27 強襲
「え」
急に訪れた暗闇に驚いて私は顔を上げる。天窓を仰げば驚きに息を呑んだ。
目だ。
赤い、赤い目。月の光を反射して天窓から私のいる部屋を覗き込んでくる、赤い目。感情の見えない丸い目が野性を思わせた。人に懐かない、孤高の。人のルールの外にある生命。
それは鳥のようだった。真っ白な羽毛を持つ、巨大な鳥だ。顔を近づけて覗き込んでいるせいかその全貌は見えないけれど、天窓から目だけが覗き込んでくるのだからその大きさは察することができる。私の身長より大きい。そんな巨大な鳥、見たことない。
何の用だろう。この部屋は結界を敷いているとコーエンが教えてくれたけれど。外から魔物を入れないために城の尖塔に予言の乙女のための部屋はある筈なのに。あれ、どう見ても魔物なんですけど。天窓を突き破る力があるかは判らないけれど、見るからに非力という大きさでもない。入ってこないだろうか。
天窓は元々手を伸ばしても届くような場所にはない。椅子に乗ろうがテーブルに乗ろうが同じだ。それくらい高い場所にある。向こうもあの巨体であの窓だけを突き破ったとしてもすぐに私に届くことはないだろうけれど、唯一の出入り口が沢山の鍵で施錠されている以上は私に逃げ場はない。
「リナ!」
「コーエン……?」
その施錠された扉の向こうでコーエンの声がした。ガチャガチャと錠をいじっている音もする。けれどいくつ外しているのか、数が多すぎて手間取っているようだった。
「んもぅ! 鍵が多すぎるわ!」
案の定イライラしたコーエンの声がするから私は少し苦笑した。笑うなんて余裕じゃない、とコーエンが驚いたように言う。現実感がなくて、と私は正直に答えた。
「怖いは怖いし驚いてもいるけど、物理的なスケールが大きすぎて実感が湧かないの。ねぇコーエン、あれ、何なの?」
「あれはファルケ。ヒンメルに普段はいるんだけど、迷い込んだのかしら。人も食べるから気をつけてね」
何をどう気をつけろというのか判らないけれど、私はただ目を逸らさないでじっと見つめ続けた。向こうは向こうでよく見える場所でも探しているのか首を傾げるようにしながら角度を変えて何度も覗き込んでくる。その間も私と視線は合ったままだ。赤くて、綺麗な目だった。
「一羽だけ迷い込むものなの?」
「迷い込んできたことがないから判らないわ。ヒンメルでは普段、巣立てば家族ができるまでは一羽で生活してるんでしょうけど。まさか狩で此処まで来たなんてことないわよね。ヒンメルからお城まで人間なら沢山いるのよ」
それって、と私は聞きたくないなと思いながら口にする。
「普段から人間を食べてるってこと?」
違うわ、とコーエンが否定する。その声には未だに焦りが滲んでいる。
「アナタを目的にやってきたんじゃないか、ってこと」
そんなこと考えてもいなくて私は頭が真っ白になった。いやまぁ、予言の乙女の部屋に魔物が入ってこられないように、というのはそういう意味合いもあるのだろうと思ったけれど魔力もないし普通の人間である私を狙ってくることなんてないだろうと思っていた。人が求めるほど魔物が予言の乙女を求めるとは思えなかったのもある。だってあの予言は、人のためのもの、なのだから。
「それは……怖いわね」
「やっと実感が持てたようで何より。さぁ、開いたわ。行くわよ」
がちゃがちゃがちゃん、と音を立てて錠が外され、ぎぃ、と相変わらず軋みながら扉が開く。その扉の向こうでコーエンが私に手を差し出した。それを取って私は部屋から出る。そこで初めて視線を逸らしたからか、ファルケが声をあげた。高く鋭い鳴き声は城全体を揺らしたようで天窓のガラスがビリビリと低く震えた。
「やっぱり狙いはアナタね。困ったわ」
前を走るコーエンが階段を駆け下りながら言う。
「アタシも流石に普段出会わないファルケを討伐したことはないのよ。イケるかしら。それには広い場所が必要だし、アナタは安全なところにいなくちゃいけないし」
考えを纏めているらしいコーエンに私が出せる助言などあるはずもなく、黙って手を引かれながら転げ落ちないように気をつけて階段を降りる。
「中庭? でも周りは壁に囲まれてるし、突っ込まれて壊されても厄介だわ。やっぱり、うん、そうね、屋上!」
「え」
この城の屋上は私も連れて行ってもらったことがあるけれどあまり広い場所ではない。逃げ場所も隠れ場所も少ないし、腕に覚えのある剣士が一騎打ちをするには適しているかもしれないけれど相手は巨大な怪鳥だ。しかも初めて対峙する相手なのに、大丈夫なのだろうかと私は不安に思った。コーエンには怪我をしてほしくない。
「悪いけどリナ、ファルケの誘導のためにアナタにも来てもらうわ。でも絶対に守るから。アタシのこと、信じてくれる?」
拒否するなら他の案が必要だ。でも国防の全てをコーエンが担っていて、少数精鋭の部隊を作ろうと進言したばかりの今はまだそんな戦力もない。エルガーは、と思ったけれどエルガーの手を借りれるかどうかも判らないし、コーエンから頼むのは立場的にも難しい可能性がある。この声を聞けばエルガーだって黙っているとは思えない。必要があると思えば出てくるだろうと踏み、そしてこれらのことを一秒で考えて、私は頷いた。
「信じる!」
「ありがと」
語尾にハートマークでもつきそうな声でコーエンは言う。前を向いているから表情は見えないけれど、きっと綺麗に微笑んでいるのだろう。
私たちは尖塔を駆け下り、屋上への道を走る。動き続けることを余儀なくされる社畜だったとはいえ、体力が無限にあるわけではない。私は早々に息を切らしていたけれど立ち止まるわけにはいかなかった。苦しいでしょうけど頑張って、とコーエンにも励まされ、私は足を動かし続けた。
そうしている間にも、風を切って城の周りをファルケが飛んでいるのが見えた。私たちが何処へ行くのか、追っているとしか思えない動きだ。赤い目は私を見つめ続け、私は今度は視線を合わせないようにしながら前だけ向いて走り続けた。
階段を駆け上がり、屋上へ出る。びゅう、と強い風が吹いたのはファルケの羽搏きだろうか。宙へ留まり続けるため、ファルケは翼をバサバサと動かしていた。私たちが此処へ出ることを予想したのか、先回りして待っていたようだった。
「やーね、アタシの考えてることなんてお見通しってわけ?」
コーエンは困惑したように口にし、私に出入り口から動かないよう指示すると握っていた手を離した。私はぜぇぜぇと肩で息をしながらもコーエンを見守るために顔を上げる。屋上には細身の剣を構えたコーエンと、風を送り続けるファルケが向き合っていた。このまま一騎討ちが始まるのだろうと思う。どんな作戦があるか判らないけれど、コーエンは真っ向勝負を挑むらしい。
正面から見たファルケは真っ白な羽毛に赤い目をした綺麗な鳥だった。けれどその体は遥かに大きく、鉤爪は鋭い。綺麗は綺麗だけれど、インコやオウムなどとは違う、鷹や梟のような猛禽類であることは見て判った。私など縦に三人並んでも頭にやっと手が届くかどうかといったところではないかと思う。試すには近づかなくてはならないし、そんなことをしたらひと口で飲み込まれるか鉤爪に裂かれて終わりになるだろうからやらないけれど。
「リナ、其処から絶対に動かないで。でもアタシが倒れたり屋上から弾き飛ばされたりしたらすぐ、我が王のところへ走りなさい。できるわね?」
そんな怖いことをコーエンが言うから返事をし損ねる。コーエンはファルケと対峙していてこちらを振り向くようなことはしない。だから私がどんな表情を浮かべたか、私が何を思ったかなんて知る由はないのだ。
「できるわね」
コーエンが再度問う。嫌だと私は答えた。
「できるって言ったら、捨て身になるでしょう。そんなの絶対嫌。この先の未来に、エルガー様のために、あなたは必要よ、コーエン」
息を切らして涸れた喉で喋ったものだから咽せてしまったけれど、コーエンには聞こえたらしい。仕様のない子、と苦笑されてしまった。
「そんなこと言われたら無傷で帰らないといけないじゃない。あんまり顔出して見てちゃダメよ。何が飛んでくるか分かったものじゃないんだから」
そう言うや否や、コーエンは屋上の床を蹴って走り出した。