第10章 氷の輪郭 ― 完璧という名の影 ―
完璧は、形を保つ。
けれど心は、変わり続ける。
朝の会議室。
磨かれたガラスのテーブルに、窓の光が細い線を描いていた。
青葉澪は、その中央にまっすぐ立っていた。
背筋は糸のように伸び、視線には曇りがない。
いつもの、完璧な青葉澪――のはずだった。
「アークシステムズの如月さん、資料の共有をお願いします。」
その声は澄んでいて、まるで氷を滑る音のようだった。
「はい。」
柊が落ち着いた声で応じ、画面に資料を映し出す。
隣で凪がすばやくスライドを操作し、
環は議事録のキーボードを静かに打つ。
その指先のリズムが、なぜか澪の耳に残った。
――柔らかい音。
仕事の音なのに、どこか温度がある。
「こちらの設計思想について、もう一度説明してもらえますか。」
澪の問いに、凪が少し笑って頷いた。
「はい。僕たちは“想定外”を想定する構造にしています。
完全なものを作るより、“壊れたときどう助けられるか”を優先しました。」
その言葉を聞いた瞬間、澪の胸の奥で何かが微かに弾けた。
“壊れたときどう助けられるか”――。
昨日、不破が言っていた“守るべきものが人だから”という言葉と、
どこかで重なって聞こえた。
「……なるほど。」
短く返した声に、わずかな間が生まれる。
それを誰も気づかないと思っていた。
けれど、環だけは気づいていた。
澪のまつげの影が、一瞬だけ震えたことに。
その影は、
氷の輪郭がわずかに溶け出す前の、
とても静かな予兆だった。
◇◇◇
会議が終わったあと、
環はしばらく扉の外に立っていた。
さっきまでの澪の声――
強いはずなのに、どこか柔らかかった。
氷の奥で、光が滲んでいるように感じた。
「環。」
背後から柊の声。
「どうした?」
「……なんか、青葉さん、前と少し違う気がして。」
環の言葉に、柊は小さくうなずく。
「気づいたか。
たぶん、あの人の中で何かが変わりはじめてる。」
そこに凪が加わってきて、
「僕も思いました! 今日の青葉さん、
なんか、ほんのりやさしい匂いしました!」
と、悪びれもなく言う。
「……凪、それは気のせいだ。」
柊が苦笑しながら肩をすくめると、
環は思わず吹き出してしまった。
その笑顔に、会議室の緊張がふっと溶けた。
けれど、環の胸の奥では、
“あの人はまだ泣いている”という静かな確信が残っていた。
◇◇◇
夜、オフィスの灯がすべて落ちたあと。
澪は、会議室の窓際に立っていた。
昼間、如月環が見せたあの笑顔が、
まだ胸の奥で光っている。
「……あの人たちは、強いわね。」
そう呟いた声が、自分のものとは思えなかった。
完璧を求めることでしか自分を保てなかった日々。
でも今は――
完璧じゃない光のほうが、まぶしく見える。
窓に映る自分の姿を見つめながら、
澪は小さく微笑んだ。
氷の輪郭が曖昧になったとき、
そこに“人”が現れる。




