Incrocio
――――――――――――――・・・・。
――――――――――――――・・・・私は・・。
――――――――――――――・・・・どうなったの・・?
自問自答をする私。
目の前に広がる闇。
問いかけても。
何も返ってこない。
―――――――――――――・・・・・ここは・・?
辺りには何一つ見当たらない。
上下左右何処を見渡しても。
闇。
暗闇。
闇。
闇。
闇。
――――――――――――・・・!!!
――――――――――――いやッ・・・・!!
――――――――――――見えない。
――――――――――――何も。
――――――――――――見えない。
―――――――――――――いやだ。
――――――――――――いやだっ!
――――――――――――いやだ。
――――――――――――暗いのはイヤだ。
――――――――――――暗い。
暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い。
暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い暗い。
暗い暗い暗い暗い暗い暗い。
暗い暗い暗い暗い。
暗い暗い暗い。
暗い暗い。
闇。
何かが微かに聞こえる。
これは・・・。
悲鳴?
でも。
何かがそこにある。
全身を恐怖で染め上げる。
何かが。
「いやぁああああぁあああぁあぁぁぁっぁああああああああああああっ!!!!」
――――――――――――――――――――――。
そこで意識は途切れた。
うっすらと視界が開ける。
光が。
見える。
その光は。
やがて辺りの闇を払い尽くした。
「ぅあぁっ!!!」
一室に少女の悲鳴が響き渡り、少女はその場から跳ね起きた。
意識がはっきりするにつれ、周囲の様子が次第にはっきりと映し出される。
――――――――――――――――――――――――。
閑散とした一室。
部屋の中は少し薄暗いが、窓から柔らかな日差しが差し込んでいる。
部屋の奥にポツリと開いたままの扉。
扉の奥に不気味に広がる薄暗い空間。
そして、自分が腰を下ろしているベッドと、部屋の中央にポツンと置かれた円形のテーブルが見当たるくらいだ。
「ぁ・・・・はぁ・・・はぁ・・・っ!!」
少女は額から汗を滲ませ、息も絶え絶えで、今にも張り裂けそうな心臓の鼓動を落ち着かせようと、左胸を手で押さえ、必死に堪えている。
――――――――――――――ドクン・・・・ドクン・・・・・ドクン。
――――――――――――――ドクン・・・・ドクン。
――――――――――――――ドクン・・・。
少女の額からこぼれ落ちた汗の雫がベッドのシーツにぽつりと落ちて、独特の模様が浮かび上がる。
「はぁ・・・はぁ・・・・はぁ・・・。」
しばらくの間、少女は縮こまったまま、その鼓動が治まるのをじっと待ち続けていた。
「・・・はぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふぅ。」
時が流れ、先ほどまで激しく脈打っていた鼓動が治まると、ほっとしたように少女はその場で大きく深呼吸をした。
「・・・・・・・・・・・・・。」
そして、平静を取り戻した少女はゆっくりと辺りを見渡した。
見覚えの無い部屋。
目の前にポツリと置かれたテーブル。
そして、自分が腰掛けているベッド。
やはりそれ以外何も見当たらない。
「・・・・・・?・・・・ここ・・・は・・・・?」
誰もいない部屋で少女はポツリと呟いた。
当然、その言葉に返事が帰ってくることは無く。
少女は戸惑いの色を隠せないでいた。
そして、そうして少女が困惑しているうちに、次第に脳裏に昨日の出来事が蘇ってきた。
けたたましい銃声。
響き渡る男達の悲鳴。
何かが壊されるような激しい物音。
そして屋敷にある自分が隠れていた部屋のイメージ。
「あっ・・・・・・・・・・・・。」
少女は頭の中で記憶を整理しようと瞳を閉じ、意識をそれに集中する。
ゆっくりと開く扉の軋む音。
自分の隠れるクローゼットへと近づいてくる足音。
急激に早まる心臓の鼓動。
少女はまるで、昨日のあの場所にいるかのような錯覚に陥っていた。
・・・・・・・ドックン。
ダメだ。
・・・・・・・ドックン。
来る。
・・・・・・・ドクン。
見つかる。
・・・・・・ドックン・・・・・ドクン。
どうしよう。
ドクッ。
殺される。
ドクッ・・・・・・・ドクッ・・・・・・・ドクッ・・ドクドクドクッ。
来る。
来る。
来る。
来る。
来た。
―――――――――――――――――――――――――――――。
そこで、イメージは途切れた。
一瞬にして少女は再び目の前の現実に引き戻される。
「・・・・・・・・・。」
だが、少女を取り巻く恐怖は一向に治まる気配がなかった。
・・・・・ドクンッ・・・・・ドクンッ・・・・・ドクンッ。
激しく脈打つ、心臓の鼓動が何よりの証拠だった。
「・・・・目が覚めたか・・?」
そんな時、不意に扉の奥の暗闇から若い男の声が聞こえた。
「!!・・・ぅぁ!!!」
突然の声に少女は思わず両手でベッドの布団を引き寄せ、身を隠した。
コツ・・・コツ・・・コツ・・。
聞き覚えのある床を叩く靴の音。
布団の隙間から見える、扉の奥に広がる深い暗闇。
全身が震え経つような恐怖。
コツ・・・コツ・・・コツ・・。
次第に足音は近づき。
うっすらと差し込む日の光がその正体を映し出す。
そして暗闇からあの青年の姿が現れた。
自分を見つけた。
あの。
青年が。
「ぁあっ・・・・あぁ・・・・・・・!!」
少女は布団の隙間から見えるその姿を見るやいなや、全身が恐怖で震え上がった。
そう。
昨夜、突然屋敷の中に押し入り、自分を殺そうとした連中の一人だ。
「あぁ・・・・うわぁ・・うぅ・・・・・・ひぃっ・・・!」
少女は布団の中に完全に体を引っ込め、ベッドが揺れるほどガタガタと震え出した。
青年はその少女の様子を見ると、すぐに近づくのを止め、その場で立ち止まった。
「怖がらなくていい。・・・・・・悪いな。」
「・・・・・・・・・・。」
少女は布団のわずかな隙間から怯えきった目で青年を見つめている。
そして、青年と目があった瞬間、少女は再び布団に完全に包まり、縮こまってしまった。
「・・・・・・・・。」
青年はその様子を黙って見つめている。
そして、しばらくして青年はゆっくりと口を開いた。
「・・・そうだよな、昨日まで自分を殺そうとしていた奴が目の前に現れれば普通怖がるよな・・。・・・まぁ・・・いきなり慣れろなんて言わない。」
「・・・・・。」
少女は震えたまま、反応をしなかった。
その様子を見て少年は軽く溜息をつき、話を続けた。
「信じろとは言わないが・・・・俺はもう君を殺そうとは思っていない。」
「・・・・・。」
青年のその言葉を聞いて、少女の震えがピタリと止んだ。
「・・・・俺は仕事としてあの屋敷に踏み込んだ。それなのに・・・・任務を放棄するばかりか、仲間を裏切り、あの場から逃げおおせた今となっては俺にはもう君を殺す理由がない。」
「・・・・・・。」
「・・・・とにかく俺が言いたいこと君には危害を加えないってことだ。」
「・・・・・・。」
「・・・腹減ってるだろ?・・・今食事を持ってくるから待っててくれ。」
青年はそういうとベッドに背を向け、再び扉の奥の薄暗い暗闇の中へと消えていった。
少女はその様子をしばらく布団の隙間からのぞいていたが、青年の姿が完全に消えたのを確認するとゆっくりと布団の中から顔を出した。
青年が去ったその部屋はしんと静まり返っている。
―――――――一体なんだったんだろう?
―――――――昨日会ったときとはなんだか雰囲気が違う。
―――――――あんまり怖そうな感じじゃなかったな・・・。
―――――――“もう君には危害を加えない”・・・?
―――――――どういうことだろう?
―――――――仕事でって・・・・どういうことなんだろう?
―――――――わからない。
―――――――・・・でもはっきりしてるのは。
―――――――今は殺されたりする心配は無いって事なのかな?
―――――――でも・・・やっぱりまだ怖い。
―――――――まだ信用はできない。
―――――――・・・・・でも、ちょっとだけ事情を聞いてからでも大丈夫かな・・・?
―――――――なんて・・・考える必要もないよね。
―――――――・・・・・どっちにしたって私には。
―――――――生きることへの希望も。
―――――――帰る家も。
―――――――当の昔に失ったのだから。
「・・・・・・よし・・・・。」
少女は頭の中でいったん考えを巡らせ、青年の話を聞くという結論に達すると、一度自分の頬をパチっと手のひらで叩き、喝を入れた。
「よっと・・・。」
少女はゆっくりとベッドから床に足を下ろすと、青年が配慮して置いてくれたのか、床に綺麗にそろえてあった自分の靴を履いた。
少女はゆっくりと部屋の中心に置いてあるテーブルのところに歩み寄り、そこで立ち止まると、しばらくの間、立ったまま扉の向こうの暗闇をじっと見つめ、青年の姿が現れるのをじっと待ち続けた。
しばらくしてから、扉の奥の暗闇からゆっくりと靴が床を叩く音が聞こえてきた。
・・・・コツ・・・・コツ・・・・コツ・・・。
だんだんとその音が大きくなっていく。
・・・・コツ・・・・コツ・・・・コツ・・・。
「・・・・・・・・・。」
少女はゴクリと息を呑み、全身に自然と力が入った。
・・・・コツ・・・・コツ・・・・コツ・・・。
・・・・コツ・・・・コツ・・・・コツ・・・。
・・・・コツ・・・・コツ・・・・コツ・・・。
そして、少ししてゆっくりと少女の前に青年が姿を現した。
「・・・・・・・!」
先ほどは会ったときは、布団の隙間からわずかに見える姿しか確認できていなかったので、自分の前に現れた青年の容姿に、少女は少なからず驚いた。
その青年の姿は自分と同い年か、ちょっと年上程度にしか見えず、茶色の髪にグレーの瞳をしていて、服装は街中で同世代の青年達が着ているようなごく普通のものにしか見えない。
それは、少女が屋敷で見た恐ろしいほどの殺気を放っていた、その青年のイメージとはかけ離れていた。
「・・・あ・・・・・えと・・・・・・。」
少女はあまりに予想外の展開に戸惑い、咄嗟に視線を床に落とし、手を後ろの回して組むとその場でオロオロとし始めた。
「・・・・食事を持ってきた。・・・・急だったからあんまりたいした物じゃないんだけどな・・・。」
青年はそう言って、両手に持っていた膳を置こうと、テーブルに近づいた。
「・・・!」
少女は青年が近づいてくるや否や、咄嗟にテーブルから二歩下がる。
「・・・・・。」
青年はテーブルに近づきながら、その様子を見て黙って苦笑した。
カチャ。
青年は両手で持っていた膳をテーブルの上にゆっくりと置いた。
膳の上には、淡い黄色のスープとトーストが2枚、それからジャムと牛乳の入ったコップが置いてある。
「・・・・・後で買出しに言ってくるから、その時まで悪いがこれで辛抱してくれ。」
青年はそういうと、ゆっくりとテーブルから二歩後ろに下がった。
「・・・・・・・・・・。」
少女はチラチラと青年に視線を送ってはいるがまだ怯えた様子だった。
「・・・・名前は?」
青年は唐突に少女に質問した。
「・・・えっ?」
少女はその質問を聞いて、青年を見つめながらキョトンとした様子で聞き返す。
「・・・・名前だよ・・・名前。・・・ない、って訳じゃないだろ?」
「・・・あ・・・・・え・・えと・・・・・エ、・・・エミ・・。」
少女は、少年の言葉に合点した様子で口元をもごもごと動かす。
「・・ん?」
少年は耳に手を当てて聞こえないとポーズする。
「あ、・・えっと・・・・・・・エミリア・・・・・・・・エミリア・クローチェ・・・。」
少女は必死で緊張と恐怖を払いながら、ポツリと呟いた。
「エミリア・・・だな?」
青年が聞き返すと、少女はコクリと頷いた。
「よし・・・・・・・それじゃあ俺の番だな。・・・俺の名前はアルバート・・・・・・・アルバート・クライストだ。・・・・呼ぶときは“アルバート”でいい。・・・・よろしく。」
「・・・あ・・・えっと・・・その・・・・・・・・・よ、よろしく。」
エミリアはぎこちない様子で軽く会釈した。
「それにしても、“クライスト”に・・・・“クローチェ”か・・・因果なもんだな。」
「・・・え?」
エミリアは不思議そうに聞き返す。
「ああ・・いや。別に大した事じゃない。」
「・・・・・・・。」
「・・・それじゃあ自己紹介もすんだ事だし、本題に入るとするか。」
「・・・・・・。」
エミリアはその言葉を聞いてゴクリと息を呑んだ。
「・・・そう身構えなくていい。・・・ただちょっと今いる現状だけでも説明しようと思ってさ。」
「・・・・現・・・・状?」
エミリアは恐る恐る聞き返す。
「ああ・・。・・・エミリアは・・・今自分が何処にいるかわかるか?」
「・・・・。」
エミリアは少しうつむいたまま小さく首を振る。
「・・だろうな。・・・なんせ今日のあの時間からずっと気絶しっぱなしだったからな。・・・・ここは、ナポリのすぐ近くにある丘の上の小屋の中さ。」
「・・・ナポリ・・・?・・・・え・・だって・・・屋敷はローマに・・・。」
エミリアはその言葉を聞いて困惑した。
普通の人間なら当然の反応だった。
なんせローマにあったあの屋敷からナポリまでは少なく見積もっても100kmはくだらない。
その上屋敷付近の地域は都心から離れてるため、めったにタクシーやバスも止まらない。
第一、気絶した少女を抱えたままそんなものに乗って移動などできるはずが無い。
なのに、青年は何事も無かったようにそうサラッと言った。
「・・・え・・・あの・・・・どうやってそんな短い時間に・・・。」
エミリアはそのことが不可解でならない様子で聞き返す。
「どうって・・・そりゃ普通に抱えたまま走ってきたのさ。」
アルバートは平然と言い切った。
「・・・?・・・え?」
エミリアはその言葉を聞いて余計に混乱する。
この男の子は何を言ってるんだろう・・?
自分の言ってることがわかってるのかな・・・?
オリンピックの選手だって100kmをそんな短時間で走れるはず無いのに。
ましては、人を抱えたままなんてもっと無理だよ・・。
「・・・・・・・。」
エミリアは半信半疑でアルバートの方を黙って見ている。
「あ・・・なるほど。・・・そうか・・・そうだよな。・・・・ま、・・・そりゃそうか・・・。」
アルバートは“あっそうか”と納得するように苦笑して頷いた。
「・・・・??」
エミリアはアルバートの様子を見て、首を傾げるしかなかった。
「・・まぁ・・アレだ。・・・俺はちょっと体力には自信があってね・・・。」
「・・・そういう・・・・レベルの話でしょうか・・・・・・?」
「ああ。・・・そういうレベルの話さ。」
「・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
数十秒ほど沈黙が流れる。
アルバートは少し困った様子で、頭を掻いた。
そして、無理やり沈黙を破ろうと話を続けた。
「・・ま、そんなことはどうでもいいから置いといて・・・。」
「・・・・・・。」
エミリアは、(全然良くないような・・・)、と思ったがそれは口には出さなかった。
「急かもしれないが・・・俺はちょっと町まで買出しに言ってくる。」
「・・・買出し?」
「ああ。・・・実は、君をそこに寝かせたあと街に買出しに行ってきたんだが、ちょっと考え事してて結構買い忘れた物があってね。・・食料は、そこに出てるので全部なんだ。・・・だから食料の買出しに行かないといけない。」
「・・・・・そう・・・ですか。」
エミリアは視線を床に落とし、急に目を泳がせた。
「・・・どうした?」
「あ・・・いえ・・・・・・・なんでもありません。」
エミリアは視線を合わせずに、手遊びをしながら答える。
「逃げるか?」
「!」
エミリアは核心を突かれたのか、その言葉にビクリと体が震える。
「そんなに驚くことでもないだろ?・・・普通なら誰でも一度は考えることだと思うけどな。」
「・・・・・・・・。」
エミリアは困惑の表情を浮かべ、アルバートに視線をチラチラと合わせては逸らしている。
「そう動揺しなくてもいい。・・・・俺が買出しから戻ってくるまで・・・・二つ選択肢を君にやる。」
「選・・・・択肢・・?」
「ああ。・・・・ひとつはここから逃げ出すこと。・・・・そしてもうひとつは、騒動が治まるまでしばらくの間、俺と行動を共にする。・・・・その二つだ。」
「え・・・・・・・。」
「・・・・ゆっくり考えるがいいさ。・・・俺は買出しで夕方まで帰らない。・・・・その間に君が逃げても、俺は止めないし追いかけようともしない。」
「・・・・・・・・なぜですか?」
「・・さっき言ったろ?・・・もう俺には君を殺す理由も無いし、追う理由もほとんど無い。」
「・・・・・・。」
エミリアは“ほとんど”というアルバートの言葉に少し疑問が湧いたが、口にはしなかった。
「ただ・・・・ひとつだけ忠告しておく。」
「・・・・・・・?」
「君が・・・・・エミリアがどちらの選択肢を選ぼうとも、その先に待っているのは厳しい現実だ。・・・それはどちらの選択肢を選ぼうと変わりは無い。」
「・・・・・・。」
その言葉に、エミリアの表情が少し曇った。
「・・・別に無一文で逃げろとは言わない。」
アルバートはそう言って、テーブルに五枚の紙切れを置いた。
「・・・ここに100ユーロ札が五枚・・・・全部で500ユーロある。・・・逃げるなら、これを持って行け。」
「え・・・・・・。」
エミリアは少し戸惑った様子でアルバートに視線を送る。
「気兼ねする必要は全く無い。最低でもこのくらいは必要だろ?」
「・・・・・・。」
「・・・・まぁ、時間はたっぷりある。・・それまでゆっくり考えればいい。」
「・・・・・・・。」
「・・それじゃあ俺はもう行くからな。」
アルバートはそう言って背を向け、歩き出そうとした。
「あ・・・あの・・。」
エミリアの声に、部屋から出てようとしていたアルバートは足を止めた。
「・・・・・なんだ?」
アルバートは背を向けたまま言う。
「その手・・・どうしたんですか・・・・?」
エミリアはそう言ってアルバートの右手に視線を向けた。
その手の甲には数センチ程度の長方形のガーゼが宛がわれている。
アルバートは少しその場で黙り込み、ゆっくりと一言だけ言った。
「さっき食器を落とした時に破片で切っただけだ・・・なんでもない。」
「・・・・そう・・・ですか・・。」
エミリアはその言葉を聞いて少し考えを巡らせ、そして再び視線をアルバートの背中に向けた。
「・・・それじゃあな。」
アルバートはそう言うと再び歩き出し、扉の向こうの暗闇の中へと消えていった。
・・・・パタンッ。
エミリアは再び静まり返った部屋の中心でポツリと立ち尽くしていた。
それから数十分経ち、じっとただ虚ろな目で虚空を眺めていたエミリアはゆっくりと視線を扉に向けた。
先ほど青年が出て行ったあの扉だ。
「・・・・・・・・。」
エミリアは頭の中で少し考えを巡らせた後、ゆっくりとその扉の前に歩み寄った。
そして、恐る恐る扉の取っ手に手を掛ける。
カチッ・・・・・・・ギィィ・・・・。
ゆっくりと扉を開けると、目の前に薄暗い細い廊下が現れた。
「・・・・・・。」
エミリアはゴクリと息を呑み、少ししてゆっくりと足を前に踏み出す。
・・・ギィ・・・ギィ・・・ギィ・・・・。
一歩、また一歩と歩くたびに、古びた木製の床が軋んで鈍い音を立てる。
エミリアは薄暗い廊下の右側の壁に手を当て、その感触を頼りに壁伝いに進んだ。
二十歩ほど歩いた辺りだろうか。
ふと右手の平に何か突起のあるものが当たり、エミリアは足を止めた。
「・・・?」
エミリアは不思議そうにその突起物を、目を凝らして見つめた。
よく見ると、どうやらそれは窓を開けるための取っ手のようで、丁度エミリアの体がスッポリと脱け出せるほどの大きさの、木製の窓らしき物もそこにあった。
「・・・・。」
エミリアはその取っ手に手を掛け、ゆっくりと力を込める。
ギッ。
取っ手が軋んで音を立てる。
だが、古びているのか窓はわずかに動いただけで開くには至らない。
「ッ!・・・・・・・・・・・んっ!」
取っ手を握る手にさらに力を込める。
ギィ・・・・バカンッ!
「わっ!」
古びたその窓は音を立てて勢いよく開いた。
窓から入り込んできた強烈な日光が薄暗い廊下を照らし出し、それと同時にエミリアの眼前で埃が舞い上がる。
「ッ!・・・ゲホッ!・・・・ケホッ!」
エミリアは左手で口を押さえ噎せながら、舞い上がる埃を右手でパタパタと払った。
そして少しして、埃を払い終えエミリアは窓の外に身を乗り出した。
―――――――――――――――――――――――――――――。
そこには青々とした草が生い茂る草むらが。
地平線に広がる青い海と港町を背景に広がっていた。
「うわ・・ぁ・・・・・・。」
エミリアは目をまんまるに見開いて息を呑んだ。
――――――――――――――サァ・・・。
窓から入ってきた心地良い風がエミリアの髪を撫で、草木がいっせい風に揺られ、大きな三日月形をした曲線の波を描く。
「キレイ・・・・。」
無意識にそんな言葉が漏れた。
どうやら、この小屋は港町から少し離れた小高い丘の上に位置しているようで、海と街の両方の様子が一望できる。
草むらの中央には小さな小道が走り、それは眼下に広がる港町に続いているようだった。
「・・・・・・。」
エミリアは黙ったままそれをゆっくりと目で追っていく。
「・・・・・・あっ。」
小道をしばらく道なりにずっと目で追っていくと、遠くに微かだがあの青年の後姿が見えた。
遠くでよく見えないが、青年の後姿は何処かさびしそうにゆらゆらと揺れている。
「・・・・・・。」
エミリアはその微かに見える青年の背中をじっと見つめていた。
しばらくして青年の姿は完全に見えなくなった。
「・・・・・。」
それを確認したエミリアは窓からゆっくりと体を引っ込めた。
「・・・・・・・・。」
光が差し込み、照らし出された廊下を改めて見渡す。
その廊下は、先ほどの軋み方から想像していた通りかなり古い物で、空中に舞う埃が日光に反射してキラキラと輝いていた。
この窓から、さっきの部屋までの通路には特に物らしい物もなく、奥に先ほどまで自分が寝ていた部屋の扉があるだけだった。
そして反対側の、丁度さっきあの青年が進んで行った廊下の奥には玄関らしき扉が見える。
「・・・・・。」
エミリアはその玄関の方角を黙ったまま少し見つめた。
そして、ふと視線を左に向けると、エミリアが先ほど開けた窓と丁度廊下を挟んで反対側に古びた扉があった。
廊下が薄暗かったせいか、今までエミリアはその扉の存在に気づかなかった。
「・・・・・・?」
エミリアは不思議そうな表情を浮かべ、その扉の取っ手に手を掛け、それをゆっくりと回す。
カチャ・・・。
取っ手を握る手には、鍵がかかっているような手ごたえも抵抗もなく、小さく取っ手が回る音だけがした。
「・・・・・・・・・・開いてる・・。」
開いてることが分かるや否や、わずかながら好奇心が湧き上がってきた。
「・・・・・・。」
エミリアはその場で少し考え込んだあと、決断するとゴクリと息を呑み、ゆっくりと扉を押した。
・・・・ギィ・・・。
ゆっくりと扉が音を立てて開き、目の前にこぢんまりとした部屋が姿を現した。
その部屋は先ほどまでいた自分の部屋より大分狭い感じで、左奥にベッド、それから奥の窓際に引き出し付きのテーブルが配置されている。
「・・・ここが・・・アルバートさんの部屋・・・・なの・・かな?」
エミリアはそう言って周囲をぐるりと見渡した。
――――。
「・・ん?」
その時、窓際のテーブルの上で何かが光った。
「・・・・・・?」
エミリアは何だろうと思い、ゆっくりとテーブルの前に歩み寄る。
そのテーブルの上にはピンセットと小さな木製の救急箱、それから小さく鋭利な形をした透明な破片が三つ置いてあった。
「・・・・この破片は・・・ガラス・・・?」
エミリアはそう呟き、その破片を取って手のひらにのせた。
(・・・・なんで・・こんなものが・・・テーブルに置いてあるんだろう・・・?)
エミリアはその破片を手のひらの上で転がしながら観察しはじめた。
「・・・あ・・・・!」
・・・カツンッ!・・・・コロコロ・・・。
手のひらの上からその破片が床にこぼれ落ちて転がり、エミリアの足元で止まった。
そのガラスの破片の異変にすぐ気づいたエミリアは、驚いて反射的に破片を床に落としてしまったのだ。
「・・・これ・・・血がついてる・・・。」
エミリアの言ったとおり、そのガラスの破片には拭き取った跡はあるが、僅かに血痕が付いていた。
「・・・・・・!!」
―――――――――――――――――――――――。
急にエミリアの脳裏に何かが浮かび上がる。
―――――――――――――これは・・。
―――――――――――――あの屋敷の。
―――――――――――――私がいた部屋だ・・。
―――――――――私に銃を向け、恐ろしい眼光で見つめる青年の姿。
―――――――――青年が急に床に膝をつき、なにか呟いている。
―――――――――そして入れ替わりで私に近づいてきた少年の姿。
―――――――――口元に不気味に笑みを浮かべ銃口を向ける少年。
―――――――――銃口の奥に広がる深い闇。
―――――――――恐怖で激しく脈打つ心臓の音。
―――――――――そして、銃声。
―――――――――気づくと、少年が腕を押さえながら私の前で膝をついていて。
―――――――――次の瞬間、いきなり青年が私を抱きかかえ。
―――――――――窓に向かって猛然と駆ける。
―――――――――私の頭を覆う青年の手のひらの感触。
―――――――――その直後、ガラスが割れるような大きな音がして。
―――――――――そして、一瞬で私の目の前は闇に満たされた。
―――――――――――あれ?
―――――――――――・・・・ガラス・・・?
―――――――――――ガラス!
「・・・あっ!」
エミリアはハッとして、振り返った。
先ほどまで、自分が身を乗り出して青年の背中を見つめていた。
あの窓の方を。
――――――――――そうだ。
――――――――――理由は分からないけど。
――――――――――あの時。
――――――――――私を助けてくれたのは。
――――――――――・・一度は自分を殺そうとした。
――――――――――あの。
――――――――――彼だったんだ。
「あ・・・・・・・・。」
恐怖、罪悪感。
ちりばめられた様々な感情。
そんなものが入り混じる、言葉では言い表せないような感情が私を支配した。
「・・・・・・・・・・・。」
そしてしばらくの間、少女は何かに躊躇っているかのように表情を曇らせ、その場で立ち尽くしているのだった。