21.婚約
夜。
ルミエラは父が家に戻り、書斎にで一人でいるころを見計らい、その場を訪れる。
ドアを二度ノックしてから扉を開けた。
「お父様、今よろしいですか」
「おお、ルミエラか。珍しいな、どうした?」
父はワインを飲んでそのひと時を楽しんでいたようだ。忙しい父の心休まる貴重な時間を邪魔することに、罪悪感を覚える。
「お話がありまして」
「どうした、急に」
「……」
ルミエラはどう切り出せばいいかわからず、黙ってしまう。
「とりえあえず座りなさい」
父はルミエラにソファに座るよう促し、自身はルミエラの向かい側に座った。
「何か話があってきたのだろう」
ルミエラは膝の上で拳を握り決意を固める。
「……婚約の破棄を」
婚約の破棄。そう言った瞬間に父の顔が険しくなる。
「そんなこと私が許すとでも?」
「一生に一度のお願いです」
ルミエラは頭を下げる。
そのままどれくらいたったのかわからない。
「顔を上げなさい」
父はそう言ったが、ルミエラは顔を上げることができなかった。今、父はどんな顔をしているだろう。突然娘がこんなことを言い出して、失望していないだろうか。
「ルミエラ、顔を上げなさい」
もう一度そう言われ、ルミエラはゆっくりと顔を上げる。
「何があったのか話してみなさい」
父に促されるままに、昼食時のこと、そして放課後のことを話した。
「なるほど、前から彼についてはいい噂を聞かなかったが」
「私の友人に手を出そうとしたのは許せません」
「そうか。だが、ルミエラお前の話だけでは……」
「お父様! お願いします! 私は――」
「落ち着きなさい、ルミエラ。私はヒナノからも話を聞きたいんだ」
「え?」
ヒナノから……? どうして?
「ここに連れてきてくれ」
***
「あの、いつもお世話になってます!」
ヒナノはルミエラ様に連れられ、クレプスキュール公爵の書斎に来ていた。
「ルミエラ、ヒナノと二人にしてくれ」
「はい」
ルミエラ様が部屋を去り、ヒナノは公爵と二人きり。どうすればいいかわからず、居候させてもらっているお礼を言ったのである。
「いや、こちらこそルミエラがお世話になっているね」
「い、いえ。そんな」
むしろヒナノがルミエラ様にお世話になりっぱなしと言いますか。
「急に呼び出してすまなかったね」
「いえ」
さっきから、いえ、しか言えない。
「実はルミエラから婚約を破棄したいと言われてね」
と公爵はあごひげをいじりながら言う。
「え」
婚約破棄? ジョエル様と別れるってこと?
「放課後のことを聞いたよ」
「あ」
なるほど、そこからの婚約破棄か。ジョエル様がルミエラ様のことを愛していないってわかったからってこと? まあでも、今日の放課後の感じだと、ジョエル様ってロクな男じゃなさそうだしな。でも、貴族の結婚で人柄で選ぶものでも無さそうだし。でもあまりアレな性格だとそれはそれで困るよね。
「それで、婚約は破棄させようと思うのだが……」
あ、傷心のルミエラ様を慰めほしいとかそういう流れ?
「あの、ルミエラ様は大丈夫なのですか?」
「そもそもルミエラが言い出しことだが」
「そうではなくて、婚約破棄したいほど、ショックだったということですよね。ジョエル様が私にキスしようとしたことが」
「そうなんだろうな」
「ルミエラ様はジョエル様を愛していたのに、ジョエル様の正体を知ってショックでルミエラ様は大変傷心状態だろうと」
「ん?」
謎の沈黙が二人の間を流れたかと思うと、公爵は高らかに笑い始めた。
「そもそもルミエラとジョエル君の間に恋愛感情はないようだよ」
そ、そうなんだ。ヒナノはホッとする。
じゃあルミエラ様は大丈夫、なのかな……。
「では、なぜ私はここに?」
「いや婚約の破棄をすれば、いろいろ噂が流れるだろう。婚約を破棄したルミエラと婚約破棄のきっかけになった君に対するね」
あー、なるほど。
「いろいろ言われるかもしれないが、婚約破棄の件で君に責任を感じてほしくないと思ってね」
公爵……。なんてお優しい人。
「あと一応聞いておくが、無理やりキスをされそうになったことは事実だね。それと、君はジョエル君に惚れているわけではない?」
一応でもそんなこと聞いてほしくないのですが。前言撤回しようかな。
「事実ですし。私はジョエル様のことがこの世で一番嫌いです」
「ははは……君は正直者だね。なら婚約破棄は決定かな」
なんか、貴族って大変そう。愛のない結婚か。ヒナノには考えられない。
「しかし、ヒナノ君は人を思いやれるいいこだね」
「あ、え。そんな」
急に褒められると、どうして答えていいかわからなくなる。
「ルミエラもよく君の話をしてくれるんだが、その時のあの子はよく笑うし、照れるし、何より楽しそうだ。君が来てくれてよかったよ」
ルミエラ様が楽しそう。
一緒にいて楽しいって思ってくれてるんだ……。
公爵の言葉を聞いてヒナノは心臓が激しく鼓動を打つのを感じる。
「もう下がっていいよ」
「あ、はい。失礼します」
ヒナノは公爵の書斎を後にしようとする。
「……が……だったらよかったんだが」
「え?」
「いやなんでもないよ。もう休みなさい」
「はい……」
君が貴族だったら良かったんだが。
そう聞こえたのは気のせいだろうか。
ヒナノは、首をかしげながら書斎を後にした。
ヒナノが自分の部屋、もともと客間だったが今はそう呼んでも差し支えないだろう、に戻って数十分後にルミエラ様がやってきた。
「ヒナノ?」
「あ、ルミエラ様どうぞどうぞ」
とヒナノは自分が座っているベッドの隣を叩く。ルミエラは少しほっとした表情で隣に座った。
「ヒナノ、ジョエルの件ごめんなさい。元婚約者として謝罪するわ」
「ルミエラ様はこれっぽっちも悪くないので謝らないでください」
もうジョエルの何から何までが許せない。
なんで、ルミエラ様が謝らなきゃいけないんだ。全く。
「そういえば婚約破棄するんですね」
元、婚約者と言ったけど、そんな簡単に破棄できるものだろうか。貴族同士の約束事みたいのものだから、難しい気がするんだけど。
「ええ、昔から思うところがあったのだけれど、今回の件でもう我慢できなかったの。もともとの素行が悪くて有名だったし、向こうもこちらの申し出をはねのけることはできないでしょうね」
ジョエルよ、もうちょっと自分の立場を理解して行動した方がよかったんじゃ。
「では新たな婚約者を探すのですか?」
「今さら無理でしょうね。この年になっては。まだ普通の令嬢ならチャンスがあったかもしれないけれど」
呪いがなければ……ということか。
「そういえば、この世界では、同性でも結婚するのですか?」
少しに気になったので、口に出してみる。
「それってわざわざ聞くこと……? もしかして、ヒナノの世界では同性同士では結婚しないのかしら」
「まあ、国によりますね」
「そう……こちらは性別が結婚に影響することはあまりないわね。まあ、貴族は子孫を残すために男女の結婚が望ましく思う家もあるけれど」
「へえ。私がいた世界では、好きな人と結婚するひとが多いんですよ」
「そう、それはこちらの世界の庶民と一緒ね」
「ルミエラ様は小さいころ好きな人とかいなかったんですか? 自分が庶民だったらこの人と結婚するのに! みたいな」
今は自分のことを律してそうだし、ジョエルの婚約者だったから好きな人を作らなかったかもしれないけれど。小さいころだったら、好きな人の一人や二人いただろう。
「いないわ。もし私が誰かを好きになってしまったら、相手にもこたえてほしいと思ってしまう。でも若くして死ぬと分かっている相手に私を愛せ、というのは酷じゃない?」
「そうでしょうか? 私だったら、その人の命がいつ尽きようと、全力で愛しちゃうけどな」
「じゃあ、あなたと結婚したかったわ」
ルミエラ様の言葉に、一瞬公爵の先ほどの呟きが脳裏をよぎる。
――貴族だったらよかったんだがな、か。
「はは、身分の差がなければ。私が婚約者に立候補したんですけどね」
と冗談めいたように、言ってみる。
「……残念ね」
とルミエラ様は少し寂しそうに微笑んだ。
貴族と庶民。ヒナノがいた世界、現代の日本にはない概念。
ルミエラ様の友人としている今でも、貴族と庶民、その間にある見えない溝を感じることがある。
「ルミエラ様。私ずっとそばにいますから」
「ヒナノ?」
「ルミエラ様が寂しくないように。ずっと一緒にいます」
ヒナノは横に座るルミエラ様の肩によりかかる。
「それは従者として?」
「いえ、友人としてですよ」
「そう」
そう言って、ルミエラ様は寄りかかったヒナノの頭の上に自分の頭をかたむけた。




