トハンにて、その6 「おはよう、ようこそ」
怪物達のぶつかりあいが終わり、残ったのは原型を半ば失った二つの肉塊だった。それでもまだ双方動けるようだったが、トーゴにとってそれは別にどうでも良いことだった。トーゴは歩み寄り、操った方の怪物に声をかける。
「お疲れ」
言い終わる前にトーゴの影が二体を飲み込み、バギリゴギリと音を立てて芥すら残さず飲み込み、どこにもその痕跡は見当たらなくなった。腕を出現させるだけではなかったのかとミューもニゴーも驚き、そしてついにニゴーが口を開いた。
「……あなたは、何者なのです」
トーゴが見たこともない技を放ったときも、ザリチュを生み出したときも、次元の違う身体能力を見せたときも静かにそれを眺めていたニゴーが、この瞬間耐え切れなくなって質問をぶつけてくる。その内容はあまりに大雑把であったが、しかし真理だった。「何者なのか」。それに全く想像も説明もつかないのだ。トーゴの存在は、今や他者にとって未知であり驚異であり脅威である。
そしてトーゴの答えは、
「神です」
と、あまりに投げ槍で杜撰な真実だった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、ニゴーはそれきりそれに類いする質問を投げかけてくることは無かった。聞いても無駄だ、と思ったのだろう。若しくは、それを信じたのか。
廊下を二回ほど曲がり、魔力光が静けさの不気味な暗闇を切り拓く。先程の二体の襲撃以降、全くなんの気配もしないのだ。五つの資料室の前を通り抜け、実験施術室を横目にトーゴ達はまたもう一つ、数メートル先の廊下を左に曲がろうとしていた。
そしてトーゴとニゴーは違和感に気付く。
「おかしい」
「えぇ、継がれていますね。こんな物はありませんでした」
違和感の正体。それは壁が途中から継ぎ足されたかのように新しくなっており、染み一つ無くなっている事によるものだった。魔力光が徐々に近づくほどその継ぎ目がはっきりとしていき、やがてミューもそれを認識した。曲がり角の手前から古ぼけた石壁が急につるつるとした材質の石材へと変わり、そして角を曲がるとそこには――
「……どういうことでしょう」
――また、下り階段があった。
新しい素材で出来た壁や床、それが地下深くへ伸びている。本来ならばこの先に「素体安置室」が二つ並び、その向こうに目的の研究室があった筈なのに。
「下りる前にこの階をまわりましょうか」
「……主が、やったのでしょうか?」
「さぁ」
実にそっけない返事だった。仕方無い、ニゴーが分からなければトーゴに分かるはずもないのだ。
ニゴーは悩む。主のあの言葉が研究室にある机を開けてみろと言うものであれば、このように研究室を塞ぐ形で館を改築、それも拡張の難しい地下に向かってと言うのは些かおかしい。もしも机ごと研究室が別の場所に移動したというのなら話は分かるが、
「無いですね」
「えぇ、やはり下りるしかないようだ」
そう、研究室は見当たらなかった。まだあの階段を降りた先にある可能性は捨てきれない。しかし主が何を考えてこんなことをしたのか、まず主がやった事なのか、ニゴーには皆目検討も付かずほとほと困り果てていた。腰に指したサーベルを見やり、溜息をひとつ。
「……まだ、感謝も怨みも抱いていない。空っぽのままなのです、主よ。」
ニゴーはこの館で生まれて、外に出ない主の運動がてら剣術の練習に良く付き合っていた。模造刀で打ち合い、良い試合が出来ると主は本当に楽しそうに笑うものだった。ニゴー自身にとっても創造主が喜んでくれると言うのは光栄であって、二人にとってその時間は掛け替えの無いものだった。
だがニゴーは主の異常性を垣間見る事になる。
ある日、主は模造刀ではなく何処からか調達してきたサーベルを持ってきて開口一番にこう言った。
「本物で本物を斬ってみようか」
その日から剣術の鍛練の内容に少しずつメニューが追加されていった。試し斬り、打ち合い、対多数戦闘。それは鍛練や修練というより訓練であり、そしてその相手は「本物」、つまり他の人形であった。
ニゴーは人造人間であり、彼らも人造人間である。ただいくらニゴーが仲間意識を持とうとも、彼らは何も考えずにニゴーを殺しにかかった。それを仕方無く撃退し、殺した。それすら訓練の光景だった。やがてサーベルの柄が訓練で磨り減っていくたびに、主への忠誠心も懐疑心も薄れていった。麻痺した、という方が正しいかもしれない。
楽しかった。けれど、心苦しかった。いつしかその思いすら消えた。
創造主に感謝も怨みも、何も抱けていない。それでは造られた存在としてすら出来損ないだ。空っぽの肉人形だ。
生まれた意味は、生きてきた意味は、自分にはあるのだろうか。なぜ造ったのかと問い質すとき、どんな感情を乗せればいいのか。
それを探しにここまで来たのだ。五年越しの悲願、それを果たしに来た。
だからこの階段を下りた先に何があるのか、知らなければいけない。
「グンジョーさん」
「なんです?」
「次に戦闘になったら、まずは私に出させてください」
人造人間なら、数え切れないくらい斬って来た。そこにまた屍が積み重なろうと最早関係ない。それは仲間ではなく、斬られる為の案山子だ。だがニゴーは違う。自我を持ち、館を出て、人間として苦悩した。
つまりその言葉は過去との決別であり、人としての覚悟だ。
「分かりました」
トーゴはその変わらない表情の奥に確かに感情を見て、快く頷いた。
そして長い長い、余りにも長い階段を下りて、そこにあったのは。
「……なんだこれは」
距離感の狂うほど高い天井と、崖のようにのっぺりと見える遠い向かいの壁。そんな広大な室内だというのに柱は一つとして無い異様な、広すぎる空間。壁や天井には大岩の発光石が埋め込まれている。つるつるとしたこの特別硬質ではないこの石材がなんらかの特性を持って柱なしでも天井を支えている事は分かったが、理屈と感覚は別である。いつか崩れてきやしないかと冷や汗をかかずにはいられず、まるで巨大生物の体内に飲まれてしまったような恐怖を覚える。
そしてその部屋の中心に、「なにか」あった。
宙に浮かんで天井から床までの距離を半分以上占める巨大な心臓。それを囲う様に鎖で吊り下げられた大量の檻と、その中にいる何故か結晶化した人形。真上の天井と真下の床には魔法陣が刻まれており、そこへ揺らめく魔力が流れ込んでいる。魔力の発生源は結晶化した人形と心臓であり、恐らく人形は全身を魔石と融合させているのだろう。心臓については鼓動も鳴ることなく静かに佇み、血の流れるはずだった管から赤茶色の魔力が漏れていた。心臓は床へ、人形は天井へと魔力を注ぐ形である。
「あれは?」
「炉、だよ」
静かに階段近くに立っていた白衣の老人が、トーゴの問いに答える。うわんうわんと声が響き、その存在に気づかなかったミューとニゴーはバッとそちらを見た。すれば、ニゴーはその乏しい表情をみるみる驚愕へと変える。
「ある、じ……」
「……あぁ、君がニゴーか?」
「……え?」
懐から紙巻き煙草を取り出した主――葛城慶三を見て、ニゴーは盛大に困惑した。
なぜ自分のことを知らないのか。よく見てみれば彼は背筋が曲がっていない。動きはキビキビとしていて、瞳の色も、肌の色も少し違う。
そう、瞳の色も肌の色も、違った。それは死人が蘇ったときの特徴であり、相手が生ける屍かどうかの判断基準として用いられる。つまり彼は。
「……人造、人間?」
「そうだ、私は一度死んだ」
「っでは、何故生き返ったのです! だ、誰に」
「虹の石英だよ。」
唐突に、しかしある程度予想していたら名前を聞いてぴくりと眉を動かすトーゴとミュー。聞きたいことはニゴーもトーゴ達も山のようにあったが、
「さて、何をしに来たのかね?」
手を後ろで組み威圧感の嵐を生み出す彼の様子では、これ以上は無駄のようだった。トーゴはケイゾウと同じく煙草、あえてミューに貰ったオレンジと白の紙巻きを取り出し、火をつける。それにケイゾウは面白そうに目を細めるのだった。
「ほう、銘は?」
「hi-liteだ。いるか?」
「ふむ、セブンスターは無いものかね」
「残念ながら。なんで覚えてる?」
生前の記憶は蘇生時に失うはずだ。だがケイゾウは日本の煙草の記憶を未だ持っていた。しかし単純な事で、ニゴーのような人格すら変わる失敗作ではなく、少しずつ完璧な蘇生に近づいた結果だとケイゾウは言った。最早当初の「妻の創造」という目的からはかけ離れていたが、今の彼ではそれにすら気付かないのだろうか。
「記憶の断片だけ残ってるのさ。さて、私は葛城慶三。異世界の者だ」
ケイゾウはクリーム色の紙巻き煙草に火をつけて、丁寧にも自己紹介をした。異世界よりのもの、その言葉にニゴーは更に動揺を重ねる。そしてトーゴの言葉にも同じような反応をした。
「俺は群上塔梧。多分同じところから来た」
「そうかい、それは残念。同郷のものを殺さねばならないとはね」
「見られたからには、ってか?」
「理解が早くて助かる」
「だ、そうですよ、ニゴーさん」
トーゴはニゴーに向けて、次は自分が出て戦うと言っていただろう? という視線を投げた。
「……わ、私は……」
まさか創造主本人と戦うことになるとは思っても見なかったニゴーは狼狽える。一体何を思って主は死んで、何を思って虹の石英は主を生き返らせたのか。聞きたいことも知りたいこともあり過ぎて頭がパンクする。今考えるべきこと、今するべきことはなんだ。自分は、何をしにここに来た? それを探った末、ニゴーはこう言った。
「……私は、貴方を斬ります」
貴方は今や、人造人間と成ってしまったから。
私の創造主では無くなってしまったから。
「そうか。」
ケイゾウの残った記憶の断片に、ニゴーはいないのだ。酷くどうでも良さげに指をパチンと鳴らし、心臓近くの左右の壁が両開きに動き出す。
「グオォォオオォン……ゴオオオォォォ……」
「ゲタゲタゲタゲタ!!!!」「ギャハハハハハハ!!!!」「グヒャヒャヒャヒャヒャ!!!!」
地の底から響く空洞音じみた声を出す多足の肉塊と、辛うじて皮膚はあるがやはり悍ましい外見の顔がいくつもある怪物。それが大爆笑をしているもので、この地下の閉鎖空間に乱反射して頭が割れそうになる程だった。心臓よりも巨大なその図体で、数百メートルの遠方から二体の怪物が迫る。
「ケイゾウは任せましたよ、ニゴーさん。なるべく殺さないでおいて頂けると助かります」
「もとよりそのつもりです、そちらもお気を付けて」
トーゴとミューがまるで街中を歩くように怪物に向かって行くのを見やって、ニゴーはケイゾウと向き合う。生前のように煙草をふかす彼も、人造人間となって凄まじい身体能力や禁術を手に入れたのだろう。それに比べて、ニゴーは弱かった。何故だか他の人造人間達と同じように身体を動かすことが出来ず、その身体能力は人に準ずるままだった。だがそれが、館を出たニゴーを人として生かしたのかもしれない。
「自分で言うのもなんだがね、私は加減して勝てる相手では無いよ」
「加減するつもりもありません。……貴方に教えて貰った剣ですから。」
「あぁ、そうなのか」
その「今初めて知った」という反応がやけに鼻について、ニゴーは自分はこんなにも人間然としていたのだなと思う。彼を倒してこの胸中のむかつきをすべて払わねば、きっとずっと後悔する。知りたいことも沢山ある。だから。
「行きます!」
「来い」
未だ後ろに手を組んで偉そうに立つ、あの死に損ないを、死に損なってしまった彼を、斬らねばならない。
「いや、斬れる。貴方は私と同じところに立っているのですから」
銀線を引いてサーベルを振りかぶるニゴーは、刹那、誰に言うでもなく呟いた。
主従を脱ぎ捨てた創造主と被造物の戦いが始まった。
一体どれ程の死体を使えばあんなにも巨大な怪物を作り出せるのか、皆目検討も付かない。象のような足を百足のように生やした怪物は顔もないのに真っ直ぐこちらに突撃して来ており、ラシュモア山の彫刻の如く顔を幾つも張り付けた怪物はその腹がグチャリと割れ、中には人の腕と足を繋ぎ合わせた悪趣味な鎖が仕舞われていた。二体とも十階建てのマンションくらいの体躯はあるだろうか。その足も鎖も凄まじい膂力を誇るのは見て分かる。
「悪趣味な事だ」
「援護いる?」
「いや、腕が新しくなったから素でやってみるよ。」
戦闘時となればどんな具合か、それを確かめたいのだ。わかったと頷くミューは多重結界を自分だけに張り、様子見の魔術攻撃を放つ。
「火球」
集中も瞑目もせずに放たれたそれは突っ込んでくる百足型にぶち当たり、その表皮を爛れさせる。全く効いていないが、どうやら結界や防護は纏っていないという事が分かった。
多顔型の腹から鎖が伸び、その先にある手が開かれる。赤茶けた魔法陣からごぽごぽと溶岩が生まれて収縮し、それが一瞬膨張した後にビッとレーザーのようにこちらを穿つ。
「ギャハハハハハハ!!」
ミューの結界がそれを弾き、辺りに溶けた石が飛び散る。援護魔術によって強化されたミューの二重干渉結界はそうやすやすと破られるものではない。第九位階であったそれを「んー、三発は耐えられるかな」とミューは豪語した。
「で、あのイモムシみたいのどうするの」
「夕号の出番かな。だがあの心臓に何があるか」
「天井の魔法陣、すごい大規模の結界魔術だよ。当たっちゃっても多分大丈夫」
「そうか、それは良かった」
ダッカクの父親から格安で譲ってもらった神鉄石の剣、夕号。余りにも手に馴染むので加減の難しいそれではあの心臓を傷付けてしまうかもしれない。その結果何が起こるか予測できないので、ミューの大丈夫という言葉は幾らか気を楽にさせた。
「さて、宜しくな夕号。埃を被せたままで悪かった」
まるで受け応えるかのようにギラリと魔力光を反射させ、遂に夕号はトーゴの背中から手の内へと居場所を移した。
夜闇よりも尚暗い刀身、研ぎ澄まされた白銀の刃がその漆黒を侵食するような装飾。異様な雰囲気と異常な切れ味を持つ大剣。鍛冶に人生を捧げた男の、魂の剣。
それをトーゴは未だ百メートルほどの前方にいる怪物に向けて構える。腕の幾何学模様から流血の如く魔力をドクドクと溢れさせ、黒緑の燐光が剣を覆う。大剣の禍々しくも明媚な黒白にトーゴの魔力が煌めく様は余りにも幻想的で、ミューは戦闘中ながらほう、と溜め息をついた。
「妖精の羽根の色……だっけ」
影であり光であり、宝石であり綿毛である。そこに司る属性の色が少しだけ混ざって、妖精の羽根は彩られている。それは人の身では理解出来ず、見も出来ない。だから妖精は神様にしか仕えない。
あぁ、ならば、神である彼がその羽根の色を纏うのは、ごく当たり前じゃないか。
「【鉋屑の偽悪】」
右上段から降り下ろされた剣から、ギイッ、という何かが軋んだような巨大な擦過音を立てて衝撃波じみた狂飆が繰り出される。その反動でトーゴの足元が大きく凹んで砕け散り、巻き起こった風ですら結界を通り越してミューの肌をバシバシと叩いた。
荒れ狂う幾万の鎌鼬は弾丸を鼻で笑う速度で百足の怪物へ迫り、その歪んだ巨体を瞬間に飲み込む。その暴威が通過した後には何かが爆発四散したような血と肉の欠片だけが残っており、斬撃は勢い止まらずに数百メートル向こうの壁を消し飛ばしてその天井を崩落させた。凄まじい轟音が鳴り渡り、響く。しばらくの間はもう一体の怪物の笑い声も全て掻き消され、見上げる程に沸き立つ砂埃が唸る。
それをトーゴは、いやに美味そうに煙草を喫いつつ眺めるのだった。
ここにもし見物人がいたとして、これを見てどんなリアクションを見せるだろうか。目を擦って現実を疑うか、怯え戦慄いてひれ伏すか。
きっと万の人が居たのなら万の人が後者となるのだ。次元が違う、それを理解した時に浮かぶ気持ちは共通して恐怖である。あんな化け物がこんな近くにいると、未知と出会いそれに恐れるという感覚は正常なのだから。
ミューもその例に漏れずに、【緋為】を見せられたときのようにぺたんと座り込む。トハンの村ならば消し飛ばせるのではないかという力の奔流と、トーゴから一瞬だけ感じ取れた熱波のような殺意にあてられて腰が抜けてしまっていた。
だが殺意の波動に晒されつつも、ミューがパニックに陥ることは無かった。それは自分に向けられたものでは無かったからだと思ったが、少し違う。
(あれ……怖くない?)
そう、ある筈の身体の震えが全く無かったのだ。殺意を身近に感じておいて、これはおかしい。例え対象が自分でなくても少しくらいは恐怖を感じるはずなのだ。まだトラウマを克服できたわけでは到底ない。なのに。
(……それどころか、なんか……身体が……)
怖いどころか、身体が疼く。この疼きの正体をミューは知っていた。渇望であり本能であり、どうしようもないものだ。これは、生物である限り抗えない欲求だ。
(……いやいや、今はそんな場合じゃ――)
しかしその時運悪くもミューは見てしまった。トーゴの、笑った顔を。
トーゴは酔っていた。言うなれば数百年ぶりに心から誰かを想い、そしてそれが形になった事に酔っていた。利己抜きでティマエラを愛する為に化物への一歩を踏み出す。それは新たな力、新たな肉体という目に見える形で表れ、トーゴを昂ぶらせた。
結果悪魔のようで天使のような、人を惑わしともすれば殺す凄惨で美麗な笑みをトーゴは零した。酩酊ゆえに。
(――っまた、またあの目だ……)
魔眼。そう形容するより他にない、奥底に光を燈す紅い瞳。あれはダメだ。あれで見つめられて、その上優しい言葉なんか掛けられれば、きっと。
「ミュー、立てるか? ごめんな、少しやり過ぎた」
ほら、ぎゅう、と胸が締め付けられて痛い。
こんな恐ろしいひとに惚れてしまったら二度と他のひとを愛することなど出来そうにない。なのに惹かれてしまうのは、服用すれば絶対にキモチいいと知っている麻薬のような魅力ゆえだ。
後戻りなんて出来ないのに、取り返しなんて付かないのに、それすら快感を増幅させる添加物にしかならない。
手を出したいと、胸が鳴る。
(……ああ)
ミューは気付いた。私はこの人の何が好きなのか。
瞳だ。あの赫赫たる瞳と、それを笑みの形に歪めた表情だ。
この人がいなければ駄目、という依存とは全く違う。相手のこんなところが好き、と言える、これは恋だ。
いや、もしかしたら彼は牡夢魔かなにかで自分は籠絡されてしまったのかもしれないが、それでもいいと思わせる引力を持たせるのが恋というものだろう。ともかくミューは今、トーゴの本質的な意思、それを宿す瞳に魅せられていた。
その時、遠くで多顔の怪物が手足で出来た鎖を束ね、一際大きな魔法陣を構築する。第七位階の炎属性魔術「イフェスティオ」。魔法陣から巨大な溶岩の腕が伸び、その掌から熱線が放たれる。
これはこの結界では防げない、ミューがそう察知して回避行動をとろうとしたが、その時点で既に攻撃は眼前まで迫っていた。まずい、そう思った瞬間、ミューを庇うように差し出される何かがあった。
「ぐっ……」
「……!! お、おにーさん! おにーさん!!」
それはトーゴの腕だった。赤熱した一条の溶岩が右腕を切り落として上腕の半ばから失われ、ボタボタと夥しい量の血が痛々しい傷口から溢れた。咄嗟にミューは包帯や傷薬を取り出し、悲痛な声で呼び掛けて顔を覗き込む。
しかしどうだろう、トーゴはまた笑っていた。
「く、く……これは、痛いな……くはははは……」
「……ど、どう、したの……?」
トーゴの行動が理解出来ずに困惑するミューだったが、そこで一つ違和感に気づく。
先程結界越しにすら感じた熱量、それで攻撃されたならば傷口は焼き爛れて塞がっている筈だ、なのに血が流れているというのはどういう事だろうか。このビチャビチャと床を濡らす血は、血なのだろうか。
それにトーゴは「痛い」と言った。痛覚含む五感を自在に鋭敏化させ遮断できるトーゴがだ。
ミューは困惑する。攻撃が腕を貫通しているのに結界には届いていないというのもおかしかった。加えて言うならあれくらいトーゴならば退けられたはずだ。何故トーゴはミューを抱えて離脱するのではなく、庇うことを選んで攻撃を食らったのか。トーゴは、何をするつもりなのか。
「第一歩、第一歩だ……足音を聴け」
痛い。それはつまりトーゴが痛覚を遮断出来なくなったということ。人の身体の構造に則って体内魔力を練り上げ感覚器に干渉し、今までそうやってトーゴは五感の鋭敏化や鈍化を行ってきた。それすら出来ないというのはつまり、身体のカタチが、人で無しに成ったことに他ならない。
空中を暫し泳いでから床に落ちてきたトーゴの腕が地面に接触し、そこにあった影にバクンと喰われる。
そう、影に。
天井や壁の発光石が粉々に砕け散り、室内は徐々に暗闇に支配されて行く。少しずつ少しずつ領地を広げる闇がくすくす、けらけらと笑い声を上げる。何が起こっているのかなど分かるはずもない、影が歌い、闇が笑い、黒が叫ぶ。その光景はまるで奈落の底のようで、やがて怨嗟と歓喜の大音声に変化したそれは、トーゴが腕を前方に伸ばした瞬間にぴたりと鳴りを潜めた。頭が痛い程の静寂と、冥闇から見つめる異形の視線だけがこの空間のすべてとなる。悪徳の神の中で幾星霜も眠りにつき、ついぞ目覚めた悪魔達へ向かって、トーゴは狂気と狂喜を孕んだ声色で支配者の言葉を届けた。
「――おはよう」
ぞ、と空気が変わる。
極寒の死地にも灼熱の地獄にも思えるような、身体を芯からじりじりと焼く焦燥感、恐怖感。到底抗えない絶望が胸を埋め尽くし、どうやっても及ばない力が視界を塗り潰す。
それは小さな神話の具現。
覆滅と撃滅と殲滅の意思、排撃と遊撃と猛撃の魔王、悪徳の神。
それが創りしは災厄の悪魔群『ダエーワ』、それが率いしは聳立する七大魔王。トーゴの絶望から始まったその力は、今その絶望を撒き散らす災禍と成った。




