第一章 〜五十分の一の少女〜 SCENE1
昨日までの激しい雨が嘘のように、夏が始まっていた。
真っ青に洗い流された空はどこまでも深く澄み渡り、一片の雲も見つけることができない。
銀色の太陽から降り注ぐ陽光は、山々の稜線をはっきりと浮かびあがらせ、原色同士の鮮やかなコントラストの中に、新しい季節を歓喜するセミ達の声が響き合う。
周囲のもの全てが眩しい生命の輝きに満ちていた。夏への扉を開け、その向こうに一歩を踏み出そうとしていた。
色褪せたままの三崎を一人、小さな無人駅のプラットホームに置き去りにして……
『おかけになった電話番号は、現在使われていません』
落ち着いた声で繰り返される現実を、三崎はただ黙って受け止めていた。
もう何度、その番号にダイヤルしたのだろう。着信記録から、アドレス帳から――最後は自らの記憶から、確かめるように一つ一つ番号を押し、そして待った。
ひょっとして何度とダイヤルするうちに何かの間違い――時空のどこかで奇跡が起こって回線が繋がり、その向こうに、失われた懐かしい声が聞こえるのでは?
でも、そんなことはありあえない……
もうその番号はこの世界に存在しないのだから。
番号を捨てたのは彼女自身の強い意志であり覚悟であり、結論でもあった。
彼女は三崎の知らない世界で、新しい人生を歩き始めているのだ。
それに、もし彼女が電話に出たとして、何を言えばいい?
全てが許される魔法の言葉など、どこを探しても見つかりはしない。
三崎はディスプレイに目をやり『加入者ナシ』の文字を確認すると、落胆とも安堵とも取れるためいきをつき携帯をポケットに押し込んだ。
電車を待つ以外、することが無くなった三崎は仕方なく陽炎に揺れる線路の先をぼうっと眺める。
赤錆びた線路の向こうに見えるたくさんの黄色い花が目に沁み込み、知らずのうちに目頭が熱くなっていた。
一週間前、三崎は全てを失った……
失うのは一瞬のことで、さよならの一言も無かった。
心の中に無秩序に広がり続ける空虚から逃れたくて、気がつけば時刻表を片手に電車に乗り込んでいた。
行き先なんか決めていない。とにかく遠くへ……
その一心で何度も電車を乗り継いで気がつけば、この小さな無人駅にたどりついていた。
車窓から見えた何気ない夏の風景――
そこに身を置くことで、僅かでも失ってしまったもののことを忘れようとした。誰もいない場所で、新しい自分が見つかるかもしれないと、微かな期待を抱いた。
――でも……
気がつけばこの小さな無人駅で、自分自身が風景の一部になっていた……
三崎は額の汗を拭うと、タイメックスの腕時計に目をやる。
時刻表の到着時間に間違いが無ければ、もうとっくに電車に乗っているはずであった。
「遅い……な」
三崎は隣のベンチに無造作に置いてある旅の相棒――時刻表の本に手を伸ばそうとするが、その行為が無駄であることに気づきやめた。
電車の到着時間を過ぎてから何度となく時刻表を手に取り眺め、そこに記されている到着時間に間違い無いことを確認していた。
「どうなってるんだ?」
誰に問い掛けるわけでもなくそう漏らすと、恨めしげに空を見上げた。
眩しい太陽が嘲笑うかのように、容赦なく彼に灼熱の光を浴びせ掛けている。
セミ達の重なり合う鳴き声が耳にうるさくまとわりつき、苛立ちを増幅させた。
先程拭ったばかりの額にはもう汗が流れ出してきて、それが狙ったように目に入り、思わず苦痛の声を上げる。
このまま行けば、間違いなく彼の体の水分は全て汗に変わってしまうだろう。
何一つ動かない現状に業を煮やしたように首を振ると、三崎はベンチから重い腰を上げた。
誰もいない駅の改札口を出ると、左手に一台の自動販売機があった。
あまり普段見かけない珍しいタイプで、真っ白なボディの中央には発光ダイオードのモニターがあり、数字のルーレット並んでいた。
モニターの上にあるディスプレイには色とりどりの缶が並んでおり、三崎の渇き切った喉を誘惑していた。
三崎は投入口に硬貨を落とし、ディスプレイから青い缶の清涼飲料水に品定めすると、ボタンを押そうとした。
その瞬間――
勢い良く伸びてきた小さな指が、三崎の指より一瞬早くボタンを押していた。
缶が重力に任せて落下する鈍い音と共に、発光ダイオードのルーレットが回り出す電子音が鳴り始めた。
突然の出来事に何が起こったのかわからない三崎は、呆気にとられたように、指の伸びてきた方を見る
犯人はそれを待っていたかのように、悪戯っぽい瞳でニッコリと笑ってみせた。
小学生の高学年くらいだろうか。少し茶色がかったショートカット、デニムのシャツにショートパンツ、背中には赤色のリュックサックを背負い、肩からは花の模様が入ったポシェットをぶらさげている。
短い髪のせいで一見男の子と間違えてしまいそうだが、整った顔立ち、愛らしい唇、長いまつげの下にある大きな透き通った瞳には、あと何年かすれば、かなりの数の男子生徒の心を虜にするだろう片鱗がうかがえた。
「あ、あの……」
自分でも間の抜けた声だと思ったが、この状況で何を言えばいいのだろう。
少女はぽかんと口を開けている三崎に、自信に満ちた笑みを浮かべると、人差し指で誘うようにディスプレイを指差してみせた。
それに釣り込まれるように三崎がディスプレイに目をやる。
次の瞬間――
回り続けていた発光ダイオードのルーレットが『当たり』の場所で止まった。
モニターの文字が『もう一本』のメッセージに変化すると、派手な祝福のファンファーレが奏でられる。
目の前で起こった信じられない光景に目を見開き、唖然としたままの表情で少女を見る。
「あ、あの……」
「いいよね? もらっても」
少女は透き通った声でそう言うと、愛らしく片目をつむってみせた。
完全に頭が真っ白になってしまった三崎は、その問いかけに肯定も否定もできないまま、ただ呆然と少女を見つめていた。
驚きに跳ね上がった心臓の鼓動とは対照的に、鳴り渡る電子音のファンファーレがとても遠い世界のものに聞こえた。