第十一章 騒動Ⅱ
少佐の魂の叫びはけたたましく、密林に棲む生き物の鳴き声のようだった。その声の大きさと甲高さで翔子は耳を塞ぎたくなったが、それではあまりに露骨すぎるので、身をすくめて耐えるだけにとどめる。おかげで耳がキーンとして、イメージ的には聴覚を一時的に半分奪われた気がする程に。
しかしこれで一連の騒ぎの最大の疑問が解決した。皆岩和田少佐が成田基地から去るのを喜んで、その最大の要因(功労者?)である自分に感謝して集まってきたのだと。
確かに散歩こと房総半島一周試験飛行の前、子供じみた嫌がらせはした。が大の大人がそれくらいで自分の方から出て行ったりするものだろうか。
嫌がらせと言っても彼の仕事を直接妨害したとかいうものではなく、彼の気に障るような言動を取ったり、制止を振り切って散歩に飛び立ってしまったくらいだ。それにそれらの行動は少佐の嫌味ったらしい言葉に反発してとったものであり、翔子からしてみれば自分の方が被害者だと訴えたい程だったりする。
だが翔子は『震電』を満喫した事で岩和田少佐に対する感情はリセットされた。のでこれ以上少佐の事を非難するつもりはない、今のところは。むしろ間接的にとはいえ『震電』に乗る機会を与えてくれた事に感謝したいくらいなのだ。
それなのに、いやそれしきの事で岩和田少佐はキレたのか拗ねたのか、自分が成田基地から出て行くと言っている。
彼の審査主任という立場からすれば、気に食わないテストパイロットをクビにする方がはるかに簡単だろう。それにもし本当に出て行ってしまったら職務放棄をしたとして咎められても何も言えない立場になる。国防の要となるかも知れない戦闘機を開発している所から逃げ出すという事は、ある意味敵前逃亡に匹敵するくらいの行為だ。
下手をすれば「開発が遅れる」→「味方に被害が増える」という論理から、売国奴の誹りを受けるかも知れない。であるなら銃殺刑は大袈裟としても良くて左遷、悪ければ降格や不名誉除隊だってありえるだろう。
いくら相容れない相手であっても同じ飛行機に携わる者として、そこまでになってしまったら多少は気が咎める。ので翔子は岩和田少佐をなだめ、一時の気の迷いから暴走している少佐を落ち着かせ、思い留まるよう説得を試みる事にした。もちろんこれは本心ではないし、さっきあれだけ喜んでいた皆からは恨みを買うかも知れないが、それが彼女の正義だった。
「あのぅ、どうして私のせいで先任が成田基地にいられなくなるんです? 私が航技研の方針に沿ってなくたって、先任の責任にはならないと思いますよ?」
翔子は努めて申し訳なさそうに尋ねた。キャラではないがこういうタイプにははっきりと下手に出ないと誠意は伝わらないだろうし、こちらが反省しているように思わせる事が出来れば、少しは気が晴れて正気を取り戻してくれるだろうと考えたから(いくら直球勝負が信条の翔子とはいえ、それくらいの芸当は出来るのだ)。しかし──
「どうして、ですって~?」
岩和田少佐は更に表情を歪め、睨め回すように翔子の顔を見た。流石の翔子もその圧力に怖じ気づき、思わず逃げ出したくなってしまった。
そして少佐はそのまま溜め込んでいた思いを翔子にぶつける。
「もおぉぅっ、限界だったのよっ、この基地にいる事自体。誰とも話は合わないし、考え方も全然スマートじゃなく、なぁんか暑っ苦しいし、上下関係も曖昧。あったとしてもそれは体育会系のノリで、仕事が終われば無礼講みたいになっちゃって、私みたいな余所者は入る隙なんて全っ然なかったの。それでも何とか耐えていたのよ。どうせ実戦的審査が終わるまでの付き合いだし、出世のためだと自分に言い聞かせればギリギリ我慢する事が出来た。そう昨日までは。でも今日あなたが来た途端、全てが悪い方へ変わったのよっ!」
岩和田少佐は言葉を区切る際、右足を一歩引いて、まるで見得でも切るかのように、翔子の眉間に指を突きつけてきた。語気の強さと飛んでくるツバに耐えてきたシメが自分を貫くように伸ばされた指とは、流石の翔子も涙が出そうになる。
が同時に今まで抑え込んでいた岩和田少佐への敵愾心が再び戻ってきた。少佐が宣った言葉の中に、自分が原因と断定する部分が全く入ってなかったから。
少佐が成田基地にやってきて1週間。彼なりの苦労や苦悩は伝わり、同情すべき点もない訳ではないと思ったが、肝心の所が聞けていない。だからそれを教えて欲しいと翔子が聞き返そうとしたその瞬間、少佐は再び語り出した。
「なんでっ!? 何であなたの言う事はまかり通ってしまうのっ? 私が指示を出した時、操縦士や整備士達から何となく不満そう、面倒くさそうな気配を感じたわ。こっちは航技研の決めた方針に則り手順を指示しただけだというのに、皆一様に嫌々ながら従ってやっているという感じを醸し出していた。全くもって信じられないわ。私の一存で決めた事なら素直に従えない事もあるでしょうけど、航技研の方針なのよっ! 航空に関わる隊員がそれに従えないなんて私からしたらとても考えられない。にも関わらずあなたが自分勝手に動いたら何? 私には非協力的だった整備士達や試験隊長だけでなく、基地司令や私の部下までもがあなたのやりたいようにさせ、しまいにはあなたのわがままに基地全体が付き従ったじゃない。なんでっ!? 何であなたには皆を惹き付ける力があるのよぉー!? 飛ぶ事しか取り柄のない、こんな小娘の分際でっ!」
翔子が聞きたかった事、そして岩和田少佐が一番理解できなかった事を吐き出しながら、いつしか少佐は翔子の胸ぐらを両手で掴んでいた。
「キャッ!」それを見ていたさくらが小さく悲鳴を上げる。両手を口に添える、女の子らしい仕草で。少佐の部下達もびっくりして2人の元に近寄りかけたが、少佐の迫力に押されほとんど動けなかった。近くにいた隊員も同様で、翔子を助けたかったのだが、屈強な男性隊員をもってすらも近寄らせない程少佐の放つプレッシャーは強力なものだった。
そんな感じに端から見ればキレて制御不能になっているとしか思えない岩和田少佐だったが、まだ最後の理性が残っていたのか、胸ぐらを掴む手にはさほど力が加えられていなかった。
少佐だって男である。しかもいくら線が細いとはいえ軍人で、年齢だってようやく壮年に入ったばかりだ。だから全力を出されたら翔子はかなり苦しい思いをしたに違いない。特にキレていつもの数割り増しの力が発揮できる状態においては。
が最後に残った理性の欠片のおかげで翔子はあまり苦しい思いをせずに済んだのだ。まあ、あまり気分の良いものではないけれど。
それでも翔子はこれでようやく理解できた。岩和田少佐が何故自分を敵視していたのかが。
ようは少佐は自分に嫉妬していたのだ。少佐自身が持ち合わせていない何か目に見えない力を自分が持っているものと感じて。少佐がいくら望んでも得られなかった人望とか人気という掛け替えのないものを、翔子は素で得ていたのだ。
翔子は別に意図してそれを得ようとした事はない。もちろん最低限のマナーや常識は(少なくとも自分の中では)守ってきたつもりだが、それ以上はただ自然に自分の思うがままに生きてきた。が結果的にその裏表のない素直すぎる言動が周囲の共感を呼び、皆に慕われていただけなのだ。
むろん翔子だって空気くらいは読めるので、相手によってはその意をくみ取り、下からおねだりするような事だってままある。しかしそれだって相手に対する尊敬や畏怖から自然に出るものであって、誰も嫌な気分にはならなかった。ある種混じり気ない天然の才能だと言えよう。
それに対し岩和田少佐は常日頃から他人の顔色ばかり窺って生きてきた。そのくせ自分の欲望には忠実だったため、立場が上の者には(表面上)媚びへつらい、下の者には強く出る事が当たり前だと思ってきた。
今まで彼の上に立つ者の中には持ち上げられる事に悦びを覚え、結果彼が重用される事も多かった。でなければ少佐が今この地位にいる事はなかったかも知れない。いくら仕事ができたとしても。
しかしそれ以外の者からはその性根が見透かされ、そこに彼特有の妙な口調が加わる事により、できる事なら関わりたくないと心底思われてきた。
特に軽く扱われる下の立場にある者からの受けは最悪で、彼を慕っている者など1人もいなかった。ただ彼の事を気に入っている更に上官からの心証を考え、大抵の場合大人しく従ってはいたけど。
つくづく翔子とは正反対の所に存在している。
岩和田少佐のこれまでの経緯や心の奥底なんて翔子には知った事ではない。だが翔子が成田基地に来てからの数時間で、彼の為人や他者から抱かれている印象はある程度分かっていた。
皆から煙たがられていて、本人もそれを自覚している。そして彼自身とは反対に、皆から好かれているように見える自分に嫉妬を感じずにはいられなかったのだろう。
そう思うのなら自ら進んで好かれるような行動をすればいいだろうにと翔子はシンプルに考えるのだが、彼の性格上それが素直にできないのだ。もっともそれが出来るのであれば、元々今のような環境にいる事はなかっただろう。それに翔子自身それを素でやっているため、自分でもその方法は分からないし、教える事もできない。
だが今のように胸ぐらを掴まれているという状況ははっきり言って面白くない。少佐の顔は未だ翔子に対する理不尽な怒りをむき出しにしたままだったので、正直恐怖感は残っていたが、少しずつ状況が把握でき、冷静にそれを分析できるようになるとわずかではあるが怖さは和らぎ、その分勇気というか困難を打ち破ろうとする気持ちが芽生えてくる。
だから翔子はまず手だけでも放してもらおうと、右手で少佐の左手首を軽く掴み、なるべく刺激を与えないように言葉を選んで説得してみる事にした。もしかしたら余計に暴力的になるかも知れない。そうなったらそれで対応する術はもっている。ので自分も痛い目に遭う覚悟を決めて、少佐に声をかけたのだ。
「流石に、この状況は、まずいんじゃないですかね。手ェ、放してもらえますか」
その言葉に岩和田少佐も我に返ったのか、ゆっくりと胸ぐらを掴む手の力を弛め、自然と腕を体の脇に力なく垂らす。同時に少佐の手首を掴んでいた翔子の手も放れた。
少佐の顔からは少し怒気は抜けていたが、相変わらず憎々しさてんこ盛りの表情で翔子を睨み付けていた。それでも翔子に対する思いを吐き出せた、爆発させる事ができた事で少しは気持ちが楽になったのだろうか、すぐまた襲いかかってくる気配はないように思える。そう感じた翔子は念のため岩和田少佐のアクションに備えながらも、言葉を切り出す事ができたのだ。
「先任の私に対する反感は分かりました。私のとった行動が『震電』の実用化に向けて不利に働いたと言うならいくらでも謝ります。でも、先程も尋ねましたが、どうして先任が成田基地を出て行くんです? いくら気に食わない事ばかりだって、これはお仕事でしょう? 先任が職務を放り出す方が『震電』の実用化にとって、マイナスになると思うんですが、違いますか?」
翔子の口調は先程と異なり冷静、というか感情の一欠片も持ち合わせてないようなものだった。先程は中途半端に少佐の事を慮って下手に出て、かえって暴走させてしまったが、今度は少佐の事なんて一切気遣ってない。ただ淡々と現状を述べただけだ。それも表情から感情が消え去ったような無機質な顔で。しかしこの時彼女が人形のように無感情だった訳ではない。怒りのあまりかえって冷淡な態度になってしまっていただけだ。
いつも喜怒哀楽を全面に出している彼女からしたら考えられないくらい冷酷にも見える表情だったから、親友のさくらはおろかその場にいた隊員達も軽く怖さを覚える程だった。
岩和田少佐も翔子の虚のプレッシャーに一瞬怯み息を呑んだが、まだ彼の中には怒りの炎が残っていたため、その熱のおかげで翔子の冷たさに飲み込まれずに済んだ。そして先程までとは違って落ち着いたトーンながらも忌々しげに言葉を放つ。
「もう遅いのよ。さっき航技研本部に電話を入れたら、『替わりを出すからお前は戻ってこい』って言われたわ。だから勝手に出て行く訳じゃないのよ。命令に従って正々堂々成田基地から出て行けるのだから、引け目もないし、大したペナルティもないはずだわ。それよりあなた達にとっても良かったじゃない。私がいなくなればあなた達だって清々するでしょ? WinWinってやつね」
少佐が嫌味たっぷりに言った言葉に翔子は何も言い返せなかった。確かにその通りだったから。だからといってこのまま素直に少佐がこの基地から出て行くのを見過ごしてしまって良いものだろうか? とも考えていた。少佐だって『震電』の成功を願ってこの基地に出向してきただろうに。
少佐はそれを口にこそしなかったが、そういった気持ちが少しも無かったのだとしたら飛行機に関わる仕事なんてしてはいけないし、今まで続けてくる事だってできなかったはずだ。なら未練だってあるに違いない。与えられた仕事を完遂できなかった事に対する未練が。そう思うと心の大半を占める思いとは反対の言葉が翔子の口から漏れ出た。それも自然と。
「本当にそれでいいんですか? 形式上はともかく今ここを去れば逃げたのと同じです。それなら他人からどう思われていようが意地でもここに居座って、私達──主に私とかな? とケンカしながらでも『震電』をより良いものへと仕立て上げる。それが男ってもんでしょう?」
翔子の言葉は辛辣だった。が聞き取りようによっては優しさから発せられたようにもとれる。単語の一つ一つを拾っていけば、あれだけ忌み嫌っていた少佐に対し、これからも一緒にやっていこう、と言っているに等しいものだったから。
しかしそれは翔子の本心ではない。できる事なら関わりたくない相手だ。それも人生の中で1・2を争うくらいの。だが岩和田少佐だって今までずっと飛行機に携わってきたのだから、飛行機そのものが嫌いなんて事はない。いや同じく飛行機に携わってきた者としてはそんな事は言わせない。
だったら今一時嫌な思いをし続ける事にはなるが、それに耐え続けて『震電』の実戦的な審査終了までやり遂げなければダメだ。そういう思いが翔子にそんな言葉を発せさせたのだろう。
翔子から淡々と放たれた冷淡な言葉に、岩和田少佐は翔子を強く睨み返す。その表情、特に眼光からは先程までの「憎い」から「悔しい」という感情に変わったように翔子は感じた。
やはり少佐も男で、女性からあれこれ責め立てられるのは嫌だったのか、それとも翔子が放った言葉が図星で、それを突きつけられたのが非常に悔しかったのか、いずれにせよ少佐の心がわずかに変わった事には違いない。
そして──少佐の表情から一瞬だけ険しさがふっと消えた。それはすぐに元に戻ってしまったが、翔子に「今のは何だったんだろう」と疑問を抱かせるには充分だった。まあさくらをはじめとする周囲の者達は一切気付いていない様子ではあったけど。だから翔子は思わず率直に尋ねようとする。もしかしたら心変わりしたのかも知れない、そう思ってしまったから。だが少佐は翔子に口を挟ませず、
「本っ当にあなたって人は、私にどれだけ惨めな思いをさせたら気が済むの?」
と力強く踏ん張って言い切った。
両の拳は先程翔子を掴んでいた時より力が込められ、何かを耐えるように握りしめられていた。そして少佐の顔は今までとは別の意味で赤く染まっていく。
「そうよ、逃げるのですよ。あなた達からね。私が私を保つには、あなた達のような真っ直ぐな輩と関わっていちゃいけないのよ。だから私はここから去るのです。あなた達をいい気持ちにさせるのは悔しいけど、ここに残る方がよほど辛いもの。これからはあなたがやったやり方がまかり通って、私の指示なんて誰も聞かなくなる。それをこれから見続けなくてはならないなんて、屈辱以外の何物でもないわ。私の信念があなた達、いや立花翔子、あなたの奔放さに負けた。だからいいじゃない、ここから逃げ出しても」
そう言うと岩和田少佐は床に落とした荷物を重たそうに持ち上げ、翔子の前、そして成田基地から立ち去ろうとしている。がその前に別れの挨拶とばかりに翔子の顔をじっと見つめた。その目には明らかに涙が浮かんでいた。
その姿を見たら翔子は無性に腹が立ってきた。普通ならこういう場合、同情とか憐れみの感情が湧く事の方が多そうだが、あれだけこの基地を振り回しておきながら自分勝手に結論を出し、逃げだそうとしている少佐を男らしくないと思い、怒りの方が前に出てきたのだ。
そしたら体が自然に動いた。右足を一歩引き、上半身を軽くのけ反らせ、大きく振りかぶって平手打ちを喰らわせようと。
「こんの、軟弱者ォっ!」
その言葉と共に翔子の右手は岩和田少佐の左頬に叩き付けられるはずだった。しかも少佐が翔子の胸ぐらを掴んだ時と違って全力で。
少佐の方もそれを受け入れるつもりだった。妙に同情されるより、敗者として勝者の制裁を素直に受け入れた方がすっきりすると考えたからだ。特にこの立花翔子からは。
しかし翔子の掌が少佐の顔に当たる事はなかった。いつの間にか詰所内に入ってきていた時任司令が、翔子の腕が一番後ろに引かれた時点でがっちり掴んでそれを阻止したからだ。力を込めすぎていたため、翔子はまるで制動索を捉えた艦上機のように一瞬体が浮き上がり、思わずバランスを崩してしまう。そして司令は怒鳴るでも慌てるでもなく厳かに言い放った。
「そこまでだ」
「司令っ!?」
いきなり体の動きを制され、一瞬訳が分からなくなっていた翔子だったが、バランスを崩した勢いで振り返った先に司令がいたものだから更に驚いてしまう。少佐も覚悟していた平手が飛んでこなかったから不思議に思い、閉じていた目を少しずつ開き、何が起きたのか状況を確認する。こちらも司令の登場には少なからず動揺している感じだった。
「お互いもう充分だろう。これ以上は双方共に辛くなるだけだ。ほら、さくらは既に半泣き状態だし、本庄・西だってどうしていいか分からなくなっている」
司令が冷静に周囲の状況を説明すると、確かにさくらは翔子のほとんど聞いた事のない冷たい言葉と振るおうとしていた暴力に驚き半ベソをかいており、本庄・西両准尉もどちらの味方をしていいのか分からず、ただオロオロと立ちつくしていた。
それを見た翔子、岩和田少佐は共に昂ぶっていた感情が急激に落ち着いていく。すると本心でないところで熱くなっていた事を思い知らされ、気恥ずかしくなる両者であった。
「さくら、ゴメン……」
翔子は司令に腕を掴まれ、変な体勢のまま親友に謝罪の言葉を口にする。それを聞くと司令はようやく翔子の腕を放した。
「時任司令、お騒がせして申し訳ありません。2人も、私のワガママに付き合わせちゃって、でもこれが最後だから許してちょうだい」
岩和田少佐も司令と部下達に謝った。それもいつになくしおらしく。今までの強気な態度は慣れないこの基地で孤独を耐え抜くために虚勢を張っていただけと思えるくらいに。
そして再び荷物を持つ手に力を入れると、改めて司令に向かい深々とお辞儀をした。
「岩和田少佐、本当にそれでいいんだな?」
司令は少佐の顔をしっかりと見据えて、本心を酌み取ろうとする。少佐はその視線を受け止めきれず、目を伏せて静かに答えた。
「もう後任も決まっている事ですから。それに立つ鳥跡を濁さずとも言いますし、最後くらいは静かに出て行きたいと思います」
そう言うと今度は軽く会釈して、詰所の入口へと向かっていく。本庄・西両准尉はこのまま基地に残るのだが、せめて最後の見送りくらいは部下としての当然の務めだと、慌ててそれに付き従った。
その他の隊員達は出て行く少佐の方を見る事すらできなかった。興味はあったが、それまで抱いていた感情が漏れ出て、それを司令に見咎められるのを恐れて目をそらし、黙って座っている事しかできなかった。
そして翔子はというと、半分は自分の暴走で泣かしてしまったさくらの所にいた。右手でさくらの体を引き寄せ、自分の右側と親友の左側が合わさるようにしながら、謝罪の言葉を述べて落ち着かせようとしている。しかし岩和田少佐が詰所を出て行こうとすると流石に放っておく訳にはいかず、さくらから手を放して少佐に声をかけた。
「先任っ! 試験飛行の結果は聞かなくてよろしいんですか?」
一見この場には相応しくない言葉が放たれる。がもちろんそれは考えての事。下手に謝罪や慰め、そして感謝などの言葉はそれこそ更に少佐を惨めな気持ちにさせてしまうだけだろう。だったら悪態をつくような感じで別れた方がお互い気も楽だろうと思って、そういう言葉を口にしたのだ。
少佐もそれが分かったのか、今日出会ったばかりの時のような口調で返してくる。
「あなたバカっ!? 私は今からこの基地を出て行こうとしてるのよ? 出世やプライド、そしてあなたの大好きな『試製震電』を捨ててね。そんな人間に試験の報告なんてナンセンスだわ。そんなものは本庄や西、それに明日来る後任にでも教えてあげなさい」
少佐は立ち止まったものの振り返りもせず、虚空に向かいあたかも独り言のように言い放った。その姿に翔子は、振り返ったら負けとでも思っているのだろうか、それとも振り返れない状態(主に顔)なんだろうかと考えたが、実際には違った。次に続ける言葉のタメとして、敢えて振り返らなかっただけなのだ。
だから少佐が両手の荷物に振り回されるように勢いよく振り返り、言葉を続けた事に翔子はかなり驚いた。
「でもいいことっ! 明日来る後任ははっきり言って私より仕事はできないわよ。もっともあなた達からしたら、一緒に仕事がやりやすいと感じるかも知れないけどね。だからといってそれだけで私より仕事ができると判断するのは許さないんだから。それに……これは私とあなた達双方共に選んだ道だから、後悔なんてするんじゃないわよっ!」
少佐は何かを吹っ切ったような笑顔をしていた。ただ誰もが思い描くような少佐像にぴったりな嫌味ったらしく、少し邪心の混じった笑顔だった。
それを見て翔子達はやはり岩和田少佐は岩和田少佐、そう簡単にはヘコたれないし、変わったりはしないと妙な安心感を得た。
もちろんあんな性格ではどこに行ってもつまらない思いをするだろうが、自分達のせいで潰れてしまい使い物にならなくなる事だけはなかったと確信したからほっとしたのだ。新たな犠牲者が出る事は分かっているからそう思うのは間違っているのだろうけど、大人しくなった岩和田少佐は岩和田少佐ではないと思うし、人として終わってしまうくらいならあんな性格でも活き活きとしている方がマシと思えたから。
だから翔子もはなむけとばかりに皮肉たっぷりに言い返す。
「先任の方こそ私の話聞かないで出て行くなんてもったいないな~。道中結構面白い事もあったのに。それを聞いてからでも充分東京に戻れますよ。終電にはまだ時間がありますから」
「冗談じゃないわ。あなたの自慢話なんて聞いてたら、それだけで食事もお酒も美味しくなくなりそうだもの。ま、次に会う機会があったら聞いてあげてもいいわよ。それじゃあね」
岩和田少佐は最後まで憎まれ口をききながら、今度こそ詰所から出て行った。元部下である手前本庄・西両准尉はついて行ったが、偶然居合わせてしまった者以外、ホームで彼を見送る者は1人もいないだろう。この時間だと丁度基地内まで伸びている房総鉄道網軍用成田基地線の折り返し列車に間に合う。それこそ翔子の話を聞いていたら乗り遅れ、2時間はたっぷり待たされる事になってしまう。
それに翔子だって本気で話したい訳ではなかったので、素直に出て行ってくれて内心ほっとしていたのだ。
「行っちゃったね」
さくらが親友の横顔を見ながらつぶやいた。その親友こと翔子はまだ岩和田少佐が出て行った入口を見つめている。それも見ようによっては少し淋しげにも見える表情で。
だが実際には翔子は少佐と激しくやり合ったのに加え、その前には『震電』の試験飛行を合計1時間以上行っており、肉体的にも精神的にもかなり疲れ切っていて、その気怠さが淋しげに映ったのだろう。今までは気を張っていたから平気だったのだが少佐が去った事で気が弛み、疲れが全面に出てきたのだ。
しかしさくらが心配というか不安というかな表情で自分の事を見つめている。だから翔子は精一杯のカラ元気で、親友の心配を取り除くようにちょっとだけ大袈裟に言い放った。
「ホント、ようやく解放されたよ。あの人と上手くやっていけるのはよっぽどの変人か、じゃなきゃ天使くらいだね。それよりさくら~、お腹減った。夕飯前に酒保へ軽く何か食べに行かない? アイツの相手してたら1日分のカロリー使っちゃったみたいで、もうフラフラだよ~」
「お昼あんなに食べてたのに、もう燃料切れなのっ!?」
親友の物言いと仕草に驚くさくら。岩和田少佐を相手にして精神的に参り、消化不良を起こして気持ち悪いとか言うなら理解できるが、全て消化しきってまた食べたいとは……さくらは親友の胆力に感心を通り越して半ば呆れる程だった。
だが実際にはさくらが思ったのとは少し違っていて、翔子の「精一杯のカラ元気」は情けない演技を「大袈裟」に見せるために使われて、それが真に迫っていたものだから、さくらは本気でそう思ってしまったのだろう。
それに現実に翔子のお腹は空っぽに近かった。ただ今すぐ何か食べたいという程食欲がある訳でも、体力は消耗していたが決してフラフラという訳でもない。むしろ今は何を食べても美味しく感じないだろう。それがお昼にあれだけ感動したナポリタンやカツカレーだったとしても。だから本心としてはなるべくだったら今しばらく、まあ数時間くらいは何も食べたくない感じ。明日の朝食まで何も食べなくても平気かも知れない程だ。
もちろん憂さ晴らしのためのヤケ食いだったらいくらでもできそうな気がする。もっとも実際にやってしまったら、それこそ胃がもたれてお腹を壊す事になるだろうけど。
そんな親友の内心を知ってか知らずか、さくらは食事は後回しだと諭してきた。
「それより先に隊長に試験の報告をした方がいいんじゃない? 隊長だって色々骨折ってくれたんだよぉ。翔子が勝手に飛んでっちゃうから、適当に飛行計画をでっち上げたりしてぇ」
「ハハ、そー言えば隊長への報告の事はすっかり頭っから抜けていたよ」
思いの外真剣な表情でさくらが諭してきたものだから、翔子はバツが悪くなって頭を掻く。
帰ってきた時のパニックや岩和田少佐の件があったとはいえ、試験隊長に対し試験結果の報告を忘れるなんて、テストパイロットとしては失格と言えよう。それを思い出させてくれた親友に感謝の言葉を伝えながら早速隊長の下へと向かおうとすると、司令が背後から声をかけてきた。
「おい、報告が済んだら一緒にメシでも食わんか? もちろん隊長や岩和田の元部下も入れてな。あの試験機、『試製震電』についてもう少し聞いておきたい事もあるし、今後の事も話し合っておきたいしな。報告が長引くかも知れんし、俺も残りの仕事を片付けなければならんから……そうだな、7時に食堂に集合って事にしよう。食堂への連絡は俺の方でしておくから、お前達は時間通りに食堂に来てくれればいい。分かったな?」
「はいっ、了解ですっ」
翔子は元気よく返答すると、ちょっとふざけた感じに敬礼をした。一方さくらはお手本のようなキレイな敬礼をする。その姿は2人の性格を見事に物語っていた。
その様子を確認すると、司令は満足したようにうなずき、ゆっくり詰所を後にした。
それを見送った2人も急いで隊長室へと向かう。試験報告もあるけど今の件も伝えておかないとまずいと思ったからだ。
そして、司令の言う「食事」は長くなりそうだと感じていた。それにかなり熱くなりそうだとも。
次話へ続く──
ようやく退場してくれましたね、岩和田少佐(笑)。
おかげで元々は1つの章だったはずの第十・十一章をまとめる事ができました。その分やたらと長くなってしまいましたが。
それに本当ならこの章はもっとテクニカルな話にする予定だったのです。
翔子が散歩から帰ってきて、飛行中に感じた感想や気付いた改善点などを語る、と言う具合に。
ですがその辺が全くなくなってしまいましたね。岩和田少佐、恐るべしです。
その分次章はテクニカルな内容にしたいと思います。
知識不足が故に間違った事を語る=書いてしまうかも知れませんが、その辺はご容赦ください。
『零号震電』はもう少し続きます。完結まで皆様どうかお付き合いください。




