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契約結婚の相手が竜の姿のままなのですが  作者: 九葉(くずは)


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第10話 噛み合わないのに居心地がいい

 ヴァレス・ノルデン伯爵の処分が、王都から届いた朝のことだった。


「読み上げます」


 トビアスさんが、王都の紋章入りの封書を開いた。執務室に朝の光が差し込んでいる。いつもの温かい部屋。いつもの机。その上に、一通の公文書。


「ノルデン伯爵ヴァレスに対し、以下の処分を決定する。一、越境関税徴収所の即時撤去。二、傭兵による辺境伯邸襲撃の件につき、ノルデン領の鉱脈地域の管理権を王室直轄に移管。三、一年間の監査付き統治を命ずる」


 トビアスさんが顔を上げた。


「——以上です」


「……爵位の剥奪は、なし、ですか」


「傭兵の件は調査継続中ですが、現時点では反逆罪には至らないという判断のようです。ただ、鉱脈の管理権を失うのは相当な痛手でしょう。あれがノルデン家の収入の柱でしたから」


 ヴァレスの顔が浮かんだ。会議場で目を逸らした、あの顔。——有能な人だった。有能だったからこそ、追い詰められた時に手段を間違えた。


「マリス・ノルデンについては、社交界での工作活動に関する情報が広まり、信用が失墜しているとのことです。兄の暴走を知らなかったという弁明は一部で通っているようですが——当面、表舞台には出にくいでしょう」


 頷いた。


 マリスの顔も浮かんだ。あの藤色のドレスの令嬢。「呪われた夫に尽くして何になる」と言った人。——兄が傭兵を使っていたことを知った時の、あの動揺した顔。


「それと、奥様」


 トビアスさんが、もう一通の封書を差し出した。


「神殿からです」


 開封した。


『ドラッヘンベルク辺境伯夫人リーシャ殿


 先般の情報提供に基づき、疫病対策マニュアルの作成者について正式な調査を実施いたしました。魔法省鑑定官による筆跡鑑定の結果、当該マニュアルの原本はリーシャ・ハイリゲ(現ドラッヘンベルク夫人)の筆跡であることが確認されました。


 これにより、筆頭聖女エルヴィラ・メレスの功績報告に重大な虚偽があったと判断し、筆頭聖女の地位を剥奪のうえ、神殿内の調査対象といたします。


 なお、貴殿の功績については正式に記録を修正し——』


 そこで読むのをやめた。


「……奥様?」


「うん。——大丈夫です」


 封書を机の上に置いた。


 筆頭聖女の地位、剥奪。功績詐称の発覚。五年間——私が神殿で書き続けた記録が、ようやく私のものに戻った。


(……エルヴィラ様)


 あの穏やかな声を思い出す。「あなたには解呪の適性がございません」。白い回廊の午後の光。あの宣告から、全部が始まった。


 恨んではいない。恨むほどの感情は、もう残っていなかった。ただ——


「トビアスさん」


「はい」


「私の書いたものは、私のものです。——それだけです」


 トビアスさんが、少しだけ目を細めた。


「ええ。それだけです」


* * *


 昼過ぎ、屋敷の正門が騒がしくなった。


 窓から覗くと——人がいた。領民が集まっている。リンデ村の村長の姿もある。農民、商人、子供たち。屋敷の正門前に、二十人、三十人——数えきれないくらいの人が。


「なに……?」


 ナタリーと一緒に正門に出た。


 領民たちがこちらを見た。村長が一歩前に出て——深く頭を下げた。


「辺境伯夫人。このたびの領主会議でのご活躍、領民一同、心より感謝申し上げます」


 周囲から声が上がった。


「夫人万歳!」


「辺境伯夫人万歳!」


 ——え。


「関税が下がったおかげで、交易がまた動き始めました!」


「冬の備蓄も十分です! 暖房も暖かい!」


「辺境伯様をよろしくお願いします!」


 声が重なる。拍手が起きた。子供が花を持って駆け寄ってきて、足元に差し出した。名前も知らない黄色い野花。


「あ——ありがとう、ございます……」


 声が上ずった。顔が熱い。こんなに大勢の人に名前を呼ばれたのは、生まれて初めてだ。どういう顔をすればいいのかわからない。とりあえず手を振った。ぎこちなく。


 隣でナタリーが——泣いていた。


 声を出さずに、エプロンで目元を押さえて。肩が小さく震えている。


「ナタリーさん……」


「すみません、奥様。つい……」


「泣かないでください。もらい泣きしそうですから」


「……もう泣いていらっしゃいますよ」


 ——本当だった。頬が濡れていた。


 正門の柱に背を預けて、トビアスさんが腕を組んでいた。こちらを見て——ぽつりと呟いた。


「やっと、この屋敷に人の声が戻った」


* * *


 夕方。


 契約結婚の更新手続きの期日だった。


 書斎の扉の前に立つ。この三週間——領主会議の後から、扉は再び開くようになっていた。朝の鱗磨きも再開していた。でも、あの夜のことは——お互い、口にしていなかった。


 ノックした。


「ヴェルナー様。契約の更新手続きに参りました」


「……入れ」


 扉を開けた。


 蝋燭の灯り。いつもの書斎。暗くて、温かくて——


 竜がいなかった。


 書斎の中央に、人が立っていた。


 黒い髪。金色の瞳。あの夜と同じ顔。でも——あの夜とは違った。


 服を着ていた。白いシャツに、黒い上着。辺境伯の正装。少し大きい。十年前の、十六歳の頃に仕立てたものだろうか。袖が余っている。


 そして——立っていた。床に倒れてはいない。月明かりの中で怯えてもいない。自分の足で、まっすぐに立って——こちらを見ていた。


「……ヴェルナー、様」


「……ああ」


 声が震えていた。——いや、声だけじゃない。手も震えていた。体の横に下ろした両手が、小さく震えている。


 でも、目を逸らさなかった。


 あの夜は逸らした。「見るな」と言った。壁の方を向いた。——今は、逸らさない。金色の瞳がまっすぐに、私を見ている。


「お前に見せたくなかった」


 低い声。人間の声。竜の声より細くて、震えが隠せない声。


「この顔を。表情を読まれるのが怖かった」


「……知っています」


「だが——」


 息を吸った。肩が上がって、下がった。


「お前に隠すのは、もっと嫌だと気づいた」


 机の上に、契約書があった。


 二ヶ月半前に二人で署名した、あの契約書。婚姻期間、解消条件、財産分与、領地経営代行権。全部書いてある、あの紙。


 ヴェルナー様が——契約書を手に取った。


 そして、破った。


 びり、と。紙が裂ける音が、静かな書斎に響いた。


「契約ではなく、俺の意志でお前を妻にしたい」


 破れた契約書が、机の上に落ちた。


「領地のためでも、呪いのためでもなく。お前が——リーシャが、隣にいてほしい」


 名前を呼ばれた。


 「お前」ではなく。名前で。


 涙が出た。今度は堪えなかった。堪える理由がなかった。


「……旦那様」


「なんだ」


「一つだけ、いいですか」


「何だ」


「竜の姿の方が——もふもふ……いえ、鱗ですが——温かくて好きだったのですが」


 ヴェルナー様の耳が赤くなった。


 人間の耳は——竜の鱗と違って、隠せない。赤くなったら丸見えだ。


「……知っている」


「知っていたんですか」


「翼で包んだ夜、お前が『もふもふじゃないけど温かい』と寝言を言っていた」


「——聞こえてたんですか」


「聞こえていた」


(……恥ずかしい。恥ずかしすぎる)


「だから普段は竜でいる。ただ——この顔で言いたかった」


 ヴェルナー様が——笑った。


 不器用な笑みだった。口角の上げ方がぎこちない。笑い慣れていない人の、ぎくしゃくした顔。


 でも——金色の瞳が、笑っていた。瞳の奥にあった怯えが消えて、代わりにあるのは——温かい光。


 十年ぶりの、人間としての笑顔。


 私も笑った。涙を拭いて、笑った。


* * *


 翌朝。


 目が覚めた。部屋が温かかった。


 いつもの温かさ。この部屋だけの、不思議な温かさ。——入居した日からずっと。


 扉をノックする音。


「奥様、おはようございます」


 ナタリーが入ってきた。お茶を盆に載せて。


「今朝も旦那様が早くから暖房管を温めておいでで。竜の炎で……もう、毎朝のことですけれど」


 ——ああ。


(知ってた)


 知っていた。


 いつから気づいていたか——正確には思い出せない。あの夜、毛布が冷たくなっていた時か。それとも、もっと前か。ナタリーが「他の部屋は寒いのに」と笑った時に、本当はもう——


 断熱がいい屋敷ではなかった。


 竜が毎朝、暖房管を温めてくれていた。私の部屋だけ。ずっと。


「ナタリーさん」


「はい?」


「……ありがとうございます。旦那様にも」


「ふふ。旦那様には、直接おっしゃってくださいませ」


 お茶を飲んで、着替えて、屋敷の外に出た。


 春の気配がした。まだ寒いけれど、風の匂いが変わっている。冬の終わりの、透明な空気。


 庭の先に、黒い竜がいた。


 翼を広げて、背中を差し出している。あの日——空からの視察に誘ってくれた時と同じ姿勢。


「……乗れ」


「はい」


 竜の背に乗った。鱗が温かい。手を当てると、艶がある。毎朝磨いている鱗だ。自分の手の仕事が、ここにある。


 翼が広がった。体が浮く。屋敷の屋根が離れていく。


 春の領地が、眼下に広がった。


 雪解けの川が光を反射している。開墾した農地に、うっすらと緑が見えた。リンデ村の煙突から、白い煙が上がっている。遠くの交易路を、商人の馬車が行く。——越境関税所があった場所には、もう何もない。


「ヴェルナー様」


「なんだ」


「今日は少し、ゆっくり飛んでくださいね」


 竜の体が——一瞬、硬直した。


「……いつも通りだ」


 いつも通り。通常の三分の一の速度。私を怖がらせないための、ゆっくりとした飛行。


(——知ってた)


 それも、知っていた。


 トビアスさんが教えてくれた日から。「通常の三分の一の速度でしたが」。あの時は深く考えなかったけれど——ずっと、頭の隅にあった。


 この人は、言葉にしない。


 薬草を採りに山を飛んで「庭に生えていただけだ」と言う。暖房管を温めて、知らん顔をする。飛行速度を落として「いつも通りだ」と言う。


 全部——嘘だ。


 不器用で、臆病で、言葉にできなくて。竜の鱗の向こうに全部隠して、行動だけがいつも本当のことを言っている。


 竜の首元に、頬を寄せた。


 温かい。硬い鱗の感触。毎朝磨いている、見慣れた黒い鱗。


「——ここが、私の居場所です」


 竜の喉が、小さく鳴った。


 ぐる、ぐる、と。あの低い喉鳴り。満足している時の音。鱗磨きの時と同じ、腹に響く穏やかな振動。


 春の風が、頬を撫でていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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