその生き方、好きよ。とても似合っているし、良いと思う」
セレーナはキリコを見て肩をすくめ、軽く笑った。
「ありがとうございます。あのセバスチャン様が気にされるのも納得です——私もセレーナ様が好きになりました」
キリコの屈託のない笑顔に——。
——ああ。まずい。
セレーナの心臓が、不意に跳ねた。
凛とした女性が男装して微笑む、この距離感。前世の真奈美が心の奥から手を振っている。
——この人、好きなタイプに近い。かなり。
だが、セレーナは紅茶のカップを口元に運び、一口含んだ。温かい液体が喉を通る間に、感情を棚に上げる。
——落ち着きなさい。今日は仕事で来たのよ。
「少し席を外させてもらえるかしら? 化粧室をお借りしたいの」
バイオレットが頷き、セレーナは静かに席を立った。
* * *
化粧室に入ると、セレーナは思わず深呼吸した。
「ああああああ……やばい、キリコって、まさに私の推し設定なんですけどぉ!?」
一人になると、抑えきれない興奮が噴き出してきた。前世の真奈美は某女性歌劇団の大ファンだった。特に男役に惚れ込んだ推しもいた。
そんなオタク気質が、リアル男役を目の前にして限界化寸前だった。。
「うわぁぁ、ほんまにヤバい……顔にでちゃう」
——あの表情、あの仕草。女を抑えた低音ボイス……うわぁぁもう完璧すぎる!
しかし、すぐに自分顔をパチンと挟むように叩く。
その痛みで、心を落ち着かせる。
——ダメよ。私はここに何をしに来たのか忘れないで!
深呼吸し、手を洗った冷たいてで両頬を包む。
痛みがジワジワ引いていく。
——よし……しっかりするのよ、セレーナ。
今日はバイオレットとの信頼を築くために来たんだから。
セレーナは深く息を吐いた。
——いい。ここまでは順調。
バイオレットとの距離は確実に縮まっている。
鏡に映る自分の顔を見つめた。青い瞳が光を受けて、薄く輝いている。
鏡の中の自分に向かって、軽く首を振った。
「よし、ここからが本番よ」
——もし今日の提案に、バイオレットが首を縦に振らなければ。
ベルトラム攻略の第一歩が踏み出せない。
セレーナは、ぎゅっと心を引き締めた。
(つづく)




