第34話 今夜は、吠えていいです
「……今夜、ですね」
朝いちばん、寝台の中で、私が先に言った。
(……わたくしの台詞ですわ)
秒読みは、今日でおしまい。
この七日で、やれることは、やったはず。……たぶん?
副団長と騎士団長には、倉の棚のことも、祝福式のことも、竜晶灯が入った年から、竜を見た話が増えたことも、事実として話した。
石の中の影のことは「殿下とイグナーツさんのお調べです」と、持ち主に預けた。
「ここからは、推測です。一度に外すと、竜が来るかもしれません」
「推測で、かまわん」
騎士団長は、白い髭の下で言った。
「祭りの夜だ。人が多い。騎士が立つ理由は、それで足りる」
下町の十二の角には、騎士が二人ずつ。
巡回を習った騎士たちに騎士団長が足してくれて、二十四人だ。手には、呼び子の笛。
大通りと広場の竜晶灯には、騎士団の名で布をかけてもらった。
番の家々には、歩けない人とお年寄りと小さな子のいる家を、誰が手を引くか、角ごとに決めてもらってある。
それから、「合図は、私の声です。どんな声でも」と伝えた。
騎士団長には、聞かれた。
「合図は、誰が出す」
「私が出します。……たぶん、すごく大きな声です」
◇
宮殿の露台からは、下町の屋根が川まで見下ろせて、夏の夕方の空は、まだ明るい。
露台には、陛下と殿下と、宮廷の方々。それから、灯火卿のオーベルト侯爵。
侯爵がそばを通ると、首の後ろがちりっとした。
殿下が陛下に申し上げたのは、一度に覆いを外すと竜が来るかもしれない、というところまでだ。
陛下は、何もおっしゃらなかったそうだ。
「アイゼンハルト」
陛下が、椅子から立った。
「そなたを、王都警備指南役に任ずる」
ちょうどそのとき、六時の鐘が鳴った。
「……ところで、定時は」
口が、勝手に動いた。
陛下が、片方の眉を上げる。
「いま、鳴ったな」
宮廷の方々が、そろって吹き出した。
定時、あるよね? 鳴ったよね、いま?
「はい。ですので、ここからは定時のあとです。定時のあとの持ち場は、私に選ばせてください。……下町です」
陛下の眉が、もう少し上がった。
「露台の席には、交代を置きます」
「交代は、僕がしよう」
殿下が、軽く手を挙げた。
「父上の隣に座っているのは、得意だ。……今夜は、行き先も置いていく。露台だ」
「では、申し送りを。北の空を見ていてください。塔の早鐘が鳴ったら、陛下を、窓も石の灯りもない部屋へ」
「承った」
陛下が、オーベルト侯爵のほうを見た。
侯爵の口の端が一度だけ下がって、すぐに、いつもの微笑みに戻る。
何の顔かは、分からない。
「下町は、暗うございますよ、指南役殿」
「存じております。だから、行きます」
陛下が、短く言った。
「行け」
西の門の外では、いつものように、アンナの馬車が待っていた。定時のお迎えだ。
「お嬢様。お帰りは」
「今夜は、下町まで。アンナは、広場の救護所をお願い」
「かしこまりました。……救護所の、持ち場でございますね」
アンナの目が、やる気で、ちょっと光った。
◇
日が沈んで空の明るさが消えたころ、下町じゅうのろうそくが消された。
真っ暗になった。
灯っているのは、十二の角の緑の灯籠と、祠の火だけだ。
聖人様の火は、ちゃんと残った。
通りには、空を見上げる人、人、人。
私は、いちばん奥の鍛冶屋の角に、フリッツくんといた。
灯籠の下には、くじに当たった番の家のおかみさんがいて、角の両側に騎士が二人。
九時の鐘で、覆いが外れる。
「片目、つぶって。灯りがついても、片目は、手でふさいだまま。お子さんの手を引く方は、つぶるだけで」
角ごとに、番の人と騎士が、同じことを言っている。
前の職場の、夜の巡回のくせだ。
暗い駐車場を回っている途中で、明るい防災センターに戻るときは、片目をつぶったまま扉を開けた。また外へ出たら、その目で暗がりを見る。
九時の鐘が鳴って、下町じゅうが、片目をつぶった。
……海賊の町かな、ここ?
ぱっと、白い光が通りを埋めた。
角という角で、覆いの外れた竜晶灯が、いっせいに光っている。
歓声が上がり、開けていたほうの目が真っ白にくらんだ。
角の緑が、隣の白に負けて、ほとんど見えない。
喉の奥で鳴りはじめた低い音が、止まらない。
倉の前と、同じ強さだ。
そのとき、通りの竜晶灯が一つ残らず明るさを増して、白い光が、どくん、と脈を打った。
また、どくん。
「見て、灯りが動いてる!」
子どもたちが、脈を打つ白い灯りの真下へ、明るいほうへ、吸い寄せられていく。
喉の音が、胸の奥まで響いた。今まで聞いた中で、いちばん強い。
北の空は真っ暗なままで、何も見えない。
でも、先輩には分かっている。
来る。
これを下町じゅうに聞かせたら、聖人様の火を一緒に守ってくれた人たちにも、私はまた、狂犬に見える。
……かまわない。
「先輩」
私は、喉に手を当てた。
「今夜は、吠えていいです」
(……よろしいの?)
「はい」
体は私のままで、喉だけを貸す。
淑女のたしなみ、詩の朗読と声楽。
お母様に習った、遠くまで声を飛ばす息の吸い方で、深く吸う。
遠吠えが、出た。
喉の奥が、私の声じゃない形に開いていく。胸の奥が震えて、それでも足は一歩も出ない。
長い、長い声が、白い光の通りを渡り、角を曲がって、下町の端まで届いていく。
歓声が、止まった。
「合図だ!」
角の騎士が、呼び子の笛を吹いた。
隣の角で、また笛が鳴り、その先でも鳴って、音が大通りのほうへ順に渡っていく。
灯籠の真下で、番のおかみさんが、矢印の向きへ腕をまっすぐ伸ばした。
「灯りから、離れて! 矢印のほうへ! 走らないで!」
私の言い方、うつってるね。
緑が見えなくても、灯籠の下には、人が立っている。角に人を立てたのは、このためだ。
「落ち着いて、こちらへ。走らないでください」
白い灯りの下の子どもたちの肩に手を置いて、私はおかみさんの腕の向きへ押し出した。
下町の人の流れが、伸ばした腕のほうへ動きだした。
隣の番の家のおかみさんがお年寄りの手を引き、子どもを背負ったお父さんが続く。
灯籠の下では、騎士が同じ向きを指したまま。
家に戻りかけた一家の前に、騎士が回って、低い声で言った。
「竜は、灯りのそばの屋根に降ります。家の中は、灯りのそばです。外へ」
布をかけた大通りには、騎士の手提げの灯籠が点々と立っている。そこへ入ったところで、人の流れは、いっせいに手を外したそうだ。
ふさいでおいた目で、暗がりを見る。
海賊が、いっせいに目を取りかえた。
フリッツくんは、家族と先に出した。
宮殿の塔の早鐘が鳴りはじめたのは、それから、ずっとあとだった。
◇
角から、人の流れが消えた。
私は、鍛冶屋の角から、出口のほうへ歩きはじめた。最後の見回りは、いちばん奥から出口へ。
角の騎士が、灯籠と祠の火を消してから、私に言った。
「この角、異常なし。火、なし」
それから、二人が私のうしろについた。
ほかの角の騎士たちも、火を消して呼び子で返してから、大通りへ出ていく。
明るい通りから暗い行き止まりをのぞくときは、ふさいでおいた目を開けた。
誰も、いない。
灯火商会の職人さんたちも、倉の見張りも、騎士が大通りへ連れていった。
出口にいちばん近い、おじいさんの角で、私は足を止めた。
祠の前に、おじいさんが、ほうきを持って立っている。
両脇で、角の騎士が二人、困った顔をしていた。
「火の番が、火を離れちゃならねえ」
そのとき、翼の音がした。
北の空から、黒い影が、広場の上を越えてくる。
「火は、消していいんです。番の方が、先です」
おじいさんが、灯籠を見上げた。
「……聖人様は、走ってらっしゃる」
おじいさんが祠の火を吹き消した、そのとき、頭の上の屋根が、みしりと鳴った。
大通りに近い、この角の屋根に、竜が降りた。
長い首が、真下の白い灯りへ下りてくる。おじいさんの膝が、抜けた。
淑女のたしなみ、紅茶の作法。
カップの紅茶を一滴もこぼさない平衡で、おじいさんを、ほうきごと抱えあげる。
走らない。竜に背中を見せない。一歩ずつ、灯りから離れる。
喉は鳴りやまない。でも、竜のほうへは、半歩も出ない。
金色の目が、私を見た。
足は、止めない。かといって、速めもしない。
五歩、六歩。
白い灯りの届かない、布をかけた大通りの暗がりまで下がって、おじいさんを下ろした。
騎士の四人が、口を開けたまま、うしろに並んでいる。
これで、最後の一人。
竜は、もう私たちを見ていなかった。
真下の灯りに鼻を寄せ、枠の中の石を、そっとくわえて外す。
首を伸ばして、隣の角の灯りに鼻を寄せただけで、通りすぎる。
屋根を渡って、その先の角で、もう一つ。また渡って、もう一つ。
三つくわえると、竜は顔を上げた。
私の喉の奥で、小さな音がした。
くう。
先輩は、竜を見ていた。
竜は北へ帰っていった。
おじいさんの角の騎士が戻って、灯籠の火を消した。
「火、なし」
持っていったのは、三つだけ。下町じゅうの角の白い灯りは、まだほとんど全部が光っている。
……なら、残りは、よその巣の子?
その親たちは、まだ来ていない。
布をかけ直すまでは、誰も下町へ戻せない。
◇
中央広場の西の端では、かがり火の前で、番の家の人たちが、角ごとに名前を呼んでいた。
騎士が数え、商会の人の数も数えた。
竜が頭の上を越えていったときも、ここでは誰も走らなかったそうだ。
「見回り、終わりました。残っている方、なし」
「下町、一人残らず!」
騎士団長の声に、歓声が上がった。
けが人は、転んだすり傷が二人。
石のある聖堂からかがり火の隣へ移した救護所では、灯火卿の祝福を断ったミレイユさんと、アンナが、もう手当てを終えている。
壊れた屋根は、三軒。
「騎士団長。下町の白い灯りに、布を。それまでは、どなたも戻さないでください。入るのは二人一組、出口の側から」
「……承知した」
騎士団長が、私の横に並んだ。
「竜が来たときに民を守れるのは、騎士か、狂犬か」
騎士団長の口が、ゆっくり動いた。
「……騎士と、狂犬で、だな」
「番の家の皆さんも、です」
宮殿から来た近衛の方の話では、陛下は早鐘と同時に、窓も石の灯りもないお部屋へ移られて、ご無事だそうだ。
申し送りは、ちゃんと届いていた。
フリッツくんも、駆けてきた。
「師匠! 師匠の声、北の門まで聞こえたそうであります!」
それ、盛ってない? 近所迷惑って言葉、この国にもあるのかな。
荷車の日の、いちばん小さい子が、足もとで私の裾を引いた。
「おねえちゃん。さっきのも、おなか?」
「……おなかより、ちょっと上です」
ほうきを持ったおじいさんが、私を見ていた。
訂正は、八日後。今夜が、その日だ。
「あの灯籠、聖人じゃなくて、出口のしるしで……」
「知ってるよ」
おじいさんが、笑った。
「人を逃がす、しるしだろう。……だから、聖人様だ」
訂正、失敗。
そのとき、人ごみの端で、灰色の上着の、商会の職人さんの声が聞こえた。
「吠えたら、竜が来たんだ。ほんとに」
見たとおりの言い方だし、順番も、本当だ。
隣の男が、うなずいて言いかえた。
「狂犬令嬢様が、竜を呼んで、追い払ってくださったのさ」
その言い方が、隣へ、また隣へ渡るうちに、短くなっていく。
「狂犬が吠えると、竜が来る」
(……わたくし、知らせただけですわ)
「知ってます。聞いてましたから」
……次に竜が来た夜、呼んだのは誰ってことになる?




