上野久遠は逃がしてくれない
上野久遠。大学で知り合った先輩。
タバコが手放せず、いつも酒を飲んでいるような人だ。
僕はタバコの匂いがあまり好きじゃないし、酒を飲む習慣もない。
それでも認めざるを得ない。
先輩がタバコを吸う姿には、古い映画に出てくるような、さりげない優雅さがあった。
淡い煙が彼女の前でゆっくりと漂う。
伏せられた視線に大きな感情はなく、黒い長髪が風に揺れていた。
鋭い眼差しも今だけはどこか柔らかく、眉間に浮かぶ疲労の色も幾分か薄れている。
他人から漂う紫煙の匂いとは違い、先輩から香るそれは不思議と刺激が強くない。
むしろ、ほんのりと甘い。
「おはようございます」
僕は拳を握りしめ、前へ出て声をかけた。
「お、後輩くんか」
先輩はタバコを挟んだ手を軽く持ち上げ、それを挨拶代わりにした。
こちらを見た瞬間、どうしても右目の下にある泣きぼくろへ目が行ってしまう。
少し近づけば、先輩から漂う淡い香りも感じられる。
芳香剤なのか、それとも香水なのか。
タバコの匂いと混ざり合い、頭が少し混乱する。
先輩がどうしてこれほど人気があるのか、分かったような気がした。
「後輩くん、論文の進み具合はどう?」
先輩はもう一口タバコを吸い、静かに吐き出した。
「まだ苦戦している最中ですね」
僕は苦笑しながら答えた。
「そう。じゃあ今夜、気分転換に一杯どう?」
先輩は左手でグラスを掲げる仕草をしながら、誘いかけてきた。
先輩は僕と同じ学科の先輩だ。
より正確に言えば、同じ教授のもとにいる大学院生。
彼女は普段、まるで実験室に住んでいるかのようで、実験室に入っても、先輩の姿を見かけなかった日を思い出せない。
研究に追われているせいか、彼女はいつも少し眉をひそめ、何かを考え込んでいるように見えた。
本当に先輩と親しくなったのは、ある歓迎会の帰りだった。
疲れていたのか、それとも酔っていたのか。
彼女は隅のほうで、静かに眠っていた。
まるで魔法をかけられた眠り姫のようだった。
人が少しずつ帰っていく中、僕は辺りを見回した。
普段先輩と仲の良い友人たちは、どうやらもう帰ってしまったらしい。
「すみません、先輩があそこで眠っていますが、大丈夫でしょうか?」
僕は同じ学科の先輩を引き止めて尋ねた。
「大丈夫大丈夫。上野はたまにこうなるから。そのうち勝手に起きるよ」
その人は気軽に答えた。
「そ、そうですか」
それでも、先輩を店に一人残していくのは心配だった。
僕は近くの席に座り、ウーロン茶を頼んで、傍らでそっと見守ることにした。
「……ん」
どれくらい時間が経っただろうか。
先輩はようやく目を覚ました。
「また寝ちゃってたか……ん? 君は?」
先輩は目を細めて僕を値踏みするように見た。
「あ、はい。僕は今年入ったばかりの一年生です」
僕は慌てて答えた。
「ああ、覚えてるよ。後輩くん、君は……私が起きるのを待っててくれたの?」
先輩は視線を上へと動かし、少し考えてから頷いた。
「あはは、ちょうど暇だったので、少し長居しただけです」
本当のことを言うのはさすがに気恥ずかしく、僕は頭を掻きながら照れ隠しのように笑った。
「そう。ありがとう」
先輩はふっと微笑んだ。
その表情を見たのは初めてだった。
彼女の纏う空気そのものが、一気に明るくなった気がした。
それ以来、先輩は研究室で僕を見かけると、たまに声をかけてくれるようになった。
いつからか、それが一緒に酒を飲む関係に変わっていった。
問題なのは、先輩が毎回決まって酔い潰れることだ。
幸いにも酒癖はとても良く、基本的にはただそこで静かに眠るだけだった。
「どうしたの? 今日は都合が悪かった?」
僕がすぐに返事をしなかったのを見て、先輩が尋ねてきた。
「いえ、大丈夫です。空いてます」
思い出から現実へと引き戻された僕は、慌てて答えた。
「じゃあ、今夜七時にいつもの場所で」
彼女はポケットから金属製の携帯灰皿を取り出し、吸い殻を消して中へと仕舞った。
軽く手を振りながら、のんびりと研究室へ向かっていった。
先輩と別れ、忙しい一日が過ぎ去った。
気が付けば約束の時間になっていた。
僕がやってきた『いつもの場所』は、老夫婦が営む小さな居酒屋だ。
静かで、どこか温かい。
「店長、いつものお願いします~」
店主の老人に挨拶をして、普段からよく座る奥の角の席へと向かった。
先輩はすでにそこに腰掛け、グラスを手にして静かに飲んでいた。
今日の彼女はニットのカーディガンを着ていて、上着は椅子の背もたれに掛けられていた。
「すみません、先輩、遅くなりました」
僕は声をかけ、先輩の向かいの席に座った。
「大丈夫、私も今来たところ」
先輩は僕の酒が運ばれてくるのを待ち、グラスを掲げた。
「お疲れさま、後輩くん。ほら、乾杯~」
「乾杯~」
僕もグラスを掲げ、ガラス同士が触れ合って、チリンと澄んだ音を響かせた。
「最近はどう?」
「先輩のおかげで、なんとか。先輩の方は?」
「私? 相変わらずだよ」
先輩は軽く肩をすくめた。
そうして他愛もない世間話をしながら、先輩の愚痴に耳を傾けた。
実験がいつも同じところで行き詰まること。
申請した研究費がなかなか通らないこと。
そんな話ばかりだった。
「すぅ……すぅ……」
予想通り、先輩はまた酔い潰れてしまった。
机に突っ伏し、呼吸に合わせて体が静かに上下している。
僕はその少し赤みを帯びた整った顔立ちを見つめ、無意識に手を伸ばした。
途中で動きを止めた。
結局、乱れていた髪をそっと整えるだけに留めた。
そこでようやく、自分が何をしようとしていたのか気づいた。
「ぼ、僕、ちょっとお手洗いに行ってきます」
誰も聞いていない空間へ言い訳を残し、僕は足早に席を立ってトイレへ逃げ込んだ。
数秒の後。
久遠は音もなく目を開けた。
「ちっ、あと少しだったのにな。結衣はこの作戦効くって言ってたのに……まあいいや」
彼女は再び目を閉じる。
そして寝息を装いながら、唇の隙間から自分だけに聞こえるほど小さく呟いた。
「逃がさないよ、後輩くん」
友人から『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』すすめされて、少し見た。
だから試しにこんなヒロインを書いてみた、いかがでしょうか?
たぶん続きはないです。




