第6章 氷の綻び ― 夜の香り ―
夜は、人を正直にする。
深夜 0:00。
ブルームトラベル本社の最上階。
ほとんどの灯りが消えたフロアに、
ただひとつだけ明かりが残っていた。
青葉澪のデスク。
冷めたコーヒーの香りと、
カルバンクラインの“エタニティ”が、ほのかに混ざる。
資料の束を閉じても、
頭の中には昼の会議が何度も再生された。
――仕事中に優しさなんていらない。
自分の声。
あの瞬間、会議室の空気が静まり返ったことを思い出す。
環の小さな肩の震え。
柊がそっと手を伸ばした仕草。
凪の視線に宿っていた、あのやわらかい色。
思い出すたびに、胸の奥で何かがつまる。
まるで、氷の奥に埋もれた小石が、
静かに熱を帯びていくように。
「……どうして、あんな言い方をしたんだろう。」
唇からこぼれた声は、かすれていた。
指先でカップを持ち上げるが、
ぬるい苦味が舌に広がるだけだった。
――環という女性。
守られているようで、実は強い。
誰かを信じているから、あんなふうに笑える。
澪には、それがまぶしすぎた。
あの穏やかな空気の中に、自分の居場所はないと感じてしまった。
だから、強くあらねばならなかった。
冷たさは、唯一の防具。
しかし、今夜の澪には、
その防具が重たく感じられた。
モニターを閉じる音が、
静まり返った室内に響く。
窓の外には、無数の光。
それぞれが、誰かの生活の灯。
人のぬくもりがあるはずなのに、
自分の周囲だけがどこか凍っているようだった。
そのとき、デスクの端に置いたスマートフォンが震えた。
メッセージ通知。
差出人:不破恭介。
□□□
「明日、アークシステムズの柊さんと凪さんが
再訪します。
システム仕様の件、再検討お願いします。」
□□□
澪はその文面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
彼らの名前を見るだけで、
胸の奥が静かにざわつく。
――あの“優しさ”が、また来る。
けれど、今の彼女には、
そのざわめきを完全に押し殺すだけの冷たさは、もう残っていなかった。
「……困ったわね。」
澪は小さく笑った。
どこか自嘲のように。
ジャケットを羽織り、
窓際に立つ。
夜風が頬を撫でた。
それはほんの一瞬――
氷の奥に、小さな綻びが走った音がした。
氷は、一気に割れなくてもいい。
小さな綻びから、光は入る。




