第八章 成田基地での攻防
第八章 成田基地での攻防
翔子と『震電』が東の空へ飛び立つ前、岩和田少佐は総合指令室の滑走路に面した一角で、時任修巳司令と話をしていた。
彼は翔子達と別れるとまずは試験隊長の元へ行き、そろそろ試験が始められる事を伝えた。翔子の人間性を疑問視するという、単なるグチを混ぜ込みながら。
それを聞かされた時任義次隊長は表面上「それだけ若いって事でしょうな」などと軽く受け流していたが、内心では部下に等しい自慢の下官を悪し様に言われ、今までの鬱憤と共に叩き付けてやろうかと思っていた。実際には他への迷惑を考え、その拳は握りしめるに留まったが。
隊長への報告が終わると、岩和田少佐は続いて司令本部に赴き自分の用を済ませた後、今度は時任司令に先程同様の報告を行った。
司令も隊長と同じ感想を抱く。しかも自分は命令系統こそ違えど岩和田の上官になるのだ。それも少将対少佐と階級差はかなり大きい。のでいざとなれば自慢の肉体から繰り出される鉄拳を岩和田に喰らわせてやれるのだ。もっともそれは空軍の規律からは外れた行為だし、本気で殴れば病院送りで済まない可能性もある。地位にはさほど興味はないが、岩和田のために人生棒に振るのは御免だ。だから余程の事がなければ自重する必要がある。幸い自分の堪忍袋にはまだ充分余裕がある。その緒が切れない内に早く航技研に帰ってくれないか、そう本気で思う時任司令であった。
そんな感じだから司令室内という狭い空間で、岩和田の話を聞いていたくはない。そのため隣にある広い総合指令室で試験でも見ながら話そうと誘ったのだ。岩和田少佐が試験隊詰所に戻ろうとしてなかったから。
「それにしても司令は立花少佐の事を買っているのですねえ」
正面の試験隊詰所を中心に滑走路、いや基地全体を見渡しながら岩和田少佐はしみじみと言う。折しも丁度『試製震電』が格納庫からエプロンに出てきて、始動準備を始めた時だった。岩和田少佐の声には自分には理解できないという響きが含まれていて、その事は誰の耳にも明らかだった。当然時任司令も気付いており、腹は立ったが今はまだ争う時ではないと敢えてスルーする。
「そりゃあ、あれだけの腕と度胸を持ったパイロットは男にも中々いやあしない。だから最初はあいつをウチの試験隊に欲しいと茂原には打診したんだが、本人がどうしても嫌だと言うもんでなあ。代わりと言っちゃあ悪いが、それで沢渡に来てもらったんだ」
岩和田には分からんと思うが、これが俺の本音だとばかりに司令は胸を張って言い切った。案の定岩和田少佐は理解に苦しむという感じに首を振る。
「それは技量の方は優秀なんでしょうけど、性格の方はもう少し何とかならないものなのでしょうかねえ。目上年上に対する態度が全くもってなってません。これでは軍隊という組織の規律を保つ事ができないじゃあありませんか」
「あいつらは女学校もまともに出てないような歳から、軍隊なんていう男社会に入ってきたんだ。少しくらい強気に出ないとなめられると思って、あんな態度で接してくるんじゃないか? 少なくとも俺は悪い気はしてないぞ…若い娘から気軽に接してくれる事に対しては」
お前の態度に比べれば余程な、つい岩和田に対する本音が続いて出そうになったから、時任司令はエロ親父的な言葉を強引にくっつけてそれをごまかした。その言葉に岩和田少佐は露骨に嫌な表情をする。
翔子達について岩和田少佐が責め、時任司令が擁護するという図式ができあがり、お互い引くに引けない状況が構築された。
がそんな中『震電』が誘導路を比較的ノロノロと進み出す。
「おや、ようやく始まりましたか」
その様子が目の端に止まった岩和田少佐が嫌味っぽく口に出す。すると時任司令は窓を開け、身を乗り出すように『震電』を目で追った。ある意味水を差された形になったが、お互いケンカしても面白くないので、どちらが言い出すという訳でもなく、一時休戦とばかりに試験を見守る事にした。少佐は翔子が『震電』の扱いに手こずる姿を、司令は上手く乗りこなしてくれる姿を期待して。
一度目のジャンプ飛行は少佐を喜ばせる結果に終わった。翔子がアワアワしている様子が目に浮かぶような『震電』の挙動だったから。
少佐の瞳は歪んだ喜びにキラキラとして、小声で「いい気味です。じゃじゃ馬でも本物のじゃじゃ馬を扱うのは難しいようですね」と、楽しげに本音を漏らす。かなりご満悦のようだ。
反面司令は頭を抱えて「頼むぜ立花~」と、いつもの翔子からは考えられない程苦戦している様子に、堪らずすがるような声を出していた。
が二度目の試験は両者共に肝を冷やすものであった。まだ慣れたとは普通言えない二度目の飛行であるにも関わらず乱暴な操縦をしたものだから、心配で堪らなくなったのだ。司令は純粋に翔子の身を案じて、そんな危ない試験はもっと飛行時間を増やしてからにしてくれと思いながら。
だが少佐は大切な『震電』を壊されては一大事と、一度目の時とは異なりかなり青ざめた表情で、翔子による試験をここで切り上げさせようと、試験隊詰所にいる2人の部下に連絡を取ろうとする。
すると『震電』が誘導路を通り、格納庫の方へ戻っていくのが見えた。やはり脚に不具合でも出たのだろう。だが滑走自体は問題なさそうに見える。と言う事は大きな故障ではないと確信し、岩和田少佐は泣き言を言ってくるまで待ってやろうと、安心するのと同時に、これで嫌味の1つも言えると機嫌を取り戻していた。
「立花少佐も調子に乗りすぎましたかねえ。だから軽率にも試験中の機体を損傷させてしまうのですよ」
実際には何が起きているか知らない岩和田少佐が、今が責め時とばかりに口撃に出る。
「私だって女性の社会進出については、けしからんなんて古くさい考えは持っておりませんよ。でもだからと言って皆が皆立花少佐のように振る舞っていたら、慎ましい大和撫子という、日本の古き良き伝統が崩れ去ってしまうではないですか。今日初めて会ってすぐに言うのも何ですが、立花少佐は少し図に乗っているように私には見えます。それは周りの大人達が彼女をいい気にさせ過ぎているからだと思うのですがねえ」
この野郎。岩和田少佐の言葉に時任司令はマジでブチ切れそうになる。岩和田は翔子をバカにするに飽きたらず、返す刀で自分を含めた翔子に関わる者全てをぶった切ってきたのだ。
お前はどれほど偉いんだよ、と拳を振り上げ、そして振り下ろしたくなる衝動に駆られたが、仏様だって三度目までは無礼非礼を咎められない。ならばもっと矮小な存在である自分は、それ以上に耐え忍んでいかなければ、その境地に近付く事などできないと、何とか自分を抑え付けた。敬虔な仏教徒である時任司令らしい自分の静め方だ。しかし自分が落ち着いてくると、岩和田の事は少し諫めないといけないだろうと思うようになる。もちろん拳ではなく言葉で。でないとこの男はますます図に乗る。それは本人にとっても周囲の者にとっても不幸な事だ。だから上官として、問題にならない程度の言葉を使って、岩和田少佐を窘める事にした。
「俺には貴官の方が図に乗っているように思えるがな」
「はあっ!? それは一体どういう事です!?」
時任司令は務めて穏やかに言った。だがそれに対する岩和田少佐の反応は激しいものであった。顔を真っ赤に染め、切れ長の目を大きく真ん丸に見開いて。
それだけ当人にとっては予想外の一言だったのだろう。当然翔子に対する擁護や弁明などは想定していたし、場合によっては暴力的な言葉が返ってくるだろうとも考えていた。
それがまさか自分をソフトに口撃してくるなんて想定外の事であり、故に対処法も考えていなかった。だから思わずキレてしまったのだ。
言葉のやりとりではキレてしまった方が負けと言うのが彼の持論である。ので相手をキレさせて自分を有利に持っていく。それが彼の「敵」に対するやり方だった。
しかし今回時任司令は感情を押し殺して、やんわり自分を責めてきたのだ。しかも自分が使った言葉を用いて。それは岩和田少佐の自尊心を傷付けるのに充分効果的だった。そこに司令は追い打ちをかける。
「どうもこうも、貴官は他者に何か言う時、航技研やら世間やらを代表して言っているように感じる。しかし貴官は決してそれらを代表してないし、発言自体代表しているようでいて、その実自分の意見でしかないしな。つまりは虎の威を借る何とやらというヤツだ。それを図に乗っていると言わず何と言う。知ってたら教えて欲しいもんだ」
怒りを嫌味に変換して、時任司令は岩和田少佐に現実を叩き付けた。他人はお前をそう見ているんだぞと。が少佐は全くそのように考えた事がなかったため、反論する言葉がまとまらず、意味を持たぬ声を発するのがやっとだった。
もちろん自分が好まれてない、いやはっきり言って嫌われているのは分かっている。でもそれは自分が仕事ができるから、優秀だからこそ嫉妬され、それ故嫌われるのだと彼自身は認識していた。嫉妬は醜いものだが、その対象が自分となれば話は別だ。ので嫌われれば嫌われる程に優越感に浸っていたのだが、目の前の男時任司令はその事実を真っ向否定するような事を宣っている。
この自分を否定、更に言えば侮辱する。そんな事が許されていいはずはない。例えそれ を言ったのが上官、それも軍を統率する将官だったとしても。
岩和田少佐は腹わたが煮えくり返って暴れ出したくなったが、時任司令は自分では到底かなわない程立派な体格をしている。いくら年齢差があるとは言え、ケンカしたらまず勝てないだろう。怒りのあまり反論する言葉は出てこなかったが、状況判断は何故か冷静にできている。
ならば──一旦この場を離れて、戦うための言葉をまとめ上げてから文句を言った方が賢明だ。そう思い至った岩和田少佐はとりあえずこの総合指令室を出て、体勢を立て直す理由を考えた。がその必要はなくなってしまう。何やら再びもよおしてきて、それを理由にできたから。
昼食に食べた海鮮天ぷらと、バランスを取るために食したグリーンサラダが良くなかったのだろうか。先程からイライラしっぱなしだったのだが、更にその要素が増えてしまった。が、これであまり角を立てず指令室を出て行けるはず。何故なら原因は昼食なのだから。
「ちょっと所用ができましたので、しばらく中座させていただきます。話の続きは後ほどじっくりといたしましょおっ」
岩和田少佐は腹を押さえながら慌てて総合指令室から出て行った。本人としては割と自然な形で司令との距離を取る事ができたと思っていたが、その挙動はあまりに不自然で、その前の様子からも逃げたようにしか見えなかった。
「これで5分か10分は静かな時が過ごせるわ」
時任司令は体をほぐしながら本音を漏らす。岩田と話す時はいつも神経をすり減らされるが、今日は特に怒りを抑えるのに体に無理な力を加えていたため、疲労感が半端なかったのだ。
「しかしよろしかったのですか? 航技研から出向してきている審査主任をあれだけこき下ろして」
黙って脇で控えていた副官の久米中尉が、心配になって尋ねる。いくら階級に差があっても、あちらは航技研を代表して出向してきているのだ。岩和田少佐自身に上を動かす力はないかも知れないが、上司の方が航技研をコケにされたと思い、何らかのアクションを取ってくるかも知れない。彼自身の保身もあるが、それ以上にこの成田基地は時任少将を中心に成り立っている。それを崩されたら成田基地は今までのように機能しなくなるかも知れない。そう思うと不安になってくる久米中尉なのであった。
しかし時任司令はあっけらかんとしたもので、
「なあに、心配いらんよ。航技研の所長とは海兵の同期でな。よく酒を飲みながら、これからの軍のあり方について語り合ったものだ。それこそ先月も出張がてら会って『試製震電』の実戦テストをよろしく頼むと言われたばかりだ。少々面倒な審査主任しかつけてやれずスマンともな。つまりは岩和田のヤツは航技研でも厄介者だったと言う事だ。だからあいつが成田基地についていくら悪くいっても、誰も聞く耳は持っちゃくれない。少なくとも福留──つまり航技研の所長が、意趣返しのような事をやってくる事だけはあり得ない、って事だ。安心しろ」
そう時任司令は不安げな副官に自信満々で答え、再び窓から試験隊格納庫の方を見る。『震電』は駐機したまま動く気配はないが、その周りでは幾人かが動いているように見える。もっとも距離があるために小さすぎて、誰が何をやっているかまでは全く分からなかったが。
司令のあまりに堂々とした態度に、副官久米中尉も少しは安心できた。少なくとも空軍の2大組織同士が衝突する事はなさそうだと。
しかし岩和田少佐が何をしてくるかは分からない。それには備えておかないと。頼まれている訳でもないのに身構えている心配性な副官であった。
「しかし岩和田のヤツは【陸軍縮小】の際、省かれるべきだったんだよなあ」
時任司令は空に向かい独り言のように言った。独り言にしてはかなり大きな声だったため久米中尉も気になって、隣まで来て理由を聞きたげに司令を見る。ので司令も続きを語らずにはいられなかった。
「何しろあの性格。大陸で陸軍が暴発した時の参謀連と何ら変わりないじゃないか。があの頃のあいつは階級も低かったし、それ以上に日本軍全体として航空に明るい人材は必要だったからな。おかげで取り切れない膿のように残っちまった。もっともあいつだけじゃなく、ある一定数膿は残っているみたいだがな」
そう言い終わると司令は面白くなさそうに鼻から大きく息を吐く。遠くの空を見やり、己の無力さを噛みしめながら。もっとも37年の【陸軍縮小】当時、司令は海軍大佐であり艦上にいたため、人事に関われるはずもなかった。むしろそれまでの働きにより空軍発足メンバーとして引き抜かれ、現在に至っている。
もし空軍が発足しなければ将官になんてなれなかったと思っている程だ。それくらい流れに流された軍人人生であり、他人のそれに関わる暇などなかった。万が一当時の自分に人事権があったのなら、岩和田のような人格の持ち主は、真っ先に切っていたと断言できる。たとえそれで人材不足に陥ったとしても。
副官久米中尉は司令の思いを一通り聞くと、自分の仕事へ戻っていった。残された時任司令は『震電』を見つめ、いつ動き出すかと待っている。何をしているか分からないが、なかなか動き出さない翔子と『震電』に多少ヤキモキしながら。
ただ眺めているのも飽きてきたなと思い始めた頃、再び『震電』のエンジンが始動し、誘導路を滑走路へと戻っていく。その走り方を見ていると、どうやら故障とかはなかったらしい。
「今度は危ないマネしてくれるなよ~」
時任司令は持ってきてもらった双眼鏡越しに『震電』を見ながら、祈るような気持ちで聞こえるはずもない相手に訴えかけた。
明日になればもう1機『震電』は来るが、荒っぽい操縦で機体を壊しでもしたら岩和田少佐は黙ってないだろう。立花少佐を試験担当から外せ、と。しかしそれでは立花を呼び寄せた意味がない。多少乱雑に扱う事で蛮用に耐えられる事を証明し、高度な戦闘機動をとる事で戦闘機としての実用性に太鼓判を押すため、技量と度胸が高いレベルで同居する翔子が必要だったのだ。
もちろん純粋な571試験飛行隊パイロット達の腕を信用していない訳ではない。しかし彼らは事前に打ち合わせをした試験は完璧にこなしてくれるが、翔子のように良く言えば独自に、悪く言えば勝手な操縦をする事で、より踏み込んだ試験を行ったりはできないのだ。当然軍隊だから命令に背かれては困るが、こちらが想定もしなかった試験を自主的にやってくれる翔子の存在は、実はとても有難かったりする。
そういう自由な人間が規律規律の軍隊という組織内に少しばっかりいたっていいじゃないか。時任司令などはそう考えるが、全くそうは考えない岩和田少佐のような者も多く存在する。【陸軍縮小】のおかげで減りはしたが、規律を押しつける人間程、自分の思いつきを正しいと思って譲らず、下の者に押しつけたりするのだから、人間というのはよく分からん。それが時任司令の本音だった。
などと司令が思っている内に『震電』は滑走路端までやって来た。いよいよ三度目の試験か、双眼鏡を握る手に力が入り、双眼鏡が痛いよとばかりに悲鳴を上げる。その音に司令は慌てて手の力を緩めた。対応が早かったためその双眼鏡は危うく「双眼鏡だった物」になってしまう事を免れる。
その事を司令が反省していたら、岩和田少佐が総合指令室に戻ってき(てしまっ)た。
「失礼いたしました。話の途中で中座してしまって」
そう言いながら司令の方へ一直線に向かってくる。表情から察するに、少しは反論するための上手い言葉が見つかったのだろう。出て行った時青ざめていた顔色が赤みを差し、心なしか瞳も輝いていた。
準備万端整って、やり合う気満々の岩和田少佐を時任司令はいなす事にした。やり合う事自体嫌というのもあるが、それ以上に翔子の試験を見ていたかったからだ。
だから双眼鏡を渡しながら、
「丁度立花の試験が再会するところだ。話すんならそれを見てからでもよかろう」
と言って、岩和田少佐の意識を翔子と『震電』の方へ持っていこうとする。翔子達には悪いが、矛先をそらすにはそれが一番効果的と思われたから。
案の定岩和田少佐は食いついてきて、司令から双眼鏡を奪うように受け取ると、滑走路端の『震電』に視点を合わせた。
「おや? 故障ではなかったのですか」
岩和田少佐は皮肉っぽく言い放つ。自分が席を外していたのが10分弱。痛みと格闘しながらも出るものが出てしまうと腹の痛みは何とか治まり、頭の方も鮮明になってくる。すると時任司令への反論の言葉もスラスラと出てきた。別段気の利いた台詞ではないが、言われっぱなしで終わるレベルでもない。ので腹の方はまだ万全ではないが、司令に反論したい一心で、急ぎ総合指令室へ戻ってきた。
そんな短時間で試験を再開したのだから不具合ではなく、本庄らに何か疑問点でも聞きに行っただけなのだろう。何だつまらんなどと心の中で悪態をついてみても、本格的な故障でなくて良かったと胸をなで下ろす岩和田少佐であった。
「おっ、動き出したな」
時任司令が楽しげな声で言うと、岩和田少佐は首を動かして『震電』を追った。双眼鏡で見ていたため視野が狭かったから。この双眼鏡は特に高倍率だったため2㎞以上先の機体もはっきり見えたが、その分追っていくのは大変だ。『震電』のような高速機だったらなおさらに。
600m以上滑走し、充分速度に乗ると『震電』は機首を上げ、ふわりと機体を持ち上げた。一度目の時のような不様さ、二度目の時のような荒々しさは感じられず、翔子らしいキレイな離陸だった。
ならば着陸も手本となるような着地を見せるだろうと、総合指令室内で外を見ていた者は誰しもがそう思っていた。
しかし──『震電』はぐんぐん高度を上げ、500m程に達すると左へとバンクを打ち、そのまま東の空へと飛んでいってしまった。
「どういう事ーっ!?」
岩和田少佐が勢いよく双眼鏡を外して大声で叫ぶ。絶叫と言ってもいいかも知れない。
予想外の『震電』=翔子の行動に理解が追いついていかず、再びパニックになってしまったようだ。
そして『震電』はますます高度を上げていき、ついには裸眼で見る事ができなくなり、レーダーでの追跡に切り替えられた。
時任司令も予想外の『震電』の動きに瞬間思考が停止したが、すぐに「やりやがったな」と翔子の行動を理解した。ジャンプ飛行に飽きたものだから、他のパイロットが2日目に行っている通常飛行試験を、今日やってしまおうとしている事を。
『震電』はクセ、この場合は強力なトルクによる偏向が強いから、熟練のパイロットでもじっくりと慣らしていく必要があると、航技研からのお達しがあるのは事実だ。
がそれは厳密に守らなければならないものだろうか。答えは否だと時任司令は考える。
翔子のように自分がいけると判断すれば、どんどん次のステップへ進んでいった方が効率がいいだろうし、逆に不安ならじっくりやっていけばいい。仕事でも遊びでもそれが普通の事で、『震電』だけそれが当てはまらないなんてナンセンスだ。もっとも試作・審査段階の飛行機では、機体のアラなどをあぶり出すのにじっくり進めていくのが一般的なのだが。
指令室内の他の隊員達もざわめき出す。あの立花がまたとんでもない事をやってくれたと。その一部は翔子を非難するものだったが、大勢は翔子への感嘆と賞賛の声であった。
そんな中、我に返った岩和田少佐が管制隊員を突き飛ばしてまで席を奪い、無線で翔子を怒鳴りつける。
「立花少佐っ! いったいそれは何のマネです? 勝手な行動は許しませんよ!」
「あ、先任『震電』ってスピードが乗ってくると、断然安定しますね。
尾翼やタブが効いているのか、トルクをそんなに意識せずに済みます。地上でジャンプ飛行してた時と大違い」
「誰もそんな事聞いてません! あなたは誰の許可を得て『試製震電』を飛ばしているのです?」
「誰って時任司令じゃないですかねぇ。今日だって司令に呼び出されて成田に来た訳だし」
「それは試験そのものの話でしょっ! 私が聞いているのは航技研の指針に反し、現時点で『試製震電』を飛ばしている事についてです!」
岩和田少佐は明るく弾んだ声で的外れな返答をしてくる翔子に対し、癇癪を起こしたおば様のように「キーッ」と甲高い声をあげる。彼からしたらはぐらかされている、深く考えすぎればバカにされている感覚なのだろう。だからこそ余計に苛立ってしまう。
自分は航技研審査部の上官から言われた通りに指示を出し、成田の試験隊隊員達は大人しくそれに従っていた。だがこの小娘は自分に当てつけるようにこちらの言う事を一切聞かず、好き勝手な操縦ばかり行っている。
自分の目の届く範囲でやっている分ならまだいい。直接指導=文句をつける事もできるし、いざとなれば多少強引な手を使ってでもやめさせる事はできる。が自分の目も手も届かない所まで『震電』は行ってしまった。かろうじて声だけは無線を通して届くけど、あの小娘が自分の言う事を聞くはずもない。とんだ跳ねっ返りに大切な機体を預けてしまったと、彼女を推薦した時任司令の事を恨んだ。
レーダーは『震電』がほぼ真東に進み、そろそろ犬吠埼に達する事を示している。これは571試験飛行隊のテストパイロットが2日目の午後、『震電』に慣れてきた頃に少し長めに飛んでみるコースによく似ていた。だがそんな事は誰も翔子に教えてない。先程も述べたように岩和田少佐らが伝えて実行させるのが通例だったから。
「確かに航技研の指針ってヤツからすれば、私の行動は外れているんでしょう。でもその指針ってホントに正しいんですか? この子、『震電』は確かに難しい機体なのかも知れません。ですがそれは地上や低空を低速で飛んでる時だけで、中高度に達した今、巡航速度で飛ぶ分には素直ないい子じゃないですか。だったら離着陸のコツを掴んだら、どんどん普通の飛行や戦闘機動を繰り返し練習した方が早く慣熟できると思いますよ。だって一度空に上がったら必ず着陸しなければならないですからねぇ。その度に離着陸訓練も一緒にできちゃうんですから」
翔子の考えは理にかなっていた。ジャンプ飛行だろうが、通常飛行・戦闘機動の訓練だろうが、空を飛ぶためには必ず離着陸を行わなければならない。それが飛行機、いや空を飛ぶものの宿命だろう。であるなら地上(付近)での特性をただ単に反復練習するだけよりも、他のものと組み合わせた方が効率は良い。
この考え方は時任司令のそれと変わらない。ただ違う点があるとすれば、時任司令が熟考の末導き出した結論なのに対し、翔子のそれは感じたものを言葉にして紡いだに過ぎないって事だろう。
だが翔子の言葉は無線のスピーカを通して総合指令所内に伝わり、それを聞いた者にそうだと思わせるだけの力を持っていた。ごくわずかの頭の固い者を除いて。
もちろん地上滑走&ジャンプ飛行2回で次のステップに進んでしまうのは翔子くらいだろうが。でも操縦の難しい試作機だからって、必要以上に怖がって慎重になりすぎる事なんてない。もっともまだ試作機故に数が少なく、大切に扱わないといけないのもまた事実だ。何故なら壊してしまえば修理や新たな機体を製造する間、試験や審査が行えなくなるのだから。
その考えを一番強く抱いているのが岩和田少佐である。
他で順調に進んでいる試験・審査が、自分が担当した成田基地だけ滞るとしたら、当然自分の悪評価につながってしまう。幸い他の試験・審査地である九州飛行機や航技研とは審査内容が大きく異なるし──他所は飛行機としての素養を審査するが、成田基地では戦闘機としての評価を行う──審査開始時期も他よりかなり遅いつい1週間前。
その分はもちろん考慮されるだろうが、大きな失敗でも起こればそんなものは簡単に吹き飛んでしまう。この1週間571試験飛行隊のテストパイロット達は実に自分の言う事を聞き、指針通りの無難な試験を行ってくれていた。戦闘機動を含めた全力試験の時だって自分の気持ちをくんでくれたのか、割とおとなしめの機動しかしていないようだ。これはパイロットの方が慣れない形状の機体におっかなびっくりで、まだ無理をしていないだけなのだが、岩和田少佐は自分の都合がいいように考えていた。
だからこそ──自分の言う通りにならないあの小娘こと立花少佐、つまり翔子は『試製震電』の試験から外さなければならない。可及的速やかなんて悠長な事は言わず即刻に。
確かに彼女なら未だ引き出せてない『震電』の魅力=まあ『震電』は戦闘機なのだから『震電』にしかできない戦い方、つまり武装以外の武器を見出してくれるかも知れない。そうなれば担当である自分の評価も自ずと上がる可能性もある。がそれに賭けるのはあまりにも危険すぎた。
『震電』はまだ生まれたばかりの機体故、未知の部分も多く残されており、あまりに急いてしまうと大きな事故につながりかねない。それ以上に小娘こと立花少佐は自分の言う事を全く聞き入れないのだ。
何故そこまで自分に反発するのか分からないが、自分が彼女の事を嫌っているように、彼女もまた同様の思いを抱いているのだろう。そんな相手が己の技量を過信して好き勝手に飛び回ったら、絶対に致命的なミスを犯すに決まっている。そんなのに付き合っていたら、自分まで同罪になってしまうではないか。自分は成田基地における『試製震電』の審査担当であるため、何かあれば自分の責任になってしまう。たとえ自分の指示に従わなかったが故の問題であっても、自分の指導力不足と言う事で。だから早い所立花少佐を『震電』から引きずり出して、二度と『震電』に乗せないようにしなければならなかった。
「ふざけた事言ってないで、早く戻ってきなさい。本日のテストはもう終了です。これ以上『試製震電』を自分のおもちゃのように扱うのは許しませんよ」
岩和田少佐は艦上を押し殺して、努めて静かに翔子に呼びかけた。下手に強く言えば反発して余計に戻ってこないと考えたからだ。
だが翔子は岩和田少佐の気持ちに気付く事もなく、素直な自分の意見を返す。
「何でです? この子は順調に飛んでますよ。計器類も悪い値を示してませんし。今犬吠埼を通り過ぎ、高度も4000に達しました。そしたら巡航速度でちょっとその辺一周ぐるっとしたら帰るつもりだったんで、後小一時間位してからじゃダメですかね」
「ダメに決まっているじゃない! あなたはまだワガママ言うのですか!?」
何を臆する事もなく状況の報告と今後の計画を言ってのける翔子に、岩和田少佐は我慢しきれず、再び声を荒げた。
「……いい加減大人しく言う事を聞いて戻ってきなさい。これは命令なのですよ」
しかしすぐにまた丁寧な口調に戻る。ただし後半、特に「命令」という部分は、かなりドスが利いていたが。
それを聞いた翔子も少しカチンと来る。いくら先任で航技研の『震電』担当審査官とはいえ、同格の少佐である。しかも翔子の所属は茂原基地の701飛行隊であり、命令系統だけで見れば岩和田少佐に命令される筋合いなどないのだ。
成田基地のテストパイロット達は航技研から出向してきた審査官という事で、岩和田少佐の指示を素直に聞いてしまっていたのだろう。だが翔子にはそんなものは関係ない。だから今まで被っていた猫を脱ぎ捨て、ちょっと本性を出して岩和田少佐に反論する。
「たとえ先任だからと言って、それが命令であるなら聞けません。もしそれを命令として実行させたければ茂原基地の本堂司令か、飛行隊長の佐倉中佐を通してください。あ、そろそろ南へ曲がりまーす。それより防諜の観点から無線を一旦切った方がいいですよ」
正直翔子も我慢の限界を超えていたのだが、その方が岩和田少佐への攻撃になると思ったから、敢えて丁寧な口調にくだけた感じを混ぜるという、いつもの話し方で返答した。そして本当に総合指令室との交信に使う無線のチャンネルを切ってしまったのだ。
すると岩和田少佐は当然ながら激昂し、口角に泡をため、試験隊詰所にある専用管制室で『震電』の試験を見張っていたはずの部下達に連絡を取ろうとする。状況はどうなっているか、今回の事を許可したのかどうか詰問するために。
すると向こうの方から電話がかかってきた。そして岩和田少佐が質問する前に部下達が先に切り出した。おかげで若干拍子抜けしてしまい、問いただすトーンが少し下がってしまう。
「少佐、申し訳ありません。翔子さん、いえ立花少佐に逃げられてしまいました」
「ギリギリまで説得したんですけど、飛んでっちゃいました。役に立てず本当にすいません」
管制室にいた本庄・西両准尉が代わる代わる岩和田少佐に謝罪する。しかしその声は何だか明るく楽しげにも感じられた。確かに反省はしているようなのだけど、ワクワクというか期待感に満ちあふれた感じを醸し出している。そのため新たに苛立ちを覚えたが、抜けてしまった拍子が戻らず、怒鳴りつける事はできなかった。
「本庄に西、あなた達2人がいて、どうしてあんな小娘1人止める事ができないのよ。どちらか1人でも側にいれば力ずくででも止められたはずじゃない。それとも2人共席を外していたとでも言うの?」
「本庄がエプロンに、つまり立花少佐の側ですね。そして私が管制室に分かれておりました。しかしお言葉ですが少佐、翔子さんが本気で走り出したら、私達じゃ2人がかりでも止めるなんて絶対にムリですよ。あのバイタリティと考えの読めない行動に対応できる人なんて、茂原にもそんなにいませんでしたから」
「確かに私が『震電』に飛びつきでもしたら、立花少佐も一度は止まってくれたかも知れませんが、動いている飛行機には近付くなと、最初に教え込まれますからね。それを航技研で更に念押しされたものですから、流石にそれを実行できませんよ」
「クッ……」
部下達の意見に思わず言葉が詰まる岩和田少佐。確かに航技研では空軍だけでなく全ての航空隊の手本となるべく、単純な人為的ミスをなくすため、配属初日に徹底的に安全教育を施す。ので動き出した飛行機に飛びつくなんて事は言語道断な事である。そんな事は岩和田少佐だって百も承知だが、暴走する翔子を止めたくて、思わず規律に反する事を考えてしまっていたのだ。
もしそれが実行されていたら翔子の暴走は止められたかも知れないが、規律違反の命令をした事による、より重い処分の対象になっていたであろう。
それを配属2週間程度の新人に指摘され、更に屈辱感を覚える岩和田少佐であった。そんなメンタル崩壊寸前の少佐に追い打ちをかけるような事が、背後で進められていた。
「立花の奴は多分房総半島一周の散歩に行っちまったようだ。ので念のため進路上に近い基地に連絡を取っておいてくれ。見かけん飛行機が近くを通るかも知れんが、それは成田基地で審査中の新型機だから警戒せんでいいってな。頼むぞ」
「「「りょーかいっ!」」」
時任司令の指示に通信員達はすぐさま反応し、手際良く房総半島及び東京湾沿いにある陸海空の各軍基地に向けて、司令の言葉を次々に発信した。防諜の観点から無線ではなく有線電話にて。
「な、な、何なのです。これは一体ーーっ!」
時任司令の号令の元、皆一斉に翔子を支援するように動き出した様子を見て、岩和田少佐はもはや壊れる寸前だった。総合指令室内に目をやれば、誰もが一丸となって働いている。しかも大半の者は楽しそうに、そうでない者も覇気に充ち満ちて、自主的に動いていた。これは時任司令の人望や統率力によるものなのか、それとも──考えたくはないが、あの跳ねっ返りの小娘立花翔子を応援するためなのかは分からない。
ただ1つ言えるのは、今ここに自分の味方をする者は誰1人いないという事だ。たった2人の航技研から共に来た部下も含めて。
その現実を受け入れきれず、岩和田少佐は叫んでしまった。が1人として彼を気遣う者はいない。
嫌われながらも短い期間ではあったが、自分なりにこの基地で頑張ってきたつもりだ。にも関わらず自分が変調をきたしたというのに、誰も気にも留めてくれない。その事実を受け止められる程彼の精神は強くなかったし、自尊心は不必要なまでに強すぎた。
そのため、この場に居続ける事がいたたまれなくなり、しずしずと総合指令室を出て行った。
隊員達はそれに気付かなかった。が時任司令だけがその後ろ姿を見送った。いくら嫌な相手であっても、一旦自分が預かった下官の事が気にならない訳がない。ので一応は気にしてその行き先を目で追ったが、いつまでも岩和田少佐に気を取られている場合でない。元々お気に入りである翔子の事があったからだ。
その翔子は、現在房総半島沖を巡航速度である425㎞/hで南へと進んでいった。
「ねえ『震電』。空も海も大地もキレイだね。今日は岩和田少佐との約束でムリだけど、明日以降もっとキレイな世界を見せてくれるかな?」
翔子がそう問いかけると『震電』は任せておけとばかりに、心地よいエンジン音で応えた。
次話へ続く──