トハンにて、その5 「魍魎跋扈、踊るヒトガタ」
ニゴーが目を覚ますまで、暫し待ちつつ携帯食を口にする。オートミールを薄い小麦の生地で覆って揚げたもので、味は薄いがサクサクとしていて食べやすい。栄養価も高く、これに亜麻鼠の干し肉、塩ハーブ水を組み合わせれば一日に必要な食事の半分は賄える。旨味と塩味の濃いジャーキーと爽やかな塩ハーブ水が、人の臓物の臭いを打ち消してくれる。
食事の際に不便なのでザリチュは腕に戻した。首筋に近いところから走る激痛と、ぎこちない腕の動きに弱まった握力。それをそのままにして食事を終えたが、治療する方法がトーゴには一つだけあった。食事を終えてミューが杖の手入れをしているのを横目に、トーゴは呟く。
「第一歩、かな」
トーゴの双眸から黒い涙がつつと流れ出て、それは顎と首を伝い腕まで到達する。服に染み込むことなく右腕を染めあげ覆った黒い涙は、前腕部の上あたりにばかりと瞳を開いた。血走りギョロギョロと忙しなく移動する眼球に向けて、トーゴは一つ命令を下す。
「『再構築』」
四方八方を睨みつけていた瞳がゆっくりトーゴの顔に目線を向け、毒を孕んだ凄惨な笑みの形にぐにゃりと歪んだ。
そして聴こえるのはトーゴの腕の肉が裂かれ、骨が砕かれ、肩から指先までをぐちゃぐちゃに掻き混ぜる悍ましい音。「再構築」。その言葉の表すとおりだ、この黒い不定形の悪魔に腕を喰らわせて、新しい腕を構築する。無論頭部は不可能だが、それ以外の全身すべての部位を完全に回復させる反則級の技術。難点は身体を喰い砕かれるので、当たり前だが絶叫では足りない激痛を伴い、ともすればショック死すること。なのでトーゴにしか使えない回復方法であった。それ以外には時間が少々掛かる為に戦闘中には使いづらい事くらいしか、さして問題もない。
黒い悪魔は宿主の腕を喰らうという悦楽がとびきり堪らないようで、その一つしかない目を快感に濡らして歓喜していた。そして腕の形になった黒い膜の下で骨肉に混じって蠢く悪魔は、今度は粉々のミンチになったそれを練り上げていた。出来上がるものが何かは言わずもがなだろう。
「お疲れ、いい仕事だ」
「まタ、いツデもどォぞ」
「…………お前喋るのか……」
悪魔はにやりと笑い消えていった。そして現れるのは怪我の治ったトーゴの腕であるが、袖を捲くったそこには肩口から中指まで、螺旋を描くように七角型を組み合わせた幾何学模様があった。前世で馴染み深い入れ墨とも、禁術のような焼印とも違う。そこだけ肌であって肌でないような黒と蛍光緑色のパターン。それが薄暗い館に浮かび上がる。
「……良し。」
ぐぱぐぱと手を動かし肩を回し、腕の調子を確かめてトーゴは満足そうな顔付きをそれに向ける。自覚は無かったが、その表情は鮮烈な狂喜を静かに湛えていた。
これがトーゴの第一歩。ティマエラを殺す為の、最初の一歩だ。今までは使おうと考えもしなかった方法だったが、なんだ、良いじゃないか、これ。自分が人の形をした愛の怪物に成ったようで、脳髄と脊髄の最奥からゾクゾクと愉悦がスパークする。
「わ、なにそれ?」
ミューは、白樺の可愛らしい片手杖の握りに滑り止め兼、植物型媒介の麻布を巻き、水と植物の魔素を内包した魔石の劣化度合いを確かめて、本体である杖の罅割れなんかをチェックする。そんな作業を終えてトーゴの背後に寄ってきた。そして見たのは不思議な模様を貼り付けるトーゴの右腕だ。まるで人の創った物だと思えない、淡い光を放ちつつ夜よりも昏くそこにある、神秘の螺旋状。
「怪我を治したんだ。ほら、こんな感じになった」
トーゴは螺旋へ魔力を流し込み、空間がぐわりと歪む。そうすれば右腕は模様の放つ黒緑の燐光に包まれて、まるでエネルギーの塊のような圧迫感と熱を放った。そしてそれは何よりも目を引く煌々とした灯りであり、見る者の心をどこかざわめかせる魅力を持った魔の燈火である。ミューはそんな輝きから目が離せない様子だった。
「……わ、すご……綺麗だね」
「だな」
トーゴはそのまま手を伸ばし、ミューの頬に触れる。柔らかく滑らかな肌だ。鋭い五感は微かな産毛の感覚まで感じ取れて、トーゴは、自分の存在を確固たるものにしてくれたこの少女を護ってやりたいと心から思った、思えたのだった。それは景色すべてが灰色だった前世ではありえない気持ちであり、それがとても、トーゴには嬉しかった。
「……あったかいね」
「こっちは冷たい。」
「……ね、もう少し、このままでいて」
「分かった……は?」
ミューは少しだけ大きくごつごつとしたトーゴの手に甘えるように擦り付き、そして暫しこのままを願ったかと思うと、徐に口のそばにあった親指を口に含んだ。口淫の模倣のようなそれにトーゴは一瞬固まった後に盛大に困惑し、少しの間されるがままになってしまう。
「はむっ……んっ……ちゅぷ、ッふ……ぅ」
ミューはトーゴの手を自らの小さい両のそれで掴み唾液を塗りつけ、舌で掬い取り、また塗りつける。柔らかく温かい綿のような舌が、指という敏感な部分を這い回る。その感覚は先程とは違う快感を背筋に走らせた。
ミューの頬は上気し、目は少しだけ潤んでいる。だが扇情的にこちらを見やり頬を染めるその表情はあまり浮かない寂しげなもので、置いてけぼりにされた子供のように見えた。
「じゅる…………ぷは、んふ……、っちゅ、……は……。」
「……何してるんだ?」
「…………ヒミツ」
「教えてくれ、寂しいのか? それとも怖い?」
「……んー……どっちも、かな。はい、おにーさん」
「…………お前なぁ……」
ミューは自らがしとどに濡らしたその指を腕ごと押し返し、トーゴの口元に近づけて来た。それを、舐めろと。流石に狼狽するトーゴだったが、原因はなんとなく分かっていた。ミューは、先程のティマエラへの決然たる誓いをすぐ隣で聞かされたのだ。ティマエラが他の女を囲うことを良しとしない普通の女性であったなら、ミューはあれで決定的に振られたようなものだった。そしてティマエラがそうでない、神として他の女を囲うことを良しとする人物だったとしても、あれは中々に「クる」ものでは無いだろうか。自分の好きな人は、自分では無い人をこんなにも好いている。それをまざまざと見せつけられたのだ。
そんな事で諦めるミューでは無いが、傷つかないかと言われれば全くの“ノー”だった。ミューは今や恋をしていた。未だ依存との区別は付けられず、未だそれすら「好き」だと思い込んでいる未熟な想いであったが、確かにミューは恋をしていた。だから単純に恋する一人の女として、トーゴのあの言葉には落ち込んだ。
その末の甘え方がこれ、という事実にトーゴは嘆息を堪えられないが。
だがティマエラも言っていた。ミューは「恋に恋する」という一定の年齢において、きちんとそれを分かっている賢い娘だと。だから、そこに確かにある恋心を以て何かトーゴに願うことがあったのなら、応えてやれと。その言葉を今、トーゴは少しだけ頼りにすることにした。
「……今回だけだ。良いか?」
「……! うん!」
本当に嬉しそうなその顔を見れば、ティマエラへの少しの申し訳無さも薄れた。
血や肉なら幾らでもくれてやるのに、と少しズレた文句を胸中に仕舞って、トーゴはミューの体液でてらつく指を舐める。
「っ…………あは、あはは」
ミューはまるで自分がそうされているかのように、目を細めてトーゴの舌と指を眺め、色情に身体をくねらせる。それはまるで少女然としていなかった。
親指を口に含むというのも見た目の問題で少し憚られて、トーゴはその長い舌の先で味わうように甘い唾液を舐めとる。一舐め一舐め丁寧に、ミューの付けた「証」をきちんと取り込んで、それを介してミューを喰らい尽くすかのように、トーゴはミューの瞳を見つめながらその交合じみた行為を終えた。
「ッふ……美味いな、すごく。」
「〜〜〜〜ッ、んふ、ふふふ。えへへへへ」
水球を出して、ミューの居なくなった手を洗う。小さなその水の塊は新生した右腕で握り潰し、一瞬とも経たず消し去った。
「満足?」
「うんッ」
「そりゃ重畳。」
美味いなと、それは嘘ではなく本心だ。なぜ美しい女性というのはこうも男と違うのだろうか。汗をかいても、血を流しても、汚泥にまみれても、体液の全てが悩ましい芳香を放ち揺れる輪郭線は目を奪ってやまない。そしてその粘膜から分泌される粘性流体は淫楽を呼び起こし、皮膚の下に流れる生命の欠片は快楽を引き摺り出す。ミューはそれだ。ティマエラもそれだ。
トーゴはもう一度先程の悪魔を呼び出す。
「な、何で泣いて……泣いて? る? んん?」
「いや泣いてない、これはそういうものだ。」
「ほぁ。」
「……ツギは、どコでしョウカ?」
「ここだ」
「かしこマりマシタ」
黒い悪魔は瞳だけで妖しく笑い、トーゴの顔を覆っていく。まるで漆黒のマスクのように目から下を包み込み、そして再構築の命をを下したのは、顎だ。ボキリゴキリとトーゴの上顎下顎が砕かれ創り替えられ、そしてまた「何時でもどうぞ」といって悪魔は消えていく。悪魔のいなくなったそこにあったのはなんの変哲もない顎のように見えるが。
トーゴは不意に良くわからないことを口にした。
「ミュー、俺は今『ユパンリートの傷薬』を持ってる。」
王都で、金で手に入る中でも最も効果の高く、最も高価である傷薬だ。その値段は約十万ケインズ。なぜこんなものを、と言うとカトレアが餞別に持たせてくれたものだった。「いつか使うかもしれない」と言っていたが、トーゴにとって、それは今であった。いやむしろ、今しかなかった。
「……それで、どしたの?」
「痛いだろうから、断ってくれても良いんだが……」
「…………わァ、格好いいね、それ」
トーゴは屈んでミューの目線まで下りてきて、そのギラつく長い犬歯を、犬歯だけの顎をちらりと見せる。そして暖炉の火を想起させる優しい笑顔でこう言った。
「血を、くれ」
甘く苦く喉を焼き、そのとろみで腰を疼かせる血を。
そんなことを言われれば、ミューの答えは一つであった。
「勿論……っ、ぜんぶぜんぶあげる、あげさせて」
「……はぁッ…………」
「あ、ぐ……あ、……あッは、今あたし、おねーさんと同じこと、してるんだぁ……嬉しい、あッ、ん。えへへ」
喜々とした呼気を漏らして、トーゴはミューの首元に牙を突き刺す。なんの抵抗もなくするりと入り込んだトーゴの一部が、完全な歯型を残すだろう。だがそれもなんとも都合の良い高級傷薬によって解決可能。だからなんの気兼ねもなく、トーゴは暖かく溢れ出るいのちを底から飲み尽くさんと牙を食い込ませて、そうすればミューは法悦に咲う。
「は……ふ、甘い、甘いな。これは……止まらない、が……」
が、やり過ぎてはことだ。こんな危険な場所で貧血にでもなったら、まぁ護れる自信はあるのだが、ミューは護られるだけではなく自分の修練を兼ねてこの依頼について来ているのだ。だから怪我で流血しても問題なく動けるようにと意識して、トーゴは途中から牙を引き抜き、その吸血は傷口から留まらず零れたものだけを舐めあげるものへと変わる。
「あ、あ……んッ…………や、舐めちゃ……はんッ、く……あ……」
肩と頭を優しく抱かれ、愛されているかのようなその異常な行動に身を預けて、ミューは喘いだ。実際、トーゴは愛してはいたのだ。その行き過ぎた愛咬を、そしてこの瞬間だけミューという少女を、トーゴは確かに愛していた。それは背徳衝動に任せた一種の気の迷いであり、決して純情とは言えないものだったが。
「……ごちそうさま。」
キスのあとのような銀橋は、今は片方が首筋へと繋がり、そして紅く朱く染まっていた。
また傷口を水球で洗い、防水加工された布容器に入ったユパンリートの傷薬をたっぷりと人差し指から薬指にかけて掬い取り、ミューの細い首に残された大きく恐ろしい傷に塗り込み擦り込む。それは素晴らしい効果であった。水色がかった薬を塗ればすぐに血は止まり、そして傷口は雪のような光を放って少しずつ、ほんの少しずつだが塞がり始めていた。
「あぁー……ねぇ、じゃあおにーさんのもちょうだいよ」
だがミューはそんな事どうでもいいとばかりに未だ残る舌の感覚に身体を震わせて、トーゴにまた一つお願いをした。そしてトーゴはそれに快く応える。トーゴにとってキスよりも遥かに恋愛から遠いそれならば、いくらでもしてやれるのだった。
「勿論。」
「この腕、いいかな。」
「どうせなら模様のあるところをいけ、がぶっと。」
「おにーさんのそういう迷いのないとこ、好きだよ。あむ」
「っ……」
トーゴはぴくりと、少しだけ痛みに顔を動かす。痛覚を切っていない事に気付いたミューが、トーゴの右腕から口を離してそれを尋ねる。小さな歯型が控えめについていた。
「んは。あれ、痛いの?」
「気にしないでいい。全部感じたかったんだ」
「さらっとド恥ずかしいコト言うんだね、おにーさん」
「ほら零れる零れる。」
「んにゃ、んむ。」
「喰うか?」
「ん。…………む……」
ぐり、と小さく並んだ歯が前腕部の上下に食い込み、やがてぷつぷつと肉の切れていく音がする。筋肉の良く付いたそれは噛み千切りにくいようで、ミューは顔を顰めて奮闘していた。頭を撫でて激励してやれば、一息ついた後に思い切り噛みつき、遂にミューはトーゴを喰らうことに成功した。もぐもぐと小動物のように咀嚼し、嚥下する。
「……まじゅい」
「ぶ、せっかく頑張ったのにお前……くくく」
「よく考えたら生肉だもん……」
そんな元も子もない言い方をされると、なんだか可笑しくて堪らない。トーゴはくつくつと笑い、ミューも「笑い過ぎだ」とふくれ顔で言いつつもどこか楽しげであった。血肉を喰らい交わした二人は、そんな歪な空間で無邪気に笑いあった。
それを、少し前から目を覚ましてみていたニゴーは、
「……何故でしょう」
美しいですね。と、そう思った。
「お早うございます」
「わ、起きてたんだ、おはようございます」
「……少し前からね、お早うございます」
目を覚ましたニゴーにトーゴが声をかけ、回復の具合や体の調子を尋ねる。人形は回復能力があるわけでは無いので骨折はそのままだが、脳震盪に関しては比較的早くに治ったようだった。トーゴの腕をちらりと見て、それを特に触れることなくニゴーはこれからについて口を開く。
「まず、地下へと向かいましょうか。目的地の部屋はその奥にあります。そこへ到達したならば、あとはいくらでも館の案内役を任されましょう」
「そうですか、地下への扉はどこに?」
「床付きの鉄扉が最奥の部屋に。なので行きがてら一階を見て回る事はできますが、物置のような客間ばかりで得るものはないかと。」
ニゴーの目的地とは地下の研究室の事だ。地下にありつつも地形が段差の様になっており窓を付ければ屋外と夜空が見える故に、そこは研究室兼、主の第二の自室となっていた。実験施術室の近くに置かれている仮眠室は殆ど使われずに、この部屋にある萎びたソファにて眠る主をよく起こしては人間創造の実験に従事したそうだ。
その隅にある古机。ニスは剥げ、脚は折れそうで、簡単な作りの鍵が掛かる引き出し。そこに仕舞われた何かを手にする事こそが今回の副依頼、「謎の館の探査」の最終到達地点だ。
「本格的な家捜しは後回しで構いません。貴方も五年越しの悲願を前にして、まんじりとしている事でしょう」
「……心遣い、感謝します。なんとも頼もしい」
少しだけ表情を笑顔に変えて立ち上がったニゴーと、更に館の奥へ進む。
劣化し塗装や油が剥げ、埃を被って見る影もない絵画や調度品の並ぶ廊下をひたひたと進む。もう五時頃だろうか。この季節では既に日が落ちて暗い。館の中ならばその闇黒も一層だった。ミューの浮かべる橙色の光、基礎魔術に分類され名前のない魔力の明かりがあたりを照らす。斜めにズレた絵画の中の、豪奢で暑そうな格好をした老人の瞳が不気味にこちらを追いかけ、お化け屋敷も強ち冗談じゃないなとトーゴは苦笑った。
「ぃおぉぉおおぉるるるる……きゅるるるおぉぉおお」
「ひっ! もーやだぁ!」
身の毛もよだつ声を捻り出す人形に怯えて悲鳴を上げるミューは、年齢相応、若しくはそれより少し幼い印象のただの女の子だった。きゅっとトーゴのマントの裾を掴み離さず、びくびくと震えながらうつむき歩く様はこんな状況において癒やしである。
ミューがそんなに怯える前にトーゴが人形共を退けることは簡単だったのだが、こうも必死にしがみつかれてはそれを引き剥がして対処に向かうというのも憚られたし、それにこの時少し意地悪であったトーゴは、そんなミューの弱々しい姿というのを見る事に愉悦を見出す嗜虐的な一面をひっそりと見せていたのだった。
「さっきとは大違いだな」
「うぅ〜」
あんなにも楽しげに自分の一番デリケートな精神的患部を弄り回した少女が、面白いくらいに物音に反応して肩をびくつかせるのだから笑ってしまう。その意趣返しをする程性格は悪くないが、正直な話、そんなギャップに満ち満ちた反応をするミューが随分と可愛らしく見え、もう少しだけこの愛らしい小悪魔を眺めているのも悪くないと思ってしまったのだ。
「ほら、倒してくるから離せ」
「は、早くね!」
「はいはい――ふッ」
ドガァン! と凄まじい爆砕音を立てて床をめくれ上がらせ、同時にトーゴがそこから消える。数拍置いてから追いかける様に突風が駆け抜け、ミューが粒の大きい砂や埃から守るように顔を腕で覆うと、
「ただいま」
「……お、おかえり」
また元の位置に、マントをはためかせてミューを礫から庇うトーゴがいたのだった。一瞬も一瞬、消えたと思ったらまたいた。そんな認識しかミューもニゴーも出来なかった。
だがミューは見た。あの右腕が先程とは違う黝い光を放っていた所、そしてトーゴの顔が、ミューでさえぞっとする幽かな笑みを浮かべていた所。
鈍く輝く紅掛鼠の瞳に燃えていたのは、愉悦の劫火だ。一体何に、何故、快楽を見出したのか。
ミューはこの時忘れていた。
トーゴの悪徳の種、「背徳の快感」。
善徳の神ティマエラとまぐわい、急速に成長した悪徳の種により生まれた異常性癖。首を絞め、血を飲み、或いはもっと凄惨にグロテスクで、それでいて情欲的、官能的なその行為。捻じれ曲がった愛の形。
――やってはならない事を行うという快楽への、抗い難い衝動と情動。
トーゴは人を殺したくなかった。三十四年前の出来事は勿論、モラルや倫理観がそれを忌避させ、誰かの全てを殺し奪うという事の重大さがストップをかけた。そして悪に準ずる行為を重ねる事で大きくなる「悪徳の種」と、その種子の成長に伴って消えていく罪悪感や善性の一部、自分の心。それが怖くて人を殺せなかった。
だがトーゴは、自分を見つけてしまった。
愛を成し遂げる覚悟をし、人外となる事も受け容れ、誰かの想いに応えようとする、確かな自分を見つけた。見つけてしまった。
その揺らぐことない心と消えることない魂が、殺す恐怖という重く冷たい枷を取り外し、そして遂に。
遂に、欲望のままに、快楽の突き動かすままに、トーゴは誰かを殺害した。
「おにーさん……ちょっとこっち向いて」
「ん、どうした?」
「……………………っは…………」
ミューは魅入られた。その魔眼に惹き込まれた。何が殺す事にはまだ慣れない、だ。いや確かに慣れてはいないのだろう、だが同時に彼は辛くもないと言っていた。ティマエラへの想いが、ミューの想いが、トーゴの背徳衝動への抵抗を削ぎ落としてしまった。
外道の悦楽に酩酊する、彼の笑顔と瞳はまさに。
「悪徳の神、だ」
「……いきなり何だ?」
「…………いや、神様級に強すぎぃと思って」
「んな大袈裟な、援護かけまくったらあれくらいの速度は出る。」
「ふふ、そっか。でもおにーさんは援護無しじゃん」
「ズルいよな、全く」
「ホントね。」
「ああそうだ、自分に援護を掛けておけ」
「ん。『風よ』、『意志よ』、『月よ』、『炎よ』、『白亜よ』」
順に身体加速、五感鋭敏化、一時的魔力量増幅、体力量増幅、衝撃反射の魔術。
ここまで重ねがけ出来るとはとトーゴは素直に驚き、賞賛した。張り切っているのかもしれないが、それでも目を瞠る程の実力があるのは確かである。凄まじい威力を誇る第十三位階水属性魔術、ヴォーダ・ボーカを一日に二発放てる魔力量が「月よ」で更に増幅されている。しかしこれは一時間は魔力量が爆発的に上昇する代わりに、効果が切れればリバウンド、つまり激しい倦怠感と目眩に襲われる魔術だ。つまり一時間以内に片をつけろと言われているのか、それは無茶ではないかとトーゴが尋ねると、
「んーん。あたしこれ使ってもリバウンド無いの、魔力ごっそり減るけどね。ハーフエルフの特権てやつかな」
と驚きの答えが返ってきたのだった。
「エルフはそこがズルいな」
「えへへー、確かに」
エルフ、ハイエルフ、ハーフエルフは魔力操作に長けた種族である。ダークエルフはまた別だ。この三種は身体能力は人のそれに著しく劣るが、稀に魔力、魔術に関する特殊な才能や体質を持って生まれる者が居る。そしてその優れた魔力操作や特異な才を駆使して、時には魔導学の発展に多大なる貢献をし、時には基礎、援護の魔術までもを組み合わせ、犀利かつ狡猾に戦闘を行う。そんな種族としての特色が思わぬ所で発揮されたらしい。つまりミューは、魔術に関しては大きなアドバンテージを持っているわけだ。
「だがごっそり減るならまずいんじゃないか?」
「その為に他のだよ。三時間くらい持つから自衛くらいならだいじょーぶ」
「……お前、さては凄いな?」
「うむ。えへ。」
しかし攻撃力やその方法に乏しいのは否めない。そこはトーゴや他の前衛職のカバーが必要な所だ。適材適所、ミューと二人のこのパーティーもなかなかどうしてバランスが良い。そしてミューが何故このタイミングで自分に「月よ」含む援護魔術をこんなにも重ねがけしたのかと言うと、先程のトーゴの動きを見て、援護は必要ないなと思ったからだそうだ。ならば戦闘時の動きに慣れておきたいと考え、ミューは自分の機動力を上げることを優先した。賢いことだとトーゴは感心する。伊達に基礎魔導学校を飛び級で卒業していないミューであった。
真っ暗に続く長い廊下の一番奥、マホガニー材の扉を開け、室内を照らす。そこはこの廃屋となった屋敷において一際異様に殺風景で、その中央床に据えられた錆び切った床付きの鉄扉が怪奇な存在感を主張していた。
「ここです」
ニゴーは無表情のまま、鉄扉に手をかける。ノブに手をかければ錆がぼろぼろと落ちて、気味の悪い音を立てて開かれたそこから分厚い埃の壁が立ち上がる。黴臭く苦い空気が鼻をつくが、鬱陶しいとばかりにトーゴが足を軽く踏み鳴らし、それだけでぶわりと淀む空気を吹き飛ばした。
真っ暗な細い階段に光が射し込む。面積の小さく段差の激しい石造り。それはコンクリートにも似ていて、蛍光灯でもあれば現代のそれと見間違えたかもしれない。
慎重に降りていく。
「こ、怖……」
「確かに、これは怖いな」
くつくつと笑うトーゴだが、並の大人でも及び腰になる光景がそこにあった。
暗い地下は丁寧な石造りの床や天井に設置されたガスランプのせいか、廃病院のような雰囲気を醸し出している。或いはこの場所で人体実験が行われていたといういわくがそれを想起させるのか。当然ランプには灯りが点っておらず、ミューの浮かべる魔力光だけが周囲三、四メートルほどの石壁の染みを浮かび上がらせ、それが人の顔のように見えた。
ニゴーが事前に書いていた地図を取り出した。縮尺まで記された現代のものに程近い細密なもので、それを見れば地下室は案外に大きかった。下手すれば上の館よりも広く、天井は高く部屋も多い。その全てを余さず利用して実験に励んでいたそうだ。
二つの巨大な「素体安置所」、それに劣らない面積を持つ五つの「資料室」、人間創造、人体蘇生の秘術を繰り返した「実験施術室」、最終目的地である「研究室」、あとは仮眠室、シャワールームなど。
「ここは広いです、何があるかわかりません」
目的の研究室は奥から二番目に位置する。そこまでの道のりを最短ルートで進むのならば資料室、実験施術室、素体安置所の前を抜けていく事になる。それでもそこそこの道のりであり、実験施術だとか素体安置だとか言う不穏な名の付いた部屋の前を通らねばならない事に辟易とするのは仕方無いだろう。
トーゴは痛覚含む余計な感覚までも遮断し、五感を限界まで研ぎ澄ます。ミューの心臓の音まではっきりと聞こえる。ニゴーからは、何も聞こえない。呼吸も、心臓が鳴っていない。この人形は人では無い、そう再認識した瞬間だった。
嗅覚は地下の籠った臭いとミューの薄れた煙草の香り、それと少女特有の芳香が邪魔をしてあまり頼りにならないかと思われた。代謝のない人形共は臭いが薄いために嗅ぎ取って探知するのも一苦労だ。だが、そんな環境でも容易に嗅ぎ取れる、胸糞の悪い異臭がした。
内臓と脂と血の饐えた臭いと、アルコールに似た独特の清涼臭。粘液状の何かが蠢動するような気配と音もする。
不要な「部品」……つまりは人体の一部。それをどうしたかなんて考えたく無い。
資料室へ向かう。三メートルはあろう錆色の鉄扉が、廊下を挟んで五つ。饐えた臭いはまさにこの中からだった。ミューが薬草の葉巻をくれとせがみ、それを横目にニゴーが扉に手をかける。「資料室之一」と書かれたプレートのある扉だ。ぎ、と音がして埃が足元から舞う。ミューが顔の前でぱたぱたと手を扇ぎ、部屋を覗き込もうとする。
「おっ邪魔しま――」
「伏せろッ!!」
その瞬間トーゴが叫んだ。ニゴーを地面に引きずり倒し、ミューの肩を掴んでしゃがませる。同時に凄まじい破壊を表す鈍い音が前後に突き刺さる。ニゴーの胸があった辺りを抉る様に、部屋の中から扉を貫いていた触手があった。それは背後の「資料室之ニ」の扉まで砕いても尚勢いは止まらず、深く部屋に入り込んでいた。
「なに、これ……」
触手は赤煉瓦色の悍ましい色合いをしていた。脈動し躍動する表皮がてらてらとガスランプの光を反射する。人の目や口、手や足の指がまるで趣味の悪いオブジェの如く規則正しく螺旋状に取り付けられている。これを作った者が、如何に人を弄んだかが良く分かる出来の「作品」がそこに居た。
表皮にある口、舌をだらりと垂らした白い歯の不気味な一つが喋った。と言うより、鳴いた。
「り、りりりりりり……りりりりりりりりりり」
「ひっ」
最早人の声ではなかった。肉が震え、舌が引き締まり、ようやっと絞り出された壊れた弦楽器の様な低い音。全身が粟立ち、悪寒が駆け抜ける。
「……主よ……貴方は、一体何を……」
「まだ居る」
トーゴがそう言ったその刹那、触手の入り込んだ「資料室之ニ」からも何者かの気配がした。それが数十キロはあるだろう重い扉をいとも容易く殴り飛ばし、触手ごと巻き込んでトーゴ達に打ち据えられる。咄嗟に二人を庇ったトーゴが背中越しに見たのは触手では無かったが、やはりその見てくれは限りなく下劣で、臓腑まで腐りきった感性の持ち主がきっと笑いながら作ったのだろう出来栄えだった。
顔が四つ、腕は八つ、阿修羅のように。下半身はケンタウロスを模すように、四つん這いの人間が三人横に並んで接合されていた。その全てが色の悪い継ぎ接ぎで、四つの顔には口しか無かった。二つの顎を上下左右で組み合わせたような、大きく歪な口。太い腕、見れば一本一本が、複数の腕を束ねて纏められていた。その先端にも手は無く、肘から上を砕いて捻った様に歪な形の肉槍があった。黄ばんだ骨が三、四本程も突き出して、それは鋭く尖っている。
「「「「ぃぁあああぁぁぁぁぁっ、らあああぁぁぁあぃぃいいぃぁぁぁ。」」」」
そして、女の高い声で歌うように鳴いた。この世で最も耳障りな、四重奏とも呼べない不協和音である。
「おにーさぁん……」
「了解。」
耳を塞ぐミューに頷き、トーゴの腕がまた光る。最初、出来立ての頃にミューに見せたものとは違う黝くドロリとした光。誰でも分かる、あれは恐ろしいものだと。
「【未だ燻る異香】。」
背中に背負うクレイモアが弾かれたように飛び出してぐにゃりと形を変え、トーゴの腕にガントレットのように纏わりついた。謎の文字がびっしりと掘られ、くすんだ真鍮はすべて見たことも無い銀色となり、指先は凶悪なほどに尖り伸びている。美しい造形のそれだが、鳥肌の立つような鈍色が全く以って芸術的価値を損ねていた。
ガントレットを突き出し、暗い燐光が一層強くなる。ゆっくりと生き物のようにうねる光が掘られた文字にまで届き、そして溝へ流れ込んだ。流動性発光体、その輝きはかつて見たことも無く神々しく――そして禍々しい。
「ハジメテなんだ、下手くそでも許せよ」
トーゴが阿修羅型の怪物に触れ、ずぐり、と腕を潜り込ませてゆく。ミューは、抵抗しないのは何故だろうかと疑問に思ったが何のことはない、通路に蔓延る暗闇から数十の腕が生えて怪物を捕らえていたと、それだけだ。全てが漆黒の影で形どられた、関節が滅茶苦茶で、指の数は曖昧で、ギチギチと笑い声のする腕が。
「「「「おおぉあっ、きぃいぃやあああ……っくああァァァァアアア!!!」」」」
体内から光が漏れ出し、びくびくと身体を跳ねさせ捩らせる怪物。その姿はいっそ哀れであり、だが単純に嫌悪感が凄まじく湧き立った。やがて身体にある穴や断裂の全てから蒼い血のような何かを流し、その怪物は大人しくなる。トーゴが腕を引き抜くとそこにはガントレットは無く、ただ幾何学模様を張り付けたトーゴの腕があるだけだった。
「「「「……おおぉあああぁァァアアア!!」」」」
「静かに、ミューが嫌がる。」
「「「「――――」」」」
心底楽しそうに人差し指を口に当てれば、怪物がトーゴに服従する。ニゴーは一体何を見せられているのだろうという気持ちで一杯だった。こんな怪物が何故館にいるのか。彼はクレイモアに、あの怪物に何をしたのか。影から生えるあの腕は何なのか。彼は何者なのか。
「「「「……ぎ……」」」」
怪物は油の切れた機械のような動きでトーゴ達から注意を背け、そしてその対象をもう一体の触手型の怪物へと移した。影の腕は全て拘束を解き、「バイバイ」若しくは「行ってらっしゃい」とゆらゆら揺れている。
二体の怪物が静寂と異臭の中で睨み合い、戦闘の熱気がふつふつと高まって行く。
「――踊れ喜劇人形、幕を斬り裂け。」
その言葉を皮切りに、何十人かで作られたたった二体の怪物の激突が開始される。人の形を所々に残す彼らは意思を持って怒っているかのように殴り合い、刺し合った。それはまるで、出来損ないの人形劇。まっしぐらにバッドエンドだ。
打撃音と破砕音と、骨肉の砕ける音だけが響き渡る暗い廊下。少し離れたところでトーゴ達はそれを見守り、ミューはふとトーゴに尋ねた。
「あの手、操れるの?」
「勿論」
影でできた腕がにゅっと出現し、可愛らしくピースの形を取った。
じぃっとそれを見つめたミューがポツリと零す。
「……えっちのとき凄い役立ちそう」
「何言ってんだお前」
申し訳ない、体調がなかなか回復せず、次回更新も遅れそうです……。




