【68話】私の願い
――私は、ここにいる。
アルトの目を通して、世界を見ている。
声には出せない言葉で、ただ、見守っている。
戴冠式から数ヶ月が経った頃、アルトはもう、立派に王としての顔つきになっていた。
執務室の机に積まれた書類、民の声に耳を傾ける真剣な横顔、セリウスと交わす軽い言葉のやり取り――どれもが、確かに前へ進んでいく時間の証だった。
「リリィの好きそうな町だ、と思ってな」
視察先で、ふとアルトがそう呟くことがある。
誰に言うわけでもなく、ただ独り言のように。
私には、それで十分だった。
オルディンは、今も地下書庫で記録の解読を続けている。
あの組織のこと、紋章のこと、そして「末永く見守った」という、かつての発現者のこと。
彼の調べたことが、いつか正しく後世に伝わるように――そう願いながら、私は彼の研究をそっと見守っている。
「儂もまだ、現役ですぞ」
老いた声で、誇らしげに笑うオルディンの姿が、紋章を通して、いつも温かく映る。
女王殿下、いや前女王殿下は、最近、随分と表情が柔らかくなった。
かつて、息子の呪いと向き合えなかったことを悔やんでいた人だ。
今は、穏やかな日々の中で、アルトの隣に静かに寄り添っている。
「リリアも、きっと見ているのでしょうね」
ふと、誰に言うでもなく母上が呟く時がある。
その言葉の通り、私は、確かにそこにいた。
セリウスは、変わらず軽い口調のまま、けれど誰よりもアルトを支え続けている。
「お前一人で背負うことはない。俺もレオンハルト兄もいるし、リリアも、ちゃんといるんだからな」
そんな言葉を、酒の席で軽く笑いながら口にすることがある。
その横顔には、もうかつての軽さはなく、確かな信頼があった。
紋章は、思い出したように、ふっと熱を持つ。
大きな決断をする夜、誰かのために心を痛める瞬間、嬉しいことがあった時――そのたびに、私の存在が、そっと寄り添っていることを、彼は感じてくれているはずだ。
言葉を交わせる夜は、滅多に訪れない。
それでも、寂しいとは思わなかった。
アルトが、前を向いて歩いている限り、私はずっと、彼の中で、この国を一緒に見ていられるから。
いつか、遠い未来、次の誰かが、王の証を継ぐ夜が来るだろう。
その夜にも、私はきっと、声を持って現れる。
そうして、また少しだけ、言葉を交わせるはずだ。
守られるだけの存在から、守る側へ。そして今は、形を変えて、見守る者として。
自己犠牲だなんて、もう思わない。
これは、私が選んだ、たしかな生き方だ。
アルトの胸の中で、私はそっと笑う。
どうかこの国が、これからもずっと、温かくありますように。
どうか私の大切な人たちが、いつまでも、笑っていられますように。
――私は、ここにいる。これからも、ずっと。




