第7章 境界の光 ― 再訪 ―
信じるという行為は、
ときに境界線を越える。
夜が明けきらないオフィス。
昨夜の雨の名残りが、窓ガラスを静かに濡らしていた。
青葉澪は、いつもより早く出社していた。
パソコンを起動しながら、
指先に残る微かな震えを、コーヒーの熱でごまかす。
“泣くなんて、らしくない”
そう思っても、頬に残る痛みがその夜を思い出させる。
そこへ、静かな足音が近づいた。
「おはようございます。
――覚えてますか?
アルカディア・インテリジェンスの不破恭介です。」
振り返ると、
黒いスーツに身を包んだ青年が立っていた。
その声には、どこか懐かしい落ち着きがある。
「……不破恭介、さん。
ええ、覚えてるわ。随分前、一度会ったわね。」
不破はうなずき、
タブレットを差し出した。
「ブルームトラベルの予約システムに、
不正アクセスがありました。
原因調査のため、アークシステムズにも協力をお願いしたいと考えています。」
“アークシステムズ”――
その名を聞いた瞬間、
澪の胸の奥で何かが小さく鳴った。
わずかに息をのむ澪。
不破は、その表情の変化を見逃さなかった。
◇◇◇
澪の小さな息づかいを感じ取りながら、不破は静かに言葉を続けた。
「今回の調査にあたって、私のほうからアークシステムズを推薦しました。」
「あなたが?」
「ええ。正確には、彼らの“考え方”を見てみたかったんです。」
不破の声は穏やかだったが、その奥には確かな確信があった。
「システムの堅牢さだけを求めれば、他にも候補はありました。
でも、彼らは“完璧”を作ろうとしない。
不完全な人間がどう扱うか――そこまで設計に組み込んでいる。」
澪は言葉を失い、視線を落とした。
“完璧を作ることこそが使命”
長年そう信じてきた自分にとって、それは真逆の思想だった。
「不完全を許す設計なんて、そんな甘い考え方でセキュリティが守れると思うの?」
思わず口から出た声は、ほんの少し震えていた。
不破は小さく息を吐き、微笑んだ。
「思います。
――だって、守るべきものが“人”だから。」
息が詰まる。
冷たいはずの朝の空気が、なぜか胸の奥であたたかく滲んだ。
「……そう。なら、見せてもらいましょう。
あなたが“信じた”アークシステムズの力を。」
不破は静かに頷き、
その瞳の奥に、澪の見えない境界の光が映っていた。
◇◇◇
AM 10:00。
ブルームトラベル第3会議室。
透明なガラス壁の向こうに、アークシステムズの3人が姿を現した。
如月柊、凪陽翔、そして如月環。
澪は、わずかに息を止めた。
昨日の夜、胸の奥で疼いたあの痛みが、また静かに戻ってくる。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
凪が柔らかく頭を下げる。
その隣で、柊が落ち着いた声で続けた。
「今回の件、まずはご迷惑をおかけして申し訳ありません。
ただ、我々の目的は“原因”を追及することではなく、
“これからどう守るか”を共に考えることです。」
その声は穏やかで、冷たい会議室にやわらかい熱を帯びていた。
澪は視線を落とし、静かに頷いた。
「……お願いします。」
柊の言葉に、どこか胸の奥がざわめいた。
その横で環が、静かにノートパソコンを開いた。
「ブルームトラベルの予約システムは、お客様の“思い出”を預かるシステムです。
データそのものも大切ですが、それを通して人の心を守ることが私たちの目的です。」
淡々とした口調。
けれど、その声にはどこか温度があった。
会議室の中で、唯一“ぬくもり”を持つ声。
澪は知らず知らずのうちに拳を握っていた。
なぜ、この女性は――
こんなに穏やかに“守る”なんて言葉を使えるのだろう。
「……思い出、ね。」
口をついて出た声は、ほんの少し震えていた。
凪が穏やかに笑い、モニターのグラフを示す。
「はい。私たちは、セキュリティとぬくもりの両立を目指しています。
数字や監視だけでなく、“人が人を信頼できる設計”を。」
その言葉を聞いた瞬間、澪の視界がわずかに滲んだ。
冷たく閉ざしてきた胸の奥で、
小さな光が、ほんのひとかけら、ゆっくりと揺れた。
沈黙が流れる。
だがその沈黙は、以前のような緊張ではなかった。
まるで、誰かがそっと隣に椅子を置いたような――
そんな静けさ。
「……不破さん。」
澪が小さく名を呼ぶ。
「このプロジェクト、あなたの責任で進めていいわ。
――ただし、全員でやることが前提よ。」
不破は静かに頷き、柊と目を合わせた。
柊はわずかに微笑み、
「承知しました」と短く答えた。
ガラス越しに射し込む冬の光が、
白い会議机の上でゆらめいた。
その光は、澪の中に残っていた“境界”を、
少しだけ透かして照らしていた。
完璧と不完全のあいだに、
ひとすじの光が生まれた。




