第8話 《永久之命》
第8話 《永久之命》
「……期待、ハズレダ」
巨大な図体を華麗に翻しながら、落胆の色を顕にする存在が静かに呟いた。
生きとし生けるもの"全てを腐食する者"
先程まで憐れな二人の少女が勇敢に挑み掛かった。
しかし、その全ては徒労に終わった。
けれどもまた、"全てを腐食する者"もまた憐れな存在だったのだ。
(オレハ。イツ、死ネル……)
それは腐食する者の悲願。何百年も昔の古き願い。
生身の人間では、目の前に立っただけで腐食が進んでしまう。
それは森に生息する、力ある生物も同じだ。
腐食する者が天を仰ぎ見た。
黒く淀み、腐食に汚染され尽くした"心"の中に残されたのは"ある者"の言葉だけ。
「"剣星"…ヨ…オレノ、終ワリハ……」
寂しそうな呟きが、森の中にただ一つだけ取り残された。
腐食する者が去った後、辺りには大きな真紅が広がっていた。
その紅の海を歩き、一人の少女の傍らに近寄る人影があった。
力なく座り込んだその者は、体温が失われつつある銀髪の少女の胸に付いた大きな傷跡に、その手を重ねた。
「……本当にごめんね…ユウキ……」
その呟きには、深い後悔と悲しみが混ざっていた。
一筋の涙が、ナツキの頬から流れ落ちた。
しかし、その透明の液体は、大海のような血溜まりに、呑み込まれるようにして消えていった。
「あの時、森の異常性に気づいて引き返していたら…」
このような事態にはならなかったのか。
「…アイツに遭遇した時、ちゃんと逃げていたら……」
ユウキが傷付くことはなかったのか。
「……っ、アタシ…が、アナタを冒険に誘わなかったらっ……!」
彼女が死ぬことは無かっただろう。
しかし、それはもう過ぎてしまったこと。
「…ユウキ――」
強くて、可愛くて、とても優しい、ナツキはそんなユウキが大好きだった。
同じ旅路を歩むにつれ、ナツキにとってこれ以上無いほどに大切な存在になるのは必然で――――
何とかしようと傷口に包帯を巻いても、瞬きする間に紅に染まる。
ナツキの応急処置を嘲笑うかのように、出血の止まる気配がしない。
ユウキの体から温もりが失われかけていた。
ナツキは最期に、その美しい顔立ちを見る。
彼女は知っていた、ユウキが《始祖の勇者》の家系の者だということを。
何故なら、ナツキ自身も《始祖の勇者》の家系の遥か遠い親戚だからだ。
「ワタシね、ユウキにウソを付いてたの…本当の《家系魔法》は自己治癒なんかじゃないの…」
《始祖の勇者》の本来の凍結魔法は、他の血が混ざるにつれ完全には受け継がれなかったが、縁のある魔法は受け継がれていた。
「…森に入る前、アナタに珍しい魔法だね、って言われた時…確信したの、ワタシ達は…遠い親戚なんだって」
あの時、打ち明けてれば良かった…っ、とナツキは儚げに微笑んだ。
ナツキの体からは、温もりある光が絶えず輝いていた。
先程付けられた傷も、徐々に"再生"している。
しかし、大切な存在が目の前から消えそうな事実を前にして、ナツキの心には決して癒えることのない、大きな傷が広がっていた。
その時ふと、夢を語るユウキの姿が脳裏に浮かんだ。
共に火を囲い、談笑しあったあの瞬間が懐かしく感じた。
故に、彼女は決意する。
「…ワタシの"全部"を、アナタにあげる……」
応急処置の手を止め、ポーチから料理によく使用していたナイフを取り出した。
「…ユウキ、痛いけど…我慢してね……」
そう言うとナツキは、迷うことなくその刃を、ユウキの左胸にゆっくりと突き刺した。
ナツキの瞳は、大粒の涙で溢れていた。
目の前に横たわるユウキに、心配させまいと微笑みかける。
目を閉じ、手に伝わる感覚だけで一つ一つ丁寧に、そして慎重に進んでいく。
そしてナツキは、ついにやり遂げた。
手に持つは、深紅の塊。
人間の最も大切な部位であるその塊は、もう既に動いていなかった。
「――ユウキ…っ……」
溢れ出るものを抑えきれずに、瞳から数滴零れ落ちた。
それでも、血まみれの袖でなんとか拭い、再びナイフを握る手に力を込めた。
今度は、ナツキの左胸に鉄の冷たい感触が伝わる。
先程のように、体と繋がっている線を正確に切り分けていく時間の余裕は無かった。
「…ワタシの、せい…だから…っ……」
その直後、声にならない悲痛な叫び声が、森全体に響き渡った。
*
全身を包むような冷気が、ワタシの意識を呼び覚ました。
気が付くとワタシは、辺りは真っ暗で冷たさすら感じる空間にいた。
ここが、ユウキの心の中だなんて……。
いつも飄々としていて強くて可愛いユウキからは想像もできないほどに、この空間は暗黒そのものだった。
『待っててね、ユウキ……。今、助けてあげるから……!』
明かりが灯っていない真っ暗な夜道を歩くように、一歩一歩確実に、前へと進む。
大丈夫。まだ、間に合う。間に合うはずなんだ。
足を前に進めるにつれ、小さな呟きが聞こえてきた。
その呟きは胸が締め付けられる程に辛い言葉の数々だった。
(そうよね、いつも余裕そうなユウキでも…死ぬのは怖いわよね……)
ふと胸の中から悲しみの感情が溢れ出した。
『こんなに、ガマンさせちゃってたのねっ……』
そんな当たり前のことを、今更になって気づいても、もう遅いわよね……。
ごめんね、ユウキ。本当にごめん。
いくら謝っても足りない、でもどうか…
『最後にもう一度だけ、会いたい……』
ワタシの小さな呟きは、冷たい風に吹かれてどこか遠くへと行ってしまった。
それでも神様、どうか…どうか。あの子に会わせて下さい。
ワタシのこの温もりを、あの子に……。
強く願った瞬間、さっきの冷たい風が頬を撫でた。
それと同時に、辺りの情景が変化していることに気がついた。
雪が降り積もった森、白銀に染められた幻想的な場所。
ふと気づく。前方に一人の女の子が、ぽつりと寂しそうに立っていることを。
その存在が、ワタシの探し求めていた存在だと気づくのに、然程時間は要さなかった。
*
暗くて…寒い。
私が目覚めた場所は、そんな場所だった。
何をしていたんだっけ…? ナツキはどこ?
周りを見渡すが、人影一つすら見当たらなかった。
寂しい……怖い。
このまま消えちゃうんじゃ――
『ユウキ――ッ!!』
その時、私を呼ぶ声が暗闇の中に響いた。
思わず後ろを振り返る。
『ナツキ――なの……?』
私がそう呟いた途端、ナツキが走って抱きついてきた。
既視感を覚えた私は、なんだか懐かしい気持ちになり、それを受け入れた。
『よかった…! 会えて本当によかった……』
ナツキに抱きつかれて思い出した。
そっか…私はまた、死んだのか…。
悔しくない、と言えば嘘になる。
けれども、だ。
精一杯頑張った、って胸を張って言える気がする。
それに――
『……ナツキと一緒なら、死ぬのも怖くない…かもね』
『ユウキのバカっ……』
指先から徐々に、感覚が消えかかっている。
残された時間は、多分…もう少ない。
その時、ふと心の中に生まれた小さな疑問が、うるさいほどに胸の中で叫んだ。
『……ねえ、ナツキ。私たちは何の為に生きるのかな』
どれだけチャンスを貰おうと、どれだけ技術を磨こうと、理不尽に巻き込まれて死んでしまったら……意味が無いじゃないか。
それなのに何故、私たちは『死んだ方がマシ』と思えるような辛い日々を過ごす?
どうせ最後には、消えてこの世界から居なくなるのに、どうして足掻く?
私は一体、何の為に――
『――それはきっと、"小さな幸せ"を見つける為なんだと思う』
耳元でそっと囁くように、ナツキは答えた。
『ワタシね、朝起きてユウキの寝顔を眺める時、隣に座って美味しいご飯を食べる時、一緒に魔物を退治してる時、いつだって小さな幸せを感じてた……』
抱擁の力が一段と強くなるのを感じた。
『ユウキにもいつか、好きな人ができたら分かると思うよ…』
『――隣に愛してる人がいて、目の前には自分の好きな食べ物があって、そんな何気ない日常を送る……』
『……人生っていうのは、そういう"小さな幸せ"の積み重なりなんだと思うの…』
哀しさを紛らすように、抱きしめる手に力を入れた。
今はただ、ナツキと離れたくなかった。
……もしかしたらこれが、本当の最期かも知れない。
今は私たちしかいないから、人の目を気にする必要もない…。
小さな背中に手を伸ばし、ナツキの心音が聞こえるくらいまで強く抱きしめる。
お日様のような温かな香りが、心に安らぎを与えてくれた。
とても、満たされた気がした。
最期の一瞬までこの温もりを受け取ろうと思う。
私だって怖いものは怖いし、寂しいのは辛い……。
『ねぇ、ユウキ――』
ナツキの静かな囁きが、そっと耳元に入り込む。
『そんな幸せを、ワタシの代わりに見つけて――』
…ナツキの代わり……? 一体どういう――
その時だ、ナツキの温もりが、徐々に失われていることに気がついた。
『……ワタシの"全て"を――アナタにあげる』
ナ、ナツキ…? 急に何を言って――
『ワタシの"力"。それに願いと想い……全部を――』
体に感覚が戻るような気がした時には既に、ナツキの体は氷の彫像のように冷えきってしまっていた。
まるで、私がナツキの温かさを奪ったかのような……
『ひとつだけ、約束して欲しいの』
耳に届いたのは、悲しそうなかすれ声。
それと、私に託した――たった一つの、純粋な願い。
――幸せを見つけることを、絶対に諦めないで――
ナツキという存在を形作る輪郭は徐々に消失し、曖昧になり――消えた。
その瞬間、銀白の世界が崩れ去った。
*
「……ナツキ――ッ!!」
気が付くとそこは、静かで煌めく斜陽が差す美しい森だった。
失ったはずの音、匂い、感触、全てが徐々に戻りつつあった。
体を起こそうと頭を上げた瞬間、最初の違和感に気づく。
オークに付けられた傷が綺麗さっぱり消えていた。
上半身を起こしきったその刹那、不完全だった五感が完全に戻った。
それと同時に、目に映ったのは、いつも元気いっぱいだった天真爛漫な少女だった。
「……ナツキ――」
私の傍でうつ伏せになっているナツキを起こすため、肩に手を置いた。
そこには、先程まで感じていた温かさが消えていた。
「……嘘…でしょ…?」
息を、していない。脈も止まっている。
先程まであった温かさを感じることが、一切出来なかった。
どうして……?
「…なんで……? 私は生きてるのにっ……。どうしてナツキだけ……!!」
――ワタシの力。それに願いと想い……全部あげる――
不思議な空間で、ナツキに告げられた言葉を思い出す。
ナツキが言っていた"力"とは…?
胸の奥からは、ナツキから感じていた温かさが宿っているような気がした。
その瞬間――理解した。
「…ナツキっ……」
冷たくなった体は無慈悲にも、この世界に"還ろう"としていた。
「待って――!まだ、ちゃんと……」
お別れを……言えてない。
ナツキは魔力の粒子となって消えてゆく、それを私は、黙って見ていることしかできない。
体が完全に消え去ったその時、もう聞こえるはずのない声が聞こえた。
『……誰よりも自由に――"生きて"』
ナツキは、夢と希望を私に託していった。
すぐ傍には、彼女の剣が寂しそうに遺さていた。




