12.夢と現の境目で
「――アァァーーーーー!!」
不意に部屋の中へ甲高い泣き声が響き渡った。悲鳴にも似たその声はリリアの視線の先――目の前へ置かれた揺り籠から聞こえていて、静まり返っていた空間に新たな命の存在を強く刻み付けていた。
(ここは……?)
小さく首を傾げながら、リリアはゆっくりと辺りを見回した。
記憶を辿っても、こんな場所へ来た覚えはない。つい先ほどまで目の前にはアルテミスがいて、案内された部屋にもメイドなど一人もいなかったはずなのに、今は母の姿が跡形もなく消えて、代わりに大勢の使用人たちが忙しなく部屋の中を行き交っていた。
何が起きているのか理解できないまま、リリアはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……奥様!生まれましたよ!!女の子です!!」
沈黙を破るように、一人の使用人が興奮を隠し切れない声で叫んだ。部屋中を慌ただしく動き回っていたメイドたちも一斉に手を止めて、祝いの言葉を口々に交わしながら揺り籠の周囲へと集まり始める。
「これは、一体――――」
部屋の隅から思わず漏らした呟きは誰の耳にも届かなかった。
確かにリリアはそこへ立っている。それなのに誰一人として彼女へ視線を向けることはなく、まるで最初から存在しない人間であるかのように通り過ぎていった。
ようやくリリアは、自分が立ち会っている光景を理解し始めた。
これは、一人の命がこの世へ生を受けた瞬間だ。
メイドたちは揺り籠へ顔を寄せ、小さな命を一目見ようと目を細めながら笑みを浮かべ、その場には祝福の空気だけが満ちていた。
やがて産婆が「必要な者だけ残ってください」と静かに指示を出すと、部屋の賑わいは少しずつ収まり、大勢いたメイドたちは名残惜しそうに部屋を後にしていく。
広かった部屋には産婆と産婦、それから数人のメイドだけが残り、先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように静けさが戻ってきた。
(あれ……?)
その様子を眺めていたリリアは、不意にある違和感に気付いた。
「顔を……見せてくれる?………」
か細く息を切らしながらそう呟いた女性の声を耳にした瞬間、リリアの鼓動が大きく跳ねる。
見覚えのある部屋。見覚えのあるメイド。そして、涙を滲ませながら優しく微笑むその女性は――。リリアが何よりもよく知る人物だった。
―――アルテミス。
今より少し若い母は、穏やかな笑みを浮かべながら生まれたばかりの赤ん坊をそっと胸へ抱き寄せた。壊れ物を扱うような優しい手付きで毛布を整えると、その隙間から小さな赤ん坊の顔が静かに覗く。
「嘘……」
思わずリリアは目を見開いた。驚いたのはその赤ん坊が自分だったからではなく、アルテミスが見せた表情だった。
これまで一度も見たことのないほど柔らかく、慈しみに満ちた眼差しで我が子を見つめる姿は、リリアの知る母とはまるで別人のようで、その光景だけが胸を激しく締め付けたのだ。
「あぁ……可愛い私の子。生まれて来てくれてありがとう」
リリアの存在などまるで見えていないアルテミスは、溢れ続ける涙をそのままに腕の中の赤ん坊へと何度も優しく頬を寄せた。演技などでは決してなく、誰よりも幸せそうで、誰よりも愛おしそうで、リリアにはその一つ一つが痛いほど伝わってきた。
「お母様っっっ!!!!」
耐え切れずリリアは叫んだ。目の前で起きている光景があまりにも鮮明で、本当はこちらが現実で、自分が知っている世界こそ夢だったのではないかと錯覚してしまうほどだった。
それでも現実は残酷だった。必死に伸ばした手は淡く透け、叫び声にも誰一人として振り向くことはなく、触れられることも届くこともないまま虚しく空気へと溶けていく。
気付けば身体は少しずつ薄れていた。意志とは無関係に、この世界から切り離されるように存在そのものが霞み始めて、夢が終わろうとしていることをリリアは悟った。
まだ終わってほしくない。このままずっと覚めなければいいのに。そう願っても、その願いは叶わなかった。
「お母様! 待って―――!」
消えてしまう最後の瞬間まで、リリアは必死にアルテミスへ向かって駆け出した。
届くはずがない。聞こえるはずもない。そんなことは分かっていた。それでも止まることだけはできなかった。
―――その時だった。
アルテミスがふいに顔を上げ、リリアが立っていた壁際をじっと見つめたのである。切なげで、どこか悲しげな眼差しだった。
先ほどまで幸せそうに微笑んでいた表情とは違い確かに何かを見つめていて、まるでリリアへ語り掛けるように小さく何かを呟いた。だが、アルテミスが最後に何を口にしたのかだけは最後まで聞き取ることができなかった。
「お母―――」
景色がぷつりと途切れた。瞬間、辺り一面は深い闇に包まれていた。上下も左右も分からない果ての見えない暗闇だけがどこまでも広がり、先ほどまで確かに存在していたアルテミスの姿も、部屋の温もりも、赤ん坊の泣き声さえ跡形もなく消え失せている。
「此処はどこ……!?」
思わず声を張り上げても、叫びは闇へと吸い込まれるばかりで何一つ返っては来ない。返るのは静寂だけだった。
何か手掛かりはないかと辺りを見回しながら足を踏み出すものの、どれだけ歩いても景色は一切変わらない。黒一色の世界だけが延々と続いていて、リリアは歩いているのか立ち止まっているのかさえ曖昧になっていった。
やがて耐え切れなくなったように足を止めると、どうしようもない疲労が一気に押し寄せ、身体だけではなく心まで重く沈み込んでいった。
(ここは……死後の世界、なの……?)
そんな考えが不意に浮かんだ。もしかすると、これまで見ていたものこそ全て夢で、断罪の日、あの瞬間に自分は既に命を落としていたのではないか――そんな結論へ辿り着くまでに然程時間は掛からなかった。
そう考えれば、全てに説明がつく。母は生きていて、カルロは昔のように優しく微笑み掛けてくれて、自分はもう一度やり直す機会を与えられたなんて、あまりにも都合が良すぎるのだ。
だからこそ、それら全てが夢だったのだと考える方が今のリリアには余程現実味があった。
膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちるように腰を下ろすと、小さく身体を抱き寄せながら俯いた。
心の中を満たしていくのは絶望だけではない。何もかも終わってしまったという諦めと希望を抱いてしまった自身への虚しさが、ゆっくりと心を蝕んでいった。
何が「やり直せる」だ。何が「未来を変えられる」だ。
結局、自分は都合の良い夢へ逃げ込んでいただけだった。
それでも、この数日間は幸せだったのかもしれない。誰にも閉じ込められることなく自由に歩き回ることができて、母を救えるかもしれないと願って、カルロの変化に戸惑いながらも何処かで未来へと希望を抱いていた。
だからこそ、それら全てが幻想だったと突き付けられた今、その幸せが音もなく崩れ去っていくことだけが、何より苦しかった。
(初めから……初めから、希望なんて……なかった、のね――)
そう思った途端、胸の奥で張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
もう何も考えたくない。もう何も期待したくない。
抗う理由さえ失った身体は、底知れぬ無気力へと静かに飲み込まれていって、リリアはゆっくりと瞼を閉じた。思考を空っぽにしてこのまま眠ってしまえればどれほど楽なのだろう――そんな考えだけが、ぼんやりと頭の中を漂っていたのだ。
その時だった。
「~~~~~!!!!」
誰かの叫び声が遠くから響き渡り、その声に引き戻されるように意識が浮かび上がる。
重たい身体をどうにか起こし、まだ霞の掛かった意識のままゆっくりと瞼を開くと、目の前へ飛び込んできたのは闇ではなく見慣れた自室の天井だった。
(……また、夢だったの――?)
息を呑み、辺りを見回す。
確かにここは自分の部屋だ。けれどそれが現実なのか、それともまだ夢の続きなのか、その区別だけはどうしても付かなかった。
(さっきのは夢……?じゃあ、今は?一体どこまでが夢で、どこからが現実なの……分からない……分からない――)
考えれば考えるほど思考が絡まり、現実と夢の境界が曖昧になっていく。呼吸は浅く乱れ、胸が締め付けられ、頭を抱えたまま震えるしかなかった。
神様はどうしてこんな残酷な真似をするのだろう。希望を見せては奪い、救いを与えては突き放し、その度に心だけを弄ぶ。そんなに苦しむ姿を見るのが面白いのか。
そんな問いだけが頭の中で何度も何度も繰り返されていた。
「リリア!! 私を見なさい!!」
突然誰かがリリアの両手を掴み、そのまま身体を引き寄せた。
揺さぶられるように顔を上げると、そこにはこれまで見たこともないほど真剣な表情でこちらを見つめるアルテミスの姿があった。
「お母……様……?」
呆然と名前を呼ぶ。けれど、夢と現実の区別が付かない今のリリアには其の姿すら信用することができなかった。
「……いいえ、騙されないわ。今すぐ私の前から消えて。幻なんて、もう見たくない」
震える声で吐き捨てる。アルテミスへ向けた拒絶ではなく、自身を惑わせる夢そのものを拒絶するための精一杯の抵抗だった。
「一体、何を……」
「早く消えてよ!!私の前に現れないで!!!」
耐え切れず叫び返す。現実なら現実だと証明してほしい。夢なら夢だと終わらせてほしい。
そんな願いが入り混じった叫びだった。
瞬間―――。
「リリア!!!!」
アルテミスはリリア以上に大きな声を張り上げると、逃がすまいと両手を強く握り締め、そのまま顔が触れそうなほど近くまで身を乗り出した。




