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それから八神七斗は、何種類にも及ぶ検査を施された。彼にはよく分からない薬品を飲まされたり、髪や爪の一部を採取されたり、レントゲンやらMRIやらで体内を調べられる。まるで自分が実験動物にでもなったような気分だったが、常に傍らには南心がいて、彼の会話相手になっていた。ここまでくると、彼女が八神七斗の検査に付き合う事を打診した理由も、何となく理解出来た。
「そっかー、今の高校生くらいだとMDプレーヤー使った事ないんだねー。私らの頃は主流だったんだけど」
MRI室の外のベンチで、カガリが診断結果の確認をするのを待ちながら、南心は納得したように頷いた。取るに足らない世間話を、彼女はそれでも楽しそうに口にしている。
「中学に入るくらいの頃は、使ってる奴もいましたよ。今はもう、ほとんど見かけませんけど。でも、美南さんって、俺とさほど年齢離れてませんよね?そんな数年で、変わるもんなんですか?」
「おー、うれしい事言ってくれるね。七斗くん、今16だっけ?私、4つもおねーさんだよー」
他愛ない会話をしている間に、数枚の書類を手にしたカガリが、部屋から出てくる。二人の姿を認めると、彼女は手の中の物をヒラヒラと振って見せた。
「これと言って、異常なし。健康……とまではいかないけど、日常生活には差し支えない。後は、実際に体を動かしてみて、不具合がないか確認するから。ストレスとか、精神的なもので体に不調が出る事もあるし。とりあえず、運動場に」
カガリに連れられてエレベーターに乗り込むと、さらに別の階へと移動する。そこには、バスケットコート二つ分ほどの大きさの、体育館のような場所があった。
「へー、研究所にこんな場所があったんだ」
どうやら南心もそれを目にするのが初めてらしく、彼女は意外そうに周囲を見渡している。カガリは倉庫から何やら器具を持ち出しながら、「地下にこもってデスクワークばっかりだと運動不足になりがちだから、その予防にね」と口にした。
「研究員の健康管理の一環なんだろうけど、まあ、そもそもこんな場所で働いている時点で、積極的に体を動かす体育会系なんていないから、こうして放置されてるわけ」
言いながら、カガリが倉庫から持って来た物を、八神七斗へと手渡す。受け取ってみると、それは電子パネルのついた最新式の握力計だった。
「これからやってもらうのは、簡単な体力テストみたいなものだから。病み上がりだし、全力出す必要はないけどね」
促されて、グリップを握る。程なくして、パネルに数値が表示されると、彼はそれをカガリへと返した。
「57kg。高校生にしてはかなり高い方だと思うけど、どう?今までの自分の記録と、大きく離れてたりしない?」
「いえ。少しは伸びてると思いますけど、そこまで差はありません」
八神七斗が答えると、カガリがそれを書類に書き込む。そんな様子を、南心は興味深そうに覗き込んでいた。それに気付いたのか、カガリは彼女に向かって握力計を差し出す。
「やりたければ、やってもいいよ」
「あ、いや、高校生の頃にやったなーって思って、懐かしくて」
恥ずかしそうに言うと、南心はそれを手に取る。彼女が右手でそれを握るのを何気なく見ていた八神七斗は、しかしそのパネルに表示された数値を見て、目を見開いた。
「お、62kgだって。私の勝ち!」
上機嫌そうに、握力計を見せびらかす。当人は単にはしゃいでいるだけだが、その実彼女の握力は、女性の平均の約二倍もあったのだ。「もう少しでリンゴを握り潰せるな」と、カガリが隣でボソッと呟いていた。
「ま、おねーさんは鍛えてるからね」
得意げな表情で力こぶを作り、南心が笑う。八神七斗は、それに苦笑しか返せなかった。
その後も、他の項目を計測する度に、南心は八神七斗の記録を打ち破り続けた。別段それは、八神七斗の記録がそこまで高くなかったわけではない。むしろ、同年代と比べれば、非常に高い数字を出したといえるはずだ。にもかかわらず、南心の出した記録はいずれも、八神七斗のものを尽く上回っていたのだ。
「よし、またまた私の大勝利!」
ハンドボール投げで50m近い記録を出した後で、南心は笑う。そこまで差がつくと、対抗心にも増して感心すら覚える始末だった。
「ここの隊員の人たちって、みんなこうなんですか?」
思わずカガリに尋ねるも、彼女は首を傾げるだけだった。
「お、やってるね」
不意に聞こえてきた声の方へと振り返ると、八神七斗は、そこに自分の父が立っているのを認めた。彼はカガリがつけた記録を見て、思わず苦笑いする。何となく、八神七斗は不服そうに眉をひそめていた。
「次、50m走」
カガリが指示をしながら、スタートラインを指し示す。八神七斗が位置に着くと、南心も同じように横に並んだ。
「走るのなら、二人同時にいけるもんね。それに、どっちが勝ったか分かりやすいし」
ニコニコと笑う南心に、八神七斗は少し納得のいかない表情を返す。
「別に、南心さんと勝負してるわけじゃないんですけど」
「細かい事は気にしない、気にしない。それとも張り合いがないって言うなら、何かご褒美あげようか?もしも一種目でも私に勝てたら、何か七斗くんの言うこと聞いてあげるよ」
これまでの戦績があるためか、南心は得意げな表情で口にする。それを聞いたのとほとんど同時に、八神七斗の肩に、彼の父の手がかけられた。不思議に思いながら振り返ると、彼は真剣な目で息子の顔を覗き込んでくる。
「いいか七斗、絶対に勝つんだ。そしてあわよくば、賞品としてミナミちゃんの……」
「父さん、それ以上言ったら母さんにチクるからな」
父親の口から卑猥な内容の言葉が発せられそうになっている事を瞬時に気取ると、八神七斗は素早く釘をさす。カガリが冷めた目でその様子を見ているのに気付き、彼は頭を下げた。
「すみません、こんな父で」
「分かってるから大丈夫」
カガリは淡々と言いながら、ストップウォッチを片手にゴールラインへと移動する。すると、なぜだか意気揚々と、八神七斗の父はスタートの合図を買って出た。
「それじゃあ位置に着いて、よーい、ドン!」
合図を耳にするのと同時に、二人が一斉に床を蹴る。別段勝敗にこだわるわけではないが、それでも彼なりに、陸上部で短距離を走っているプライドがあり、手を抜く気はなかった。顎を引き、真っ直ぐに前を見据えながら、フォームを崩さずに体を動かす。調子は悪くない。むしろ、いつもより体が容易に前へと出る。だが、違和感を覚えたのはその直後の事だった。
「──え?」
気が付いた時にはすでに、八神七斗はゴールラインを踏んでいた。まるで、知らぬ間に瞬間移動をしていたような感覚。だが間違いなく、彼はその道程を、走破していた。普段、部活動で毎日のように50mを走っている彼には、よく分かる。明らかに、このスピードは異常だ。戸惑いながら振り返ると、南心はスタートラインから10mほどの地点で足を止め、驚愕に目を見開いている。ゴールラインの隣にいるカガリへと目を向けると、驚きのあまりに止め忘れたストップウォッチが、たった今3秒をカウントしたところだった。
「……俺、どうなって……」
口を開いた瞬間、八神七斗は、自らの喉を汗が伝っている事に気付く。異常だったのは、その量だった。まるで炎天下に数キロ走ったように、大量の汗が滝の如く流れている。それに加えて、気味が悪くなるほどに高まった心臓の鼓動と、貧血のような目眩に、思わず膝をつく。いくら息を吸っても、酸素が頭に回らない。喘ぐように口を開く様は、酸欠の魚のようだった。やがて彼は、自らの元に南心たちが駆け寄ってくるのを見ながら、床へと倒れ込む。そのまま、足場を失って闇に落ちるような感覚と共に、彼は意識を失った。