第1話 草原の花嫁
本伝の進行と合わせて短編で投稿していたものを連載版として再投稿します。
3話目以降は追加のエピソードとなります。6~7話の予定です。
登場人物
フェイ 遊牧民ドグラ族クーマ氏族の若い娘。部族屈指の弓馬術の名手。
ユーゴ 遊牧民ドグラ族の若者。カガン(王)の後継者。
ミクマル 遊牧民ドグラ族の壮年の戦士。
アーネム大陸レミーラ帝国図
ドグラ高原。
帝国の東方、雨の少ない草原と険しい山々の間に広がるその土地では、古くからドグラと呼ばれる民が暮らしていた。
羊や山羊を追い、季節ごとに住む場所を変える。春には雪解けの草を求め、夏には高原へ上がり、秋になれば群れとともにまた別の土地へ移る。冬には風を避けられる谷へ下り、雪が解ければ再び草原へ戻ってくる。
馬と弓は、そんな暮らしと切り離すことができなかった。
子供は幼い頃から馬に慣れ、少し大きくなれば羊を追って鞍に乗る。弓は獲物を仕留め、家畜を狙う獣から群れを守るための道具であり、戦となればそのまま武器となった。
誇り高き遊牧騎馬民族。
それがドグラだった。
およそ五十年前、レミーラ帝国は一度だけ、この高原を自らの版図へ組み込もうとしたことがある。
当時の皇帝はカール=ハインツ。
後に『大帝』『征服王』と呼ばれ、レミーラの版図を大きく広げた皇帝である。だが、そのカール=ハインツですら、ドグラ高原だけは征服できなかった。
帝国軍が大軍を進めれば、ドグラの騎馬兵は姿を消す。追えば山へ逃れ、退けば草原へ戻り、長く伸びた補給隊だけを襲う。一つの氏族を追い散らしても、その頃には別の氏族が馬に乗っていた。
村を押さえたところで、ドグラは羊や山羊を連れて別の土地へ移ってしまう。
帝国軍は戦場で勝つことはできても、この土地を支配することができなかった。
やがてカール=ハインツは征服を諦め、ドグラとの間に盟約を結んだ。
互いの領域へ兵を入れない。
互いの民を害さない。
そしてレミーラからドグラへ、定期的に酒や貢ぎ物を送る。
いわゆる不戦協定である。
それから半世紀。
小さな諍いこそあっても、両者が大きな戦へ戻ることはなかった。
ドグラの羊毛や毛皮、フェルトや革製品は西のタプルへ運ばれ、代わりに穀物や塩、鉄器が高原へ入ってくる。若いドグラの男がレミーラへ渡り、その馬術や弓術を買われて傭兵となることさえあった。
敵ではない。
だが、臣下でもない。
それがドグラとレミーラの関係だった。
そしてドグラには、子供でも知っている古い掟がある。
奪われたなら、奪い返す。
殺されたなら、殺す。
単純な掟だった。
だからこそ、誰も簡単には奪わなかったし、簡単には殺さなかった。一頭の羊を盗めば一頭だけでは済まず、一人を殺せば、その血は一人分だけでは終わらない。
そうなる前に氏族長たちが話し合い、弁償させ、頭を下げるべき者には頭を下げさせる。
越えてはいけない一線を、皆が知っていた。
少なくともフェイは、そういうものだと思っていた。
十八年間、ずっと。
◇
「フェイ」
「……なに?」
「なに、じゃないよ。また手が止まってる」
母に言われ、フェイは渋々と膝の上へ目を落とした。
針と糸。
そして、ほとんど進んでいない布。
ドグラ族の若い娘、フェイは花嫁修業の真っ最中だった。
「止まってないよ」
「どこがだい」
「さっきより、ちょっと進んだ」
「その“ちょっと”が半刻前から同じ場所じゃないか」
「細かいなぁ」
「細かく縫う練習をしてるんだから、細かく見るに決まってるだろ」
母は呆れたようにため息をついた。
夏のドグラ高原を、乾いた風が渡っていた。
天幕の入口を開けているため、ときおり風が中まで入り込み、吊るしてある布を揺らす。外からは羊の鳴き声と子供たちの笑い声が聞こえ、風向きが変わるたびに、草と羊毛、それに煮炊きの煙が混じった匂いが流れ込んできた。
ここはクーマ氏族の夏営地だった。
クーマはドグラの中でも有力な氏族で、羊や山羊、馬の数も多く、毛皮や羊毛を加工する職人も多い。
毎年夏になると、街道に近いこの草原へ氏族の人々が集まり、数多くの天幕を張った。恒久的な町ではないが、人も家畜も多く、家畜囲いや荷置き場まで作られるため、遠くから見れば一つの村のように見える。
街道を西へ進めばタプルへ至る。
東へ進み、山岳地帯を越えればリービッヒへ抜けることもできた。
もっとも、その道はお世辞にも立派とは言えない。雨が降ればぬかるみ、山へ入れば荷車一台を通すにも苦労する。
わざわざリービッヒまで抜けようとする商人など滅多におらず、クーマ氏族の交易相手のほとんどは、タプルからやって来るレミーラ人だった。
「だいたいさ」
フェイは膝の上の布を持ち上げた。
「ユーゴ、こんなところ見ないよ」
「ユーゴが見なくても、あたしが見るよ」
「母さんが着るんじゃないでしょ」
「嫁入り前の娘が言うことじゃないね」
「服なんてちゃんと着られれば同じじゃん」
「馬と弓しか頭にない娘を嫁に出す、こっちの身にもなりな」
「ひどいなぁ」
フェイは頬を膨らませた。
馬なら一日中乗っていられるし、弓なら何百本射っても苦にならない。羊を追えと言われれば追えるし、逃げた山羊なら男たちより先に捕まえる自信もある。
だが、針仕事だけはどうにも性に合わなかった。
そんなフェイも、今年十八になった。
そして今年、嫁に行く。
相手はユーゴ。
二十歳。
ドグラを束ねるカガンの後継者だった。
もっともフェイにとって、ユーゴがカガンの後継者であることなど大して重要ではない。
ユーゴはユーゴだった。
二つ年上の、夏になると会う男の子。
フェイのクーマ氏族とユーゴの氏族は、夏の遊牧地が隣り合っていた。春には離れ、秋にも離れる。冬など、互いがどこで羊を放っているのかさえ分からない年もある。
それでも夏になれば、毎年同じ高原へ戻ってくる。
だから二人は、物心ついた頃から夏になるたび一緒に遊んだ。
馬で競走した。
弓を競った。
小川へ入って魚を追った。
丘の向こうまで、どちらが先に行けるか競ったこともある。
そして大抵、勝つのはフェイだった。
特に馬と弓では、子供の頃のユーゴはフェイにまるで敵わなかった。
『もう一回!』
『またやるの?』
『今度は絶対勝つ!』
そう言って挑んできては、また負ける。何度か続けて負かせば、最後には悔しくなって本当に泣いた。
『また泣いた!』
『泣いてない!』
『泣いてるじゃん!』
二つも年上なのに泣き虫。
それが昔のユーゴだった。
そんな二人が、いつの頃からか周囲に「あいつらはそのうち夫婦になる」と言われるようになった。
最初は家同士の口約束程度のものだったが、昨年、双方の氏族長の間で正式に認められ、フェイとユーゴは婚約した。
クーマ氏族は、カガンの後継者へ娘を嫁がせるだけの力を持つ有力氏族である。大人たちからすれば、ドグラの将来にも関わる大切な縁組なのだろう。
フェイには、いまひとつ実感がない。
ただ、ユーゴと結婚する。
それだけだった。
「父さん、今日だっけ?」
フェイがふと思い出して尋ねた。
「何がだい」
「酒宴」
「ああ。今日のはずだよ」
父は三日前から夏営地を留守にしていた。
向かった先はドグラクラン。
各地を巡るドグラ族たちが、大きな会合や祭礼の際に集まる場所である。
レミーラ帝国で皇帝が代替わりした。
新しい皇帝の名はフィリップ。
そのフィリップが、父祖から続くドグラとの盟約を改めて確認したいとして各氏族長を招き、酒を振る舞うという。
フェイが知っているのは、それだけだった。
「父さん、絶対飲みすぎるよ」
「だろうねぇ」
母も笑った。
「皇帝が振る舞う酒だって聞いて、随分前からご機嫌だったからね」
「帰ってきてからも頭が痛いって寝込むんじゃない?」
「その前に、大事な話だけは済ませてもらわないと困るよ」
「大事な話?」
母がにやりと笑った。
「あんたとユーゴの婚礼の日取りさ」
「……あ」
「族長がみんな揃ってるんだ。決めるにはちょうどいいだろ」
「別に、いつでもいいけど」
「はいはい」
「なに、その顔」
「別になんにも」
「絶対なんか思ってる」
フェイがむっとして針を布へ刺した、その時だった。
「おーい!」
外から男の声がした。
馬蹄の音が近づいてくる。
母が顔を上げた。
「誰だい?」
二人で天幕の外へ出ると、一頭の馬が夏営地へ入ってくるところだった。
乗っているのはミクマル。
クーマ氏族とは別の、近くを巡る氏族の男である。
その馬の後ろには、妙に大きな包みが括りつけられていた。
「届け物だぞ」
「おや、あんがとよ」
母は慣れた様子で包みを受け取り、それからふと思い出したようにミクマルを見る。
「あんたは酒宴には行かなかったのかい?」
「ああ。俺は傭兵家業が長かったからな。まだ族長見習いだ」
ミクマルは馬から降りながら肩をすくめた。
「今回は帝国のうまい酒が飲めるって、親父が出てる。まあ、馬乳酒だけではもの足りんからな」
ドグラの中には、若いうちに高原を離れ、レミーラ帝国で傭兵となる者もいる。幼い頃から馬と弓に慣れたドグラの兵は、それなりに重宝された。
ミクマルもその一人だった。
長く帝国各地を渡り歩いた後、故郷へ戻り、今は父の跡を継ぐため族長見習いをしている。
「うちのもうまい酒が飲めるって喜んでいったよ。たいがいにしてくれるといいけど」
「どこもそんなもんだろ」
ミクマルが笑った。
ドグラにも酒はあるが、やはり帝国のものには遠く及ばない。多くの氏族長たちもこの振る舞い酒を楽しみしていた。
「代替わりしたからといって、レミーラとの関係は大して変わりはしない。五十年も続いてる盟約だぞ」
「まあねぇ」
「酒飲んで、貢ぎ物を受け取って、これからもよろしくで終わりさ」
「その酒を飲みすぎなきゃいいんだけどね」
「心配するとこ、そこかよ」
二人が笑った。
フェイも、その会話を聞きながら何の疑問も抱かなかった。
レミーラとは、昔からそういう関係だった。
商人がやって来る。ドグラの若者が傭兵として出ていく。時には揉め事も起きる。
それでも最後には話をつける。
皇帝が一人変わったくらいで、五十年続いたものまで変わるなどとは、誰も思っていなかった。
「しかし」
ミクマルが大きな包みを見下ろした。
「なんだ、このデカい荷物は?」
「絵だよ」
「絵?」
「去年、フェイとユーゴの婚約が正式に決まった時に、レミーラの旅の画家に描いてもらったのさ」
「ああ、あの時のか」
遊牧民には住所というものがない。
季節が変われば居場所も変わる。だから手紙や荷物は、まず相手を知っている氏族へ預けられ、その氏族から本人の近くへ向かう者へと渡される。さらに別の氏族へ渡されることもある。
人から人へ。
氏族から氏族へ。
そうして荷物は草原を旅する。
昨年頼んだ絵も、そうやってようやくフェイのところまで届いたのだった。
母が包みを解いていく。
厚い布が取り払われた。
「ほぅ」
ミクマルが感心したように声を漏らした。
絵には夏のドグラ高原が描かれていた。
遠くには雪を残した山々。
その手前に草原と、一頭の馬。
そして中央には、並んで立つフェイとユーゴがいた。
ユーゴはいつものように大きく笑っている。その隣でフェイは少し俯き、どこか照れたような顔をしていた。
「良くできているな」
「だろ?」
なぜか母が得意そうに胸を張った。
フェイも近づいた。
「…………」
自分の姿が絵になっているというのは、妙な気分だった。
ミクマルが絵を見る。
フェイを見る。
もう一度絵を見る。
またフェイを見る。
「なに?」
「いや」
ミクマルが首を傾げた。
「フェイ、おまえ、こんな顔するのか?」
「相変わらず失礼だなぁ!」
母が声を上げて笑った。
「こんな顔してたって」
「してないよ!」
「してた、してた」
「母さんまで!」
フェイは絵を睨んだ。
そこにいるのは、間違いなく自分だった。
けれど、普段自分がしている顔とは少し違う。
頬がほんのり赤く、目を少しだけ伏せている。
その隣には、ユーゴ。
ミクマルが顎を撫でた。
「しかし、あの泣き虫が立派になったもんだ」
「ほんとだよ」
フェイも思わず笑った。
「昔なんて、馬で負けるたび泣いてたんだから」
「あんたが泣かせてたんだろ」
「だって弱かったんだもん」
「二つも年下の娘に毎年泣かされて、よく嫁にもらおうと思ったな」
「知らないよ、そんなの」
フェイがぷいと顔を背ける。
母が笑った。
「まあ、その泣き虫ともうすぐ夫婦なんだからね」
「まだ日にち決まってないし」
「だから今日決めるんだろ」
「分かってるよ」
口にした途端、少しだけ耳が熱くなった。
「あ」
母が面白そうに目を細めた。
「なに」
「絵と同じ顔になったね」
「もう知らない!」
フェイは立ち上がった。
「どこ行くんだい!」
「馬!」
「花嫁修業は!」
「帰ってから!」
「フェイ!」
母の声を背中で聞きながら、フェイは走った。
◇
馬へ飛び乗り、夏営地を抜ける。
乾いた風が正面から吹きつけ、短い髪をばたばたと揺らした。
「やっぱりこっちの方がいい!」
フェイは笑った。
馬蹄が乾いた土を叩く。
丈の低い草が左右へ流れ、丘を越えるたび、また新しい草原が広がった。遠くには岩肌を晒した山々があり、そのさらに向こうには、夏だというのに白い雪を残した峰が見える。
フェイはその景色を美しいと思ったことなど、ほとんどなかった。
生まれた時から、そこにあったからだ。
風の向きも、草の匂いも、馬の息遣いも。
どこに水場があり、どの斜面なら馬を走らせられ、どの谷に獣がいるのかも知っている。
それは景色ではなく、フェイの暮らしそのものだった。
しばらく好き勝手に馬を走らせたところで、ふと母の顔が頭に浮かんだ。
「……まずいな」
このまま戻れば、間違いなくどやされる。
花嫁修業を放り出して逃げてきたのだ。せめて何か獲物でも持ち帰れば、少しくらいは言い訳になるかもしれない。
「鹿でも獲って帰ろ」
フェイは弓を手に取り、獲物を探して馬の腹を蹴った。
◇
「……いない」
フェイは馬上で眉を寄せた。
もう半刻近く探しているが、鹿どころか猪の姿すら見当たらない。
妙だった。
この季節なら草原の端には鹿がいるし、山裾まで行けば猪も出る。フェイの腕なら、どちらも十分に仕留められた。
なのに今日は何もいない。
鳥の声さえ、いつもより少なかった。
「なんでだろ」
馬を降りて地面を見る。
獣の足跡はある。
ただし、新しくない。
何かに驚いて、一斉に場所を変えたようにも見えた。
「変なの」
フェイは首を傾げたが、それ以上深く考えることはなかった。
獣が移動することなど珍しくもない。
結局、さらに探し回って仕留められたのは、一羽のウサギだけだった。
矢は一射で当たった。
フェイはそれを持ち上げ、何とも言えない顔をした。
「……これだけ?」
太陽は、すでに西へ傾いている。
ウサギを馬へ括りつける。
花嫁修業を放り出した。
狩りへ逃げた。
その結果が、ウサギ一羽。
母の顔が目に浮かんだ。
『あんた、何しに行ったんだい!』
「うわぁ……絶対言われる」
もう少し探そうかとも思ったが、これ以上遅くなれば、それはそれで怒られる。
「とほほ……」
フェイは馬の首へ少し身体を預けた。
「帰ろ」
怒られるなら、さっさと怒られた方がいい。
手綱を返し、来た道を夏営地へ戻った。




