第2話 一人の復讐者
◇
やがて街道が見えてきた。
そこでフェイは眉を寄せた。
「……ん?」
道が妙に荒れている。
馬蹄の跡が多い。
一頭や二頭ではない。
十頭でも足りない。
荷車の車輪らしい深い跡まで、いくつも残っていた。
フェイは馬を止めた。
「商人……?」
こんなに大きな商隊が来るとは聞いていなかった。
そもそも、商人にしては馬の数が多すぎる。道端の草も、かなり広い範囲まで踏み荒らされていた。
胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
それでも、何が起きたのかは分からない。
フェイは再び馬を進めた。
太陽は西の山へ近づき、草原を赤く染め始めている。
いつもなら、この辺りまで戻れば羊の鳴き声が聞こえる。
今日は聞こえない。
犬の声もしなかった。
「……?」
丘を一つ越えた。
フェイの手が止まった。
遠くに、黒い煙が立ち上っていた。
「……え?」
夕焼けの空へ、太い煙が伸びている。
方向は、夏営地。
「なに……あれ」
胸の奥が冷たくなった。
次の瞬間、フェイは馬の腹を蹴っていた。
「走って!」
馬が駆け出す。
風が強くなる。
近づくほど、煙は大きくなった。
やがて、焦げた臭いが鼻へ届く。
「そんな……」
草原に羊がいた。
一頭。
二頭。
群れから離れ、ばらばらに走っている。
追う人間はいない。
「母さん……?」
答えなど聞こえるはずもないのに、フェイは呟いた。
最後の丘を越えた。
馬が止まった。
フェイは、何も言えなかった。
村が燃えていた。
朝まで並んでいた天幕が炎に包まれている。家畜を囲っていた柵は倒され、荷車は横転し、羊毛や毛皮が地面いっぱいに散らばっていた。
人が倒れていた。
一人ではない。
何人も。
「…………」
夕方の風が吹いた。
朝と同じ、草原を渡ってきた乾いた風だった。
けれど今、その風が運んできたのは、草と羊毛の匂いではない。
煙。
焦げた木。
焼けた毛皮。
そして、フェイが考えたくない臭い。
「……母さん」
馬から降りた。
足が震えた。
走る。
「母さん!」
返事はない。
朝まで子供たちが遊んでいた場所。女たちが羊毛を紡ぎ、男たちが毛皮を干していた場所。
何もかもが壊されていた。
人の姿がない天幕も多い。
地面には、誰かを引きずっていった跡が残っていた。荷車の轍の脇には、女物の布や子供の履物まで落ちている。
何人が死んだのか。
何人が連れていかれたのか。
フェイには分からなかった。
「母さん!」
自分たちの天幕も燃えていた。
「あ……」
炎の中で、何かが崩れた。
黒い縁。
赤い飾り。
フェイは、それが何なのかすぐに分かった。
朝届いたばかりの絵だった。
炎の向こうで、ユーゴが笑っている。
その隣には自分がいた。
少し頬を赤くして。
少し目を伏せて。
『フェイ、おまえ、こんな顔するのか?』
『相変わらず失礼だなぁ!』
『こんな顔してたって』
朝の声が、耳の奥で蘇った。
炎がユーゴの顔へ移った。
絵が黒く縮んでいく。
次に、フェイの顔も燃えた。
「……やめて」
声が漏れた。
「やめてよ……」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
今年、結婚するはずだった。
今日、父が婚礼の日取りを決めて帰ってくるはずだった。
母にはまた花嫁修業をしろと怒られるはずだった。
ユーゴには、昔泣き虫だったことをまたからかうつもりだった。
来年の夏も、この場所へ帰ってくる。
再来年も。
その次も。
そう思っていた。
炎が、絵を飲み込んだ。
「おい!」
背後から男の声がした。
フェイが振り向く。
兵士がいた。
六人。
レミーラ兵だった。
本隊はすでに去った後なのだろう。残された荷を漁っている。
一人がフェイを見た。
「まだ若い娘がいたぞ」
別の男が笑った。
「娘か」
その手には、誰かから奪ったらしい銀の飾りが握られていた。
フェイの中で、何かが切れた。
弓を取る。
「ん?」
即座に矢を番える。
「おい、あの娘――」
放つ。
ヒュッ。
ドスッ。
鈍い音とともに矢が男の喉へ突き立った。
「がっ――!」
男が倒れる。
残る五人の顔から笑みが消えた。
「な――」
二本目。
胸。
三本目。
腹。
「敵だ!」
ようやく剣が抜かれた。
フェイは馬へ飛び乗り、腹を蹴る。
馬が駆ける。
一人が正面から剣を構えた。
フェイは鞍の上で身体を低くし、すれ違う瞬間に弓を引いた。
放つ。
男が崩れ落ちる。
「囲め!」
誰かが叫んだ。
囲めるはずがなかった。
草原で育った馬だった。
そして、その背にいるのは、幼い頃から馬とともに生きてきたフェイだった。
鞍の横へ身体を落とす。
地面へ触れそうなほど深く身を沈め、その姿勢のまま矢を番える。馬を走らせながら身体を捻り、後方へ射る。
また一人が倒れた。
「なんだ、こいつ……!」
残る二人が逃げた。
フェイは追った。
馬の速さが違う。
一人を背中から射抜く。
最後の一人が振り返り、剣を投げ捨てた。
「待て!」
フェイは弓を引いた。
「待ってくれ!」
男が両手を上げる。
「俺は命令されただけだ!」
フェイの手は震えていなかった。
怒っているのか。
泣きたいのか。
自分でも分からない。
ただ、弦をいっぱいまで引いていた。
「知らない」
「頼む!」
「知らないよ」
「俺じゃない! 俺は村を――」
「レミーラ兵でしょ」
フェイの声は、自分でも驚くほど静かだった。
男の顔が引きつる。
矢を放とうとした、その瞬間だった。
「このガキ!」
男が懐から短剣を抜き、飛びかかってきた。
フェイは反射的に身体を捻った。
短剣が肩先を掠める。
馬から転がるように地面へ降りる。
男が再び短剣を振り上げた。
近い。
フェイは弓を引いた。
放つ。
男の身体が目の前で止まった。
血が、フェイの頬へ飛んだ。
男が崩れ落ちる。
フェイは動かなかった。
弓を握ったまま、倒れた男を見下ろしていた。
頭の中に、幼い頃から何度も聞かされてきた言葉が浮かぶ。
奪われたなら、奪い返す。
殺されたなら、殺す。
◇
日が暮れていた。
遠い山々はすでに黒い影となり、空にはわずかな明るさだけが残っている。焼け落ちた夏営地のあちこちでは、まだ赤い火が燻っていた。
フェイは、その中を歩いていた。
どれほどの時間、そうしていたのか分からない。
母を呼んだ。
知っている顔を探した。
倒れている者を一人ずつ確かめ、誰かが連れ去られた跡も追った。
けれど、何が起きたのかを教えてくれる者はいなかった。
服に血がついていた。
腕にも、頬にも。
煤と血で、全身が汚れている。
足元には、昼間に仕留めたウサギが落ちていた。
「…………」
フェイはそれを見下ろした。
ほんの少し前まで、これしか獲れなかったら母にどやされると、本気で心配していた。
「……母さん」
返事はなかった。
風だけが、夜の草原を吹いていた。
◇
その頃、街道を何頭もの馬が駆けていた。
「急げ!」
先頭を走るユーゴが叫んだ。
クーマ氏族の夏営地がレミーラ兵に襲われている。
その知らせが届いたのは、太陽が西へ傾き始めた頃だった。
街道を通った者が、クーマの夏営地の方角から黒煙が上がっているのを見たという。さらに、武装したレミーラ兵の一団が街道を西へ引き返していく姿も確認されていた。
知らせを聞いたユーゴは、近くにいた者たちを集め、そのまま馬へ飛び乗った。
ミクマルも一緒だった。
昼間、彼はクーマの夏営地を訪れていた。
あの時は、何もなかった。
女たちは羊毛を扱い、子供たちは走り回り、フェイの母親は夫が酒宴で飲みすぎるのではないかと笑っていた。
フェイは、届けられた婚約画を見て赤くなっていた。
まだ半日も経っていない。
「見えた!」
後ろから声が飛ぶ。
丘を越えた。
ユーゴが息を呑んだ。
「……なんだよ、これ」
クーマ氏族の村が、黒く焼けていた。
天幕は崩れ、柵は壊され、暗闇の中に残り火だけが赤く浮かんでいる。
人が倒れていた。
ドグラの者たち。
その間には、レミーラ兵の死体も何人も転がっている。
「フェイ……」
ユーゴの顔から血の気が引いた。
馬を走らせる。
「フェイ!」
返事はない。
「フェイ! どこだ!」
そして。
残り火の向こうに、人影があった。
「……!」
ユーゴは手綱を強く引いた。
フェイだった。
「フェイ!」
生きている。
そのことが分かった瞬間、ユーゴは馬から飛び降りた。
「フェイ! 無事だったのか!?」
駆け寄る。
だが、途中で足が止まった。
「……フェイ?」
様子がおかしい。
フェイは弓を握ったまま立っていた。
短い髪は煤で汚れ、頬にも首にも、服にも赤黒い血がついている。
自分の血ではない。
レミーラ兵の返り血だった。
その目は、どこを見ているのか分からなかった。
「フェイ……俺だ」
返事はない。
ミクマルたちも馬を降りた。
昼間。
ミクマルは、この少女と笑って話していた。
『フェイ、おまえ、こんな顔するのか?』
『相変わらず失礼だなぁ!』
その時の少女と、目の前に立っている少女が同じ人間だとは思えなかった。
「フェイ」
ユーゴが、もう一度呼んだ。
しばらくして。
フェイの唇が動いた。
「……殺してやる」
「え?」
「殺してやる」
ユーゴの表情が固まった。
「フェイ……」
「殺してやる」
フェイは、ただ同じ言葉を繰り返した。
弓を握る指に力が入る。
「フェイ、もういい」
ユーゴが一歩近づいた。
「俺たちが来た。だから――」
「殺してやる」
聞こえていなかった。
ユーゴの声も。
ミクマルの声も。
夜の風が、焼けた村の中を吹き抜ける。
燻っていた火から、赤い火の粉が舞い上がった。
「殺してやる」
フェイが顔を上げた。
今朝までなら、ユーゴが昔泣き虫だったことを笑っていた。
婚約画の自分を見て照れていた。
母から花嫁修業を逃げ出して、ウサギ一羽しか獲れなかったことを心配していた。
そんな少女の姿は、もうどこにもなかった。
ユーゴは何も言えず、ただその場に立ち尽くした。
フェイは血に濡れた弓を握りしめた。
「レミーラなんか……」
その目には、もう涙すらなかった。
「全部殺してやる」




