22 目にした事実
「此処から出ないで。声は別に、出しても良いけど……答えられないと思う。クリスタルの感じから多分、一晩。一応コーエンには昼を過ぎても戻ってこなければ様子を見に来るようには言ってる、から、きみが此処でひとりってことにはならない」
キラキラとした破片を円を描くように置いて、エルガーはその向こうから私に言った。私はコーエンにこれも必要と用意してもらった敷物を敷いてその上に座る。クッションが必要だと言われた理由が分かるくらい地面はゴツゴツしていて痛いし、防寒具が必要と言うのも納得なほど足元は冷えた。これに動かない、という指示が加わるからじっとしていれば確かに全身が冷えてしまうだろう。
エルガーの向こうには此処へ来た時に見たクリスタルが月の光を受けて幻想的に輝いていた。変わったところはないように見える。それとも予言の乙女なら分かるものなのだろうか。
「出たらどうなります?」
「……クリスタルが生んだ魔物に見つかる」
「かしこまりました。出ません」
私はにっこりと笑って頷いた。残った選択肢を選ぶとどうなるか訊けば自分が取ろうとしている手段が良い未来に辿り着くかどうかの判断基準になる。勿論それを教えてくれる相手が信頼に足りれば、という前提はあるが。
とはいえ今日の私の目的はクリスタルの観察及びエルガーの対処を知ることだ。予言の乙女を守るためにこうして何かしてくれたのだろうから、騙しているのは心苦しいけれど背に腹はかえられないし、ありがたくその恩恵を受けようと思う。此処から出なければ良いなら出ない。
「出ませんけど、でも仕様についてはお尋ねしても良いですか? 一度出て、戻ってきたらまた同じ効果は得られます?」
「あぁ、うん、まぁ……そういう避難場所としての使い方もできなくはないけど。場所を見られて入られたら意味はない。この鏡の結界は、き、きみのいる場所を撹乱するだけだから」
キラキラ光る破片は鏡らしい。へぇ、と私はぐるりと囲った破片を少し首を伸ばして眺めた。無造作に割れて散らばった欠片を集めたようなそれは鋭く、けれど綺麗に輝いている。反射しているのは金属だから、というわけではないようだ。鏡だから反射しているのだろう。
「エルガー様はこれから何を?」
「……見てれば分かる」
教える気はない、ということかと思って私は息を吐いた。分かりました、と答え、見てますからねと言えばエルガーは顔を背ける。クリスタルを向いて、それからまた私の方へ戻す。白い仮面が表情を変えることはない。
「こんなところまで来て、き、きみ、本当に変わってるよ。今ならまだ城へ帰してあげれるけど」
「いいえ。大丈夫です。此処にいます」
「……うん」
エルガーは一瞬俯くと、また顔を上げて私を見た。仮面の向こうに彼の目は見えないけれど視線は感じて、私も仮面を見つめ返す。何か言われるんだろうと思って身構えていたものの、それじゃ、とエルガーは一歩離れた。
「見てても別に面白いものではないと思うけど」
「面白さを求めて申し出たわけではありません。どうぞエルガー様、いつも通りに」
私が促すとエルガーは体ごと振り向いてクリスタルへ向かった。私はその背を見つめる。月の明るいこの場所ではエルガーが闇に溶けることもない。伸びた影がクリスタルへかかる。光が反射するクリスタルの特に長く伸びた柱の隣、足元の短い刺々と伸びるクリスタルを避け、エルガーは隣の柱に手を伸ばした。
ぺたり、と触れたエルガーの手がそのままズブズブとクリスタルの中へ吸い込まれていく。私は目を丸くした。
「エ、ルガー様……っ」
それは大丈夫なのか、と私は思う。此処へ来る時に通った鏡の魔法のように、クリスタルも同じなのだろうか。本来なら通り抜けないはずのものを彼は通り抜ける。そういうことができるのが、此処の普通なら良いのだけど。
「──リナ」
エルガーが言葉を落とす。ギャーギャーと森の魔物が騒ぐ音がする中でも不思議とその声は私の場所まで届いた。
「これは他の誰かにできることじゃない。けど、そう思ってくれたことは、その、少しだけ、嬉しい」
「……っ」
エルガーはそう言い残すとクリスタルの中へ足を進めた。ズブズブと柔らかいものでもあるかのようにクリスタルはエルガーを受け入れる。
──王様はクリスタルに自らの躰を取り込ませてます。王様が持つ誰よりも膨大な魔力を取り込ませることで、クリスタルの力と拮抗することができるんです。
ロドルフが教えてくれたことが頭の中で蘇った。エルガーは呪われている。呪いを受けている。クリスタルへ躰を取り込ませることで、クリスタルの力を抑えている。それが、これだと言うのだろうか。
クリスタルはエルガーを全て呑み込んでしまった。透明な、白い光を受けて煌めくその奥でエルガーは更に進んでいるのだろうか。だけど、でも、どうしてそんな。
辺りの様子を窺いながら私は結界から足を踏み出してクリスタルへ近づいた。魔物の声はしない。足音も、羽搏く音も、茂みを揺らす音さえ遠い。だから私は早々にエルガーの言いつけを破る。気が気ではなかった。目の前でクリスタルへ自ら呑み込まれていく姿なんて見てしまったら。
「……えいっ」
エルガーが触れたクリスタルに私も手を伸ばしてみた。恐る恐る。鏡の魔法のように私の手も通り抜けるかと思った。けど、クリスタルは冷たく私を拒絶する。魔力を欲するのがクリスタルであるなら、魔力なんてあるはずのない私は門前払いされたということなのだろう。滑らかな表面はしっかりと質量があって、私を向こう側から押し返してくる。私がいくら押そうともクリスタルの中には入れない。
顔を近づけてエルガーの姿を探した。クリスタルは無色透明のくせに光を屈折させて少し位置がずれるだけで眩しい光を目に飛び込ませてくる。私は目を細めながらエルガーの姿が見えないか探した。ひらり、と彼の黒いローブが見えた気がして必死にそれを追う。
「──っ」
ずる、と伸ばされた腕から袖がずれた。何もない。何もないのに、腕が伸ばされたと解った。その手が少年の腕に触れる。幼い、中学生くらいに見える少年だ。私はハッとしてクリスタルから顔を離した。そのまま足早に結界へ戻る。周囲には誰もいない。魔物の姿も、人の姿も。誰にも見られずに戻れたと思う。
心臓がドキドキしていた。暇潰しも必要だと言われたから持ってきた数冊の本へ視線を向ける。クリスタルの様子を観察するという名目でコーエンに見繕ってもらった本だ。クリスタルについて書かれていると思う。いきなり飛びついてしまうと興味関心を強く持っていると思われると警戒したから中身は知らない。
でも、その本には何が書かれているだろう。今見たもの以上のことなど、きっと載っていない。だって書く人がいないのだ。
あの、少年は。あれはきっと、エルガーだ。
確信などない。思い込みかもしれない。けれど私はそう直感した。
── リナさんがお会いになった王様は、意識だけ別の人形の体に移しているような状態ですね。あの体は人ではない。形がない。実体がない。
──王様はつまり、この国の人のためにご自分の時間を差し出したんです。過去も未来も、国のために。だから骸の王。だからあんな姿なんです。
ロドルフが教えてくれたことを思い出す。クリスタルに取り込まれ、偽りの体でアーベントのことを想い、活動する。エルガーは一体。
一体、いつから。
もしもあの少年の姿のままクリスタルの中にいるなら。今がいくつか知らないけれど、でも。
成熟した大人という印象も受けないのが、もし、“まだその年齢に達していない”ということなら。まだなっていない年齢の時間には辿り着けない。これから先、なるとはしても。
もし、あの歳の頃からずっと此処にいるのなら。偽りの体でずっと、ずっと。
此処に生きるものたちの幸せを、願っているのだろうか。
ずしん、と地面が震えて私はハッとする。その元であるクリスタルを見るために、ゆっくりと振り返った。