11.子供ならではの?
リリアが部屋に逃げ帰ってから数十分は経過しただろうか。外からはメイドが彼女の部屋の前を通り過ぎては消えていく音が、中からはコチコチと針の音が鳴り響く音が、ずっとずっと続いていた。
「………こんなことに時間を費やしている場合ではないわ」
漸くリリアが呟いた。
カルロに会った所為なのだろうか。すっかり疲れ切っていた彼女は、広々としたベッドの上でひとり仰向けになって視線を上に向けていた。装いが乱れてしまうことも厭わずに、ただ呆然と寝転がっていたのだ。
だが、それももうお仕舞いだ。リリアはその場から起き上がって、ベッドの縁に座り直した。
今は彼のことで頭を悩ましている場合ではない。そう彼女が思えるまでにどれだけ時間を無駄にしたことか。
ただえさえ時間がないというのに、その貴重な時間を一日中部屋に閉じ籠もって過ごしてしまうのは勿体無い。
そんなことよりも、彼女が今優先すべきなのは―――アルテミスだ。
これ以上避けられる訳にはいかない、と。そうリリアが考え直したのはついさっきのことである。
いくらアルテミスが顔を合わせてもくれないからと言って、そのまま彼女を放置しておくのは危険だ。どれだけリリアが対策を練ろうが、肝心のアルテミス本人の動きさえ読めなければ意味がない。
もっとも、茶会そのものに行かせないこと。それが現在時点での最善策であるが、今のままではまず無理だ。
せめて少しでも会話出来たら何か変わったのだろうか。そう考えたところで会話すらできない状況だったことには変わりない。言葉選びを間違えたのか、アルテミスは頑なにリリアを避けていたのだから。
が、何時までもこの状態を引き延ばしている場合ではない。カルロのことで頭を悩ませて一日を無駄にするよりも、一日でも早くこの状態を打破しなくてはならなかった。
リリアは暫く考えた。考えに考え抜いた。
(そうだ―――私がまだしたことがないことがある)
途端にハッと思い付く。それは至ってシンプルで、子供にしか出来ない特権であり、恥すらを捨てた強硬手段であった。
この際ケチなんかつけてられない。やるからにはやり抜くと決心して、リリアは必死にアルテミスの姿を探した。
(いた………!!)
漸く、見つけた。彼女の部屋から遠く離れた廊下で、アルテミスは丁度移動していた。
運が良いことにリリアに背を向けていて、何も気が付いていない様子である。
リリアは、気配を消してひっそりとアルテミスの背後に忍び寄った。メイドには不審な目を向けられていたし、彼女は内心、何か声を掛けられるのではないかと肝を冷やしていた。
しかし、誰も指摘して来なかった。尋常でないほどの空気が伝わって来たからか、そもそも関わり合いになりたくないのか、メイドたちは視線を少し向けるだけで何もしようとはしなかった。
「お母様〜っ!」
「きゃっ!な、なに…!?」
アルテミスが声を荒らげた。突然、リリアが声を上げて近付いてきたからではない。そうではなくて、もっと別の問題があった。
―――リリアがアルテミスに抱き着いたのだ。
アルテミスがハッとした頃には既に遅く、彼女はリリアに捕まってしまったのだ。
余りに大胆な行動だった。幼いと言えど教育を受けた公爵令嬢が、比較的控えめなリリアが、まさかこんなことをしてくるとは。アルテミスは予想だにしていなかったのだろう。
突然のことに困惑して、彼女はどうしたものかと慌てふためいていた。振り払うこともできずに、すっかりアルテミスは困り果てていた。
リリアは更に追い打ちを掛けた。
これまで人前で騒ぎ立てたことなどなかった。そう、あの日以外は。
だが、リリアはとうとうそれすらも止めたのだ。全ての矜持を捨て去って、ただの子供のように喚き散らしたのだ。
これには流石に周囲のメイドも困惑していた。辺りは雑然とした空気に包まれていて、目も当てられない状況である。
が、メイドの誰もリリアを無理やり引き剥がすことが出来なかった。夫人の命令なくそんなことは出来ない上に、これまでそんなことなかった為、手も付けらい状態であったのだ。
リリアは、羞恥心で頬が赤くなりそうになっていたし、今すぐに逃げ出したい気分だった。
だが、今はそんなことも言ってられない。今を逃してしまえば、それこそアルテミスと関わることなく運命の日を迎えてしまうかもしれなかったから。
皆、リリアの奇行を呆然と眺めていた。アルテミスが今すぐに事を収めることを待ち望んでいた。
「………リリア。貴女、何をしているの?」
漸く、アルテミスが呟いた。疲れたような、怒っているような、そんな声色で。
しかし、彼女は依然としてリリアのことを見ていなかった。視線すら向けずにその場に硬直していた。
「お母様っ。どうして一言も口を利いてくれないの??前までは少しでもお話してくれたのに!!」
が、リリアは止めない。止められるわけがない。アルテミスの言葉が聞こえていないかのように、ただ喚き続けていた。
「ちょっと……人前よ。止めなさい」
「嫌よ!話してくれるまで止めないわっ」
聞く耳を持たずに声を上げる。もう此処まで来たらヤケで、リリアは我儘娘のように喚き散らしていた。より一層力を込めてしがみついて、決して逃げることが出来ないように。
「話すから、話すから離れなさい」
そうしていると、漸くアルテミスが降参したように声を上げた。観念したように、焦っているかのような声色で。
周囲の目を気にしてか、面倒に思ったのか。そんなことは問題ではない。兎に角リリアにとっては、この奇策が功を奏したことが全てであったのだ。
もしこれで失敗すれば、ただ恥をかいただけだった。
「本当!?」
「え、………えぇ」
あからさまにリリアが目を輝かせる。黄色い声を上げて、やっとアルテミスを開放した。期待に満ちた顔付きで彼女をじっと見て。
たじろぎながらも頷いたアルテミスは、周囲に目配せをして小さく息をついた。
"この事は内密に"と忠告をして、リリアに視線を向ける。幸いにもギャラリーは大勢いるから、アルテミスがこれ以上逃げることはないだろう。
だが内密にしたい理由も分かる。幼いといえど、公爵令嬢とあろう者が親にはしたなく抱き着いた挙げ句に、騒がしく喚き散らしたのだから。
こんなこと、公にしたい訳がない。世間は彼女を嘲笑うし、引いては親のことすらも馬鹿にすることだろう。
それをよく理解した上で、リリアは行動に移したのだ。
この場に留まって会話するのは不味いと判断したのか、アルテミスはリリアを傍の部屋へと連れて行った。何処か見覚えのある通路を通って。
辿り着いた先は、アルテミスが客室用に使っていた部屋だ。リリアが入ったことはない‥‥筈の部屋。
―――過去にラミアが使っていた部屋。
自然と身体が震え上がった。
リリアは、義母に叱責されたことをよく覚えている。初めは、ラミアが直々にリリアを甚振って弄んでいた。それから此処で複数のメイドたちに暴行を加えられ、その様子を楽しそうにラミアは眺めていたのだ。
地獄のような場所だった。置かれている家具は全く違う。けれども、まるでラミアが見ているような気がして、あの時の光景が蘇って、リリアの顔色は青ざめたのだ。
あれ程大丈夫だと思っていたものが、今になってト彼女に襲い掛かってきたのだ。
「リリアっ!?」
突然のことに驚愕したアルテミスは声を荒げた。自身の目の前で、それも先のことの直ぐ後でこんなことが起これば衝撃を受けるのも当然だろう。
リリアの容体を確認するなり、駆け寄ってきたメイドに彼女を預けて、アルテミスは部屋から出て行った。