大切なこと
視界にうっすらと明かりが差し込む。
そっと瞼を上げると、全身に痛みが走った。
「っ……」
思わずしかめた顔も痛かったが、聞こえた声に視線を上げた。
「騎士様……っ。良かったです、目が覚めて……」
「マリー……?」
マリーの姿が映る。
ひどく憔悴した様子に、どうしたのだろうと心配になって手を伸ばして、包帯の巻かれた自分の手に気づく。
アルバートはそれを見て、火事に巻き込まれたことをやっと思い出した。
指先まで包帯の巻かれた手しか見えないが、顔も体中も痛いから、全身ひどい有様なのだろうと想像がつく。
「火事は……?」
「翌日に消し止められました。もう、何日も目を覚まさなくて……」
最後に見た記憶は、炎に包まれた建物が崩れるところだった。
「アルバート。気づいたか、良かった」
マリーの背後からカイルが現れる。
隠しているようだが、こちらも憔悴した様子だとアルバートは感じた。
「マリー嬢。すまないが、目を覚ましたことを伝えてきてもらっても良いかな?」
「あ、はい……っ」
カイルに頼まれて、マリーは病室から出て行った。
アルバートはその後ろ姿を見つめながら、静かに口を開いた。
「……カイル。俺のハンカチは……?」
「そこにある。意識を失っても離さなかったと、医者に文句を言われていたぞ」
カイルが示したベッドの脇を、アルバートは悲鳴を上げる体を動かして見た。
ハンカチはどこも焼けた様子はなく、変わらないことに安堵する。
「はは……。ハンカチ一枚のために、火の中に飛び込むなんてな……」
アルバートは自嘲にも似た声を漏らした。
たった一枚のハンカチ。
そのために火の中に手を伸ばして大怪我をしたなんて、そう呟いた唇が震える。
「命を投げ出すほど大切だったのに……。どうして気づけなかったんだ……」
病室内に、嘆きにも似た声が静かに響く。
一枚のハンカチを、自分の命よりも守りたかった。
大切だったのだ。
マリーがくれた全てが、命にかえても良いほどに。
どうしてそんな大事なことを今まで気づかなかったのだろう。
「……俺は、死ぬのか……?」
「いや。大怪我をしているが、命は助かった」
指一本動かすのも辛いのに、意外と図太いらしいと、アルバートは自分を笑った。
「だが、今から言うことは、もしかしたら死ぬことより辛いかもしれない」
カイルが厳しい表情で告げた。
「騎士隊内での暴力行為で除隊処分、宰相からは婚約解消、伯爵家はおまえを絶縁すると言っている」
けれど、それを聞いても衝撃はなかった。
アルバートは自分でも不思議に思うほど、とても冷静に聞いていた。
職も婚約話も実家も全てを失ったはずなのに、なぜか満ち足りている気分になる。
「……マリーが無事で、ハンカチもある。それだけで十分だ……」
これ以上に何もいらないと、心から思った。
真っ直ぐにハンカチを見つめるアルバートに、カイルはそれ以上何も言わなかった。
少ししてから、マリーと一緒に来た医師の診察を受けて、アルバートは自分が思っていた以上に重症だったことを知った。
安静にという言葉を残して医師が去ると、カイルもまた見舞いに来ると言って帰り、病室でアルバートとマリーの二人だけになる。
「……騎士様。そのハンカチ、やっぱり以前に会ったことがあるんですか……?」
マリーの視線がベッド脇のハンカチに向く。
元々マリーが持っていたものだから、覚えているのだろう。
マリーの視線にアルバートは目を伏せて頷いた。
「このハンカチは、初めて会った時に君がくれたんだ」
「初めて会った時……?」
「俺達は恋人だったんだ……」
マリーが困惑したように目を揺らす。
突然恋人だったと告げても、覚えていないマリーには何を言われているのか理解できないだろう。
アルバートは顔を動かすと、ハンカチを取ろうと手を伸ばして、全身に響いた痛みに小さな悲鳴を上げた。
それを見たマリーが慌てて駆け寄り、ハンカチを取ってアルバートの手に渡す。
指先が触れてマリーの温もりが伝わり、アルバートは思わず痛みも忘れてその手を取った。
まるで何年も触れていなかったかのように、その温もりが恋しかった。
「君は、忘れ草で全て忘れたんだ……」
アルバートがそう告げた瞬間、握ったマリーの手が震えたのが伝わった。
「俺のせいなんだ……。君がいながら、地位に目がくらんで他の女性と婚約をして、その上、君を愛人にしようとしたんだ……。それで、君は……」
マリーの表情が固まって青ざめる。
カイルと宰相令嬢との婚約話をしていた時も、マリーはこんな表情で聞いていたのだろうかと、アルバートは思った。
息もできないほど、辛そうな表情をさせてしまったのだと、今頃思い知った。
「すまない、マリー……。本当にすまなかった……。君を失って初めて、俺は自分の愚かさを知ったんだ……」
この手を振り払われても仕方ないと、アルバートは思った。
そうされても仕方のないことをしてしまった。
けれど、この手を振り払われて、二度と触れることができないほど遠くなってしまえば、自分は何を頼りにこの先を生きていけば良いのだろうと怖くなる。
そう考えてしまえば、手の震えがマリーのものなのか、自分自身のものなのかも、アルバートは分からなかった。
「……忘れ草を使ったなんて、信じられません……」
「俺が全て悪かったんだ……。忘れ草を求めるほど、君を傷つけたことにも気づかなかった……」
アルバートの言葉にマリーは困惑を隠しきれずにいた。
「……ローザが、あんなに近づくなと言っていたのは、そのためだったんですね……」
「彼女の言っていることは間違っていない……。君を裏切った俺は、君に近づく資格などないと分かっている……」
以前に戻ることなんてできない。
失ったものは戻らない。
犯した間違いを変えることはできない。
それでも、とアルバートは零す。
「君に償いたい……。許さなくてもいいから……。都合の良いことを言っていると分かっているけれど、君の側にいたいんだ……」
騎士の職も地位も全て失い何も残っていない身では、償える方法も限られるだろう。
マリーのために何ができるかも分からない。
それを受け入れてくれるかさえも、分からなかった。
それでも、アルバートはマリーの側にいたかった。
「……ハンカチを取ろうとして、火事に巻き込まれたと……。どうして……?」
マリーはアルバートの手の中のハンカチを見つめた。
無事なハンカチとは対照的に、アルバートの手は包帯を巻かれている。
アルバートは手に力を込めた。
「君がくれたハンカチだ……。大切だったんだ……」
気づくのがこんなにも遅くなってしまったけれど。
命に代えても良いと、あの瞬間思った。
自分の命よりも、大切なことはすぐ側にあったのだ。
「何よりも、君のことが大切だ、マリー……」
どうか。
マリーに笑っていて欲しい。
他に何もいらない。
それだけがアルバートの願いだった。
握った手に、微かに握り返す温もりを感じた気がした。
そのことに、アルバートの目尻から涙が零れ落ちた――。
病室を出たカイルは、廊下にいた人影に気づいて顔を上げた。
「……私は、これで良かったとは思えないわ……」
俯いたままローザはぽつりと呟いた。
カイルは来た道を振り返って、病室にいるアルバートとマリーのことを思い浮かべる。
「何が良いかなんて、誰にも分らないことだ。きっと本人たちにも……」
アルバートがマリーにした仕打ちは、カイルとしても許せないことだった。
それでも、自分の命を顧みずハンカチを取り戻そうとしたアルバートに、最後の希望を持ちたいと、カイルは思った。
もしくは、願いなのかもしれない。
「二人が決めることだ――……」
そう言ったカイルの言葉を、ローザは静かに聞いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
終わり方には賛否両論あるかもしれないので、ハッピーエンドとは言えないかもしれませんが、浅はかな考えで裏切り、後悔して全てを失って大切なことに気づくことが書きたかったです。
お付き合いいただきありがとうございました。