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アーネム戦記外伝 草原の花嫁  作者: Tanu1016


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第2話 一人の復讐者

 ◇


 やがて街道が見えてきた。


 そこでフェイは眉を寄せた。


「……ん?」


 道が妙に荒れている。


 馬蹄の跡が多い。


 一頭や二頭ではない。


 十頭でも足りない。


 荷車の車輪らしい深い跡まで、いくつも残っていた。


 フェイは馬を止めた。


「商人……?」


 こんなに大きな商隊が来るとは聞いていなかった。


 そもそも、商人にしては馬の数が多すぎる。道端の草も、かなり広い範囲まで踏み荒らされていた。


 胸の奥に、小さな違和感が生まれる。


 それでも、何が起きたのかは分からない。


 フェイは再び馬を進めた。


 太陽は西の山へ近づき、草原を赤く染め始めている。


 いつもなら、この辺りまで戻れば羊の鳴き声が聞こえる。


 今日は聞こえない。


 犬の声もしなかった。


「……?」


 丘を一つ越えた。


 フェイの手が止まった。


 遠くに、黒い煙が立ち上っていた。


「……え?」


 夕焼けの空へ、太い煙が伸びている。


 方向は、夏営地。


「なに……あれ」


 胸の奥が冷たくなった。


 次の瞬間、フェイは馬の腹を蹴っていた。


「走って!」


 馬が駆け出す。


 風が強くなる。


 近づくほど、煙は大きくなった。


 やがて、焦げた臭いが鼻へ届く。


「そんな……」


 草原に羊がいた。


 一頭。


 二頭。


 群れから離れ、ばらばらに走っている。


 追う人間はいない。


「母さん……?」


 答えなど聞こえるはずもないのに、フェイは呟いた。


 最後の丘を越えた。


 馬が止まった。


 フェイは、何も言えなかった。


 村が燃えていた。


 朝まで並んでいた天幕が炎に包まれている。家畜を囲っていた柵は倒され、荷車は横転し、羊毛や毛皮が地面いっぱいに散らばっていた。


 人が倒れていた。


 一人ではない。


 何人も。


「…………」


 夕方の風が吹いた。


 朝と同じ、草原を渡ってきた乾いた風だった。


 けれど今、その風が運んできたのは、草と羊毛の匂いではない。


 煙。


 焦げた木。


 焼けた毛皮。


 そして、フェイが考えたくない臭い。


「……母さん」


 馬から降りた。


 足が震えた。


 走る。


「母さん!」


 返事はない。


 朝まで子供たちが遊んでいた場所。女たちが羊毛を紡ぎ、男たちが毛皮を干していた場所。


 何もかもが壊されていた。


 人の姿がない天幕も多い。


 地面には、誰かを引きずっていった跡が残っていた。荷車の轍の脇には、女物の布や子供の履物まで落ちている。


 何人が死んだのか。


 何人が連れていかれたのか。


 フェイには分からなかった。


「母さん!」


 自分たちの天幕も燃えていた。


「あ……」


 炎の中で、何かが崩れた。


 黒い縁。


 赤い飾り。


 フェイは、それが何なのかすぐに分かった。


 朝届いたばかりの絵だった。


 炎の向こうで、ユーゴが笑っている。


 その隣には自分がいた。


 少し頬を赤くして。


 少し目を伏せて。


『フェイ、おまえ、こんな顔するのか?』


『相変わらず失礼だなぁ!』


『こんな顔してたって』


 朝の声が、耳の奥で蘇った。


 炎がユーゴの顔へ移った。


 絵が黒く縮んでいく。


 次に、フェイの顔も燃えた。


「……やめて」


 声が漏れた。


「やめてよ……」


 誰に言っているのか、自分でも分からない。


 今年、結婚するはずだった。


 今日、父が婚礼の日取りを決めて帰ってくるはずだった。


 母にはまた花嫁修業をしろと怒られるはずだった。


 ユーゴには、昔泣き虫だったことをまたからかうつもりだった。


 来年の夏も、この場所へ帰ってくる。


 再来年も。


 その次も。


 そう思っていた。


 炎が、絵を飲み込んだ。


「おい!」


 背後から男の声がした。


 フェイが振り向く。


 兵士がいた。


 六人。


 レミーラ兵だった。


 本隊はすでに去った後なのだろう。残された荷を漁っている。


 一人がフェイを見た。


「まだ若い娘がいたぞ」


 別の男が笑った。


「娘か」


 その手には、誰かから奪ったらしい銀の飾りが握られていた。


 フェイの中で、何かが切れた。


 弓を取る。


「ん?」


 即座に矢を番える。


「おい、あの娘――」


 放つ。


 ヒュッ。


 ドスッ。


 鈍い音とともに矢が男の喉へ突き立った。


「がっ――!」


 男が倒れる。


 残る五人の顔から笑みが消えた。


「な――」


 二本目。


 胸。


 三本目。


 腹。


「敵だ!」


 ようやく剣が抜かれた。


 フェイは馬へ飛び乗り、腹を蹴る。


 馬が駆ける。


 一人が正面から剣を構えた。


 フェイは鞍の上で身体を低くし、すれ違う瞬間に弓を引いた。


 放つ。


 男が崩れ落ちる。


「囲め!」


 誰かが叫んだ。


 囲めるはずがなかった。


 草原で育った馬だった。


 そして、その背にいるのは、幼い頃から馬とともに生きてきたフェイだった。


 鞍の横へ身体を落とす。


 地面へ触れそうなほど深く身を沈め、その姿勢のまま矢を番える。馬を走らせながら身体を捻り、後方へ射る。


 また一人が倒れた。


「なんだ、こいつ……!」


 残る二人が逃げた。


 フェイは追った。


 馬の速さが違う。


 一人を背中から射抜く。


 最後の一人が振り返り、剣を投げ捨てた。


「待て!」


 フェイは弓を引いた。


「待ってくれ!」


 男が両手を上げる。


「俺は命令されただけだ!」


 フェイの手は震えていなかった。


 怒っているのか。


 泣きたいのか。


 自分でも分からない。


 ただ、弦をいっぱいまで引いていた。


「知らない」


「頼む!」


「知らないよ」


「俺じゃない! 俺は村を――」


「レミーラ兵でしょ」


 フェイの声は、自分でも驚くほど静かだった。


 男の顔が引きつる。


 矢を放とうとした、その瞬間だった。


「このガキ!」


 男が懐から短剣を抜き、飛びかかってきた。


 フェイは反射的に身体を捻った。


 短剣が肩先を掠める。


 馬から転がるように地面へ降りる。


 男が再び短剣を振り上げた。


 近い。


 フェイは弓を引いた。


 放つ。


 男の身体が目の前で止まった。


 血が、フェイの頬へ飛んだ。


 男が崩れ落ちる。


 フェイは動かなかった。


 弓を握ったまま、倒れた男を見下ろしていた。


 頭の中に、幼い頃から何度も聞かされてきた言葉が浮かぶ。


 奪われたなら、奪い返す。


 殺されたなら、殺す。


 ◇


 日が暮れていた。


 遠い山々はすでに黒い影となり、空にはわずかな明るさだけが残っている。焼け落ちた夏営地のあちこちでは、まだ赤い火が燻っていた。


 フェイは、その中を歩いていた。


 どれほどの時間、そうしていたのか分からない。


 母を呼んだ。


 知っている顔を探した。


 倒れている者を一人ずつ確かめ、誰かが連れ去られた跡も追った。


 けれど、何が起きたのかを教えてくれる者はいなかった。


 服に血がついていた。


 腕にも、頬にも。


 煤と血で、全身が汚れている。


 足元には、昼間に仕留めたウサギが落ちていた。


「…………」


 フェイはそれを見下ろした。


 ほんの少し前まで、これしか獲れなかったら母にどやされると、本気で心配していた。


「……母さん」


 返事はなかった。


 風だけが、夜の草原を吹いていた。


 ◇


 その頃、街道を何頭もの馬が駆けていた。


「急げ!」


 先頭を走るユーゴが叫んだ。


 クーマ氏族の夏営地がレミーラ兵に襲われている。


 その知らせが届いたのは、太陽が西へ傾き始めた頃だった。


 街道を通った者が、クーマの夏営地の方角から黒煙が上がっているのを見たという。さらに、武装したレミーラ兵の一団が街道を西へ引き返していく姿も確認されていた。


 知らせを聞いたユーゴは、近くにいた者たちを集め、そのまま馬へ飛び乗った。


 ミクマルも一緒だった。


 昼間、彼はクーマの夏営地を訪れていた。


 あの時は、何もなかった。


 女たちは羊毛を扱い、子供たちは走り回り、フェイの母親は夫が酒宴で飲みすぎるのではないかと笑っていた。


 フェイは、届けられた婚約画を見て赤くなっていた。


 まだ半日も経っていない。


「見えた!」


 後ろから声が飛ぶ。


 丘を越えた。


 ユーゴが息を呑んだ。


「……なんだよ、これ」


 クーマ氏族の村が、黒く焼けていた。


 天幕は崩れ、柵は壊され、暗闇の中に残り火だけが赤く浮かんでいる。


 人が倒れていた。


 ドグラの者たち。


 その間には、レミーラ兵の死体も何人も転がっている。


「フェイ……」


 ユーゴの顔から血の気が引いた。


 馬を走らせる。


「フェイ!」


 返事はない。


「フェイ! どこだ!」


 そして。


 残り火の向こうに、人影があった。


挿絵(By みてみん)


「……!」


 ユーゴは手綱を強く引いた。


 フェイだった。


「フェイ!」


 生きている。


 そのことが分かった瞬間、ユーゴは馬から飛び降りた。


「フェイ! 無事だったのか!?」


 駆け寄る。


 だが、途中で足が止まった。


「……フェイ?」


 様子がおかしい。


 フェイは弓を握ったまま立っていた。


 短い髪は煤で汚れ、頬にも首にも、服にも赤黒い血がついている。


 自分の血ではない。


 レミーラ兵の返り血だった。


 その目は、どこを見ているのか分からなかった。


「フェイ……俺だ」


 返事はない。


 ミクマルたちも馬を降りた。


 昼間。


 ミクマルは、この少女と笑って話していた。


『フェイ、おまえ、こんな顔するのか?』


『相変わらず失礼だなぁ!』


 その時の少女と、目の前に立っている少女が同じ人間だとは思えなかった。


「フェイ」


 ユーゴが、もう一度呼んだ。


 しばらくして。


 フェイの唇が動いた。


「……殺してやる」


「え?」


「殺してやる」


 ユーゴの表情が固まった。


「フェイ……」


「殺してやる」


 フェイは、ただ同じ言葉を繰り返した。


 弓を握る指に力が入る。


「フェイ、もういい」


 ユーゴが一歩近づいた。


「俺たちが来た。だから――」


「殺してやる」


 聞こえていなかった。


 ユーゴの声も。


 ミクマルの声も。


 夜の風が、焼けた村の中を吹き抜ける。


 燻っていた火から、赤い火の粉が舞い上がった。


「殺してやる」


 フェイが顔を上げた。


 今朝までなら、ユーゴが昔泣き虫だったことを笑っていた。


 婚約画の自分を見て照れていた。


 母から花嫁修業を逃げ出して、ウサギ一羽しか獲れなかったことを心配していた。


 そんな少女の姿は、もうどこにもなかった。


 ユーゴは何も言えず、ただその場に立ち尽くした。


 フェイは血に濡れた弓を握りしめた。


「レミーラなんか……」


 その目には、もう涙すらなかった。


「全部殺してやる」

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