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一口作品集

上野久遠は逃がしてくれない

作者: 天月瞳
掲載日:2026/05/31

上野久遠うえの くおん。大学で知り合った先輩。

タバコが手放せず、いつも酒を飲んでいるような人だ。



僕はタバコの匂いがあまり好きじゃないし、酒を飲む習慣もない。


それでも認めざるを得ない。


先輩がタバコを吸う姿には、古い映画に出てくるような、さりげない優雅さがあった。


淡い煙が彼女の前でゆっくりと漂う。


伏せられた視線に大きな感情はなく、黒い長髪が風に揺れていた。


鋭い眼差しも今だけはどこか柔らかく、眉間に浮かぶ疲労の色も幾分か薄れている。


他人から漂う紫煙の匂いとは違い、先輩から香るそれは不思議と刺激が強くない。


むしろ、ほんのりと甘い。



「おはようございます」

僕は拳を握りしめ、前へ出て声をかけた。


「お、後輩くんか」

先輩はタバコを挟んだ手を軽く持ち上げ、それを挨拶代わりにした。


こちらを見た瞬間、どうしても右目の下にある泣きぼくろへ目が行ってしまう。


少し近づけば、先輩から漂う淡い香りも感じられる。


芳香剤なのか、それとも香水なのか。


タバコの匂いと混ざり合い、頭が少し混乱する。


先輩がどうしてこれほど人気があるのか、分かったような気がした。


「後輩くん、論文の進み具合はどう?」

先輩はもう一口タバコを吸い、静かに吐き出した。


「まだ苦戦している最中ですね」

僕は苦笑しながら答えた。


「そう。じゃあ今夜、気分転換に一杯どう?」

先輩は左手でグラスを掲げる仕草をしながら、誘いかけてきた。


先輩は僕と同じ学科の先輩だ。

より正確に言えば、同じ教授のもとにいる大学院生。


彼女は普段、まるで実験室に住んでいるかのようで、実験室に入っても、先輩の姿を見かけなかった日を思い出せない。

研究に追われているせいか、彼女はいつも少し眉をひそめ、何かを考え込んでいるように見えた。




本当に先輩と親しくなったのは、ある歓迎会の帰りだった。


疲れていたのか、それとも酔っていたのか。

彼女は隅のほうで、静かに眠っていた。


まるで魔法をかけられた眠り姫のようだった。


人が少しずつ帰っていく中、僕は辺りを見回した。

普段先輩と仲の良い友人たちは、どうやらもう帰ってしまったらしい。


「すみません、先輩があそこで眠っていますが、大丈夫でしょうか?」

僕は同じ学科の先輩を引き止めて尋ねた。


「大丈夫大丈夫。上野はたまにこうなるから。そのうち勝手に起きるよ」


その人は気軽に答えた。


「そ、そうですか」


それでも、先輩を店に一人残していくのは心配だった。


僕は近くの席に座り、ウーロン茶を頼んで、傍らでそっと見守ることにした。


「……ん」


どれくらい時間が経っただろうか。


先輩はようやく目を覚ました。


「また寝ちゃってたか……ん? 君は?」


先輩は目を細めて僕を値踏みするように見た。


「あ、はい。僕は今年入ったばかりの一年生です」

僕は慌てて答えた。


「ああ、覚えてるよ。後輩くん、君は……私が起きるのを待っててくれたの?」

先輩は視線を上へと動かし、少し考えてから頷いた。


「あはは、ちょうど暇だったので、少し長居しただけです」

本当のことを言うのはさすがに気恥ずかしく、僕は頭を掻きながら照れ隠しのように笑った。


「そう。ありがとう」


先輩はふっと微笑んだ。


その表情を見たのは初めてだった。

彼女の纏う空気そのものが、一気に明るくなった気がした。





それ以来、先輩は研究室で僕を見かけると、たまに声をかけてくれるようになった。


いつからか、それが一緒に酒を飲む関係に変わっていった。

問題なのは、先輩が毎回決まって酔い潰れることだ。


幸いにも酒癖はとても良く、基本的にはただそこで静かに眠るだけだった。


「どうしたの? 今日は都合が悪かった?」

僕がすぐに返事をしなかったのを見て、先輩が尋ねてきた。


「いえ、大丈夫です。空いてます」

思い出から現実へと引き戻された僕は、慌てて答えた。


「じゃあ、今夜七時にいつもの場所で」

彼女はポケットから金属製の携帯灰皿を取り出し、吸い殻を消して中へと仕舞った。

軽く手を振りながら、のんびりと研究室へ向かっていった。


先輩と別れ、忙しい一日が過ぎ去った。

気が付けば約束の時間になっていた。


僕がやってきた『いつもの場所』は、老夫婦が営む小さな居酒屋だ。


静かで、どこか温かい。


「店長、いつものお願いします~」


店主の老人に挨拶をして、普段からよく座る奥の角の席へと向かった。

先輩はすでにそこに腰掛け、グラスを手にして静かに飲んでいた。

今日の彼女はニットのカーディガンを着ていて、上着は椅子の背もたれに掛けられていた。


「すみません、先輩、遅くなりました」

僕は声をかけ、先輩の向かいの席に座った。


「大丈夫、私も今来たところ」


先輩は僕の酒が運ばれてくるのを待ち、グラスを掲げた。


「お疲れさま、後輩くん。ほら、乾杯~」


「乾杯~」


僕もグラスを掲げ、ガラス同士が触れ合って、チリンと澄んだ音を響かせた。


「最近はどう?」


「先輩のおかげで、なんとか。先輩の方は?」


「私? 相変わらずだよ」

先輩は軽く肩をすくめた。


そうして他愛もない世間話をしながら、先輩の愚痴に耳を傾けた。


実験がいつも同じところで行き詰まること。


申請した研究費がなかなか通らないこと。


そんな話ばかりだった。


「すぅ……すぅ……」


予想通り、先輩はまた酔い潰れてしまった。

机に突っ伏し、呼吸に合わせて体が静かに上下している。


僕はその少し赤みを帯びた整った顔立ちを見つめ、無意識に手を伸ばした。


途中で動きを止めた。


結局、乱れていた髪をそっと整えるだけに留めた。


そこでようやく、自分が何をしようとしていたのか気づいた。


「ぼ、僕、ちょっとお手洗いに行ってきます」


誰も聞いていない空間へ言い訳を残し、僕は足早に席を立ってトイレへ逃げ込んだ。


数秒の後。


久遠は音もなく目を開けた。


「ちっ、あと少しだったのにな。結衣はこの作戦効くって言ってたのに……まあいいや」


彼女は再び目を閉じる。


そして寝息を装いながら、唇の隙間から自分だけに聞こえるほど小さく呟いた。


「逃がさないよ、後輩くん」

友人から『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』すすめされて、少し見た。

だから試しにこんなヒロインを書いてみた、いかがでしょうか?

たぶん続きはないです。


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