一行の手紙と、桃色の聖女
石畳の坂を上るにつれて、建物の向こうに見えていた尖塔が少しずつ大きくなっていく。
やがて道の先に、白い石造りの教会が姿を現した。
正面には背の高い扉が開かれ、その上にはエシャール様を表す紋章が刻まれている。
扉をくぐると、蝋燭の匂いを含んだ空気が肌を撫でた。
広い礼拝堂には長椅子が並び、その奥にエシャール様の像と祭壇が置かれている。
屋敷の礼拝堂よりもずっと広く、祈りを捧げる小さな声や衣擦れの音が静かに重なっていた。
ここは街の人たちが日々訪れ、暮らしの中にある願いや感謝を捧げる場所なのだろう。
中へ進もうとして、入口で足を止める。
隣にいるルクスを見下ろすと、琥珀色の瞳がこちらを見返した。
「ルクスも入って大丈夫でしょうか?」
「従魔連れの冒険者も来る。暴れなければ問題ない」
ガイルの言葉に頷き、ルクスには入口に近い長椅子の脇で伏せてもらう。
青いマントを畳むように身体を横たえると、周囲を警戒しながら静かに顎を前足へ載せた。
私たちが礼拝堂の中へ進むにつれ、それまで祭壇へ向いていた視線が少しずつこちらへ集まり始めた。
長椅子に座っていた女性が、隣の女性へ顔を寄せて何かを囁いている。
母親と一緒に来ていた子供は、私と瑛太さんの耳を交互に見上げると、私の耳を指差しながら母親の袖を引いた。
「お母さん、あの人たち――」
「こら。指を差してはいけません」
小声で叱られた子供は慌てて手を引っ込めたものの、今度は入口に伏せているルクスへ目を輝かせた。
その視線を追った別の子供まで振り返り、礼拝堂のざわめきが少しずつ広がっていく。
街門でも見られていたけれど、ここまで視線が集まるとは思わなかった。
騒がせるつもりなどなかったのに、入ってきただけで礼拝の邪魔をしているような気がしてしまう。
「気にするな。珍しいだけだ」
瑛太さんが私より半歩前へ出て、正面から向けられていた視線を背中で遮ってくれた。
小さくお礼を言って祭壇へ目を戻すと、白い法衣を着た男性がこちらへ近づいてきていた。
胸元には教会の紋章があり、年齢は四十代ほどに見える。
困惑した様子で周囲を見たあと、男性は私たちへ丁寧に頭を下げ、教会を訪れた理由を尋ねてきた。
聞かれた瞬間、インベントリへ入れてある手紙を思い出す。
書かれていたのは、街に着いたら教会へ顔を出すように、という一行だけだった。
誰を訪ねるのかも、この手紙を誰かへ見せるのかも記されていない。
大勢の人がいる礼拝堂で、エシャール様から直接届いた手紙について話すのは避けた方がよさそうだった。
「今日、初めてクロイティルへ来たので、ご挨拶を兼ねて立ち寄りました」
「礼拝を済ませたら帰るつもりだ」
私と瑛太さんの答えを聞いた男性は、少しだけ首を傾げながらも祭壇へ案内しようとしてくれた。
けれど、その言葉は礼拝堂の奥から響いた声に遮られた。
「これはこれは。随分と珍しいお客様がお越しになったものですな」
祭壇脇の扉から、数人の神官を従えた男性が歩いてくる。
白を基調とした法衣には金糸で細かな模様が刺繍され、首から下げた装飾品も、目の前の司祭が身に着けているものより立派だった。
司祭が「コンラート大司教様」と頭を下げたことで、その男性の立場が分かった。
大司教は穏やかな笑みを浮かべ、エルフの夫婦が訪れたことを歓迎すると口にした。
私たちはまだ夫婦だと名乗っていない。
けれど、彼の視線は私の左手から瑛太さんの指輪へ移っていた。
二人の距離と揃いの指輪を見て判断したのだろう。
私が名乗ると、大司教はどこから来たのかと尋ねてきた。
少し離れた場所だと答えても、エルフの集落から来たのか、クロイティルには何をしに来たのかと質問が続く。
観光と買い物だと伝えれば、今度は滞在期間やガイルを連れている事情にまで話が及んだ。
こちらが答え終えるのを待っているようでいて、一つ答えるたびに次の質問が重ねられる。
穏やかな笑みは変わらないのに、少しずつ逃げ道を塞がれているような息苦しさを覚えた。
「それを話す必要があるのか?」
瑛太さんが声を荒らげることなく、大司教を真っ直ぐに見返した。
問いを止められた相手はわずかに目を細めたものの、すぐに笑みを深くする。
「失礼。長命なるエルフは、女神エシャール様への信仰も深いと聞いております。せっかくこの教会へお越しくださったのですから、我々とも親しくしていただきたいと思っただけですよ」
言葉だけを聞けば、歓迎されているようにも思える。
けれど、その視線は私たち自身ではなく、エルフという珍しさを見ているように感じられた。
さらに大司教は、詳しい話は場所を移して聞くと言い出した。
この教会を預かる者として、身元の分からない者をそのまま帰すわけにはいかないらしい。
瑛太さんが礼拝に来ただけだと断ると、後ろに控えていた神官たちが静かに動いた。
二人が私たちの左右へ分かれ、別の一人は入口へ続く通路の近くに立つ。
帰るなと言われたわけではない。
それでも、すぐに立ち去れる雰囲気ではなくなった。
ガイルもそれを感じ取ったのか、私たちを庇うように一歩前へ出た。
「帰さないつもりか?」
「尋問でも拘束でもありません。私はただ、この教会を預かる者として、確認するべきことを確認しているだけです」
「礼拝へ来た方を取り囲んで問い詰めることが、この教会の歓迎なのですか?」
若い女性の声が、礼拝堂の奥から響いた。
周囲にいた人々が一斉に振り返る。
私も声の方へ顔を向け、そのまま目を奪われた。
腰を大きく越える薄桃色の髪が、歩くたびに柔らかく揺れている。
身にまとっているのは、金の刺繍が施された純白の衣装だった。
長袖は身体へ沿い、裾には深い切れ込みが入っている。
肩から伸びるベールと十字架を模した装飾が、蝋燭の光を受けて淡く輝いていた。
「聖女様だ」
どこかから小さな声が上がる。
先ほど私たちを見ていた子供が、今度は嬉しそうに女性へ手を振った。
周囲の人々も自然に道を空けていく。
その様子だけで、彼女が街の人たちに慕われていることが伝わってきた。
「ロゼリア。今は私が、こちらの方々と話をしているところです」
「話ではなく、一方的な詮索に見えましたけれど」
大司教に呼び捨てにされた女性は、その前まで来るとルビー色の瞳で真っ直ぐに見返した。
それから私と瑛太さん、ガイルへ順番に目を向け、最後に入口で伏せているルクスを確かめる。
私たち全員が揃っていることを確認しているような視線だった。
「この方々には、わたくしが用があります」
初めてこの街を訪れた私たちと知り合いなのかと問われても、聖女は少しも怯まなかった。
これから知り合うのだと言い切り、何か問題でもあるのかと問い返す。
大司教の口元から、わずかに笑みが薄れた。
「聖女の肩書きを、あまり自分の都合で使わぬことです」
「コンラート大司教様こそ、教会の肩書きを私用なさらない方がよろしいのでは?」
二人の間に流れる空気が張り詰める。
周囲にいる人たちもそれを感じ取ったのか、礼拝堂から囁き声が消えていた。
大司教は何も言わず、目の前の聖女を見つめている。
けれど、大勢の人が見ている前で引き止めるつもりはないのか、やがて神官たちへ下がるよう手で示した。
ロゼリア様は私たちへ向き直り、人目のない場所へ案内すると告げた。
瑛太さんはすぐには動かず、私たちを知っているのかと確かめる。
ここでは話せないものの、私たちを待っていたことは事実らしい。
瑛太さんと視線を合わせて頷き、先ほど助けてもらったことへのお礼を伝えた。
けれど、返ってきたのは、礼拝堂が騒がしくなるのを止めただけだという素っ気ない言葉だった。
顔まで逸らされてしまったものの、私たちを待っていたという話と合わせれば、拒まれているわけではなさそうだった。
案内に従って礼拝堂の奥へ向かうと、ルクスも身体を起こして後ろへ続いた。
扉をくぐる前に振り返る。
大司教は先ほどと変わらない笑みを浮かべたまま、こちらを見ていた。
廊下を進み、案内された面談室へ入る。
最後にルクスが通ったところで扉が静かに閉められ、礼拝堂に集まっていた視線からようやく離れることができた。
もう一度お礼を伝えると、ロゼリア様は大司教のやり方が目に余っただけだと答えた。
あのままでは礼拝に来ていた人たちにも迷惑だったのだという。
素っ気ない言葉とは裏腹に、室内には人数分の椅子と飲み物が用意されていた。
床には大きな敷物があり、その横には水の入った器まで置かれている。
ルクスが水の匂いを確かめてから口をつけるのを見て、私たちだけでなく、この子が来ることまで知ったうえで準備してくれていたのだと気づいた。
椅子へ座ったガイルが、この教会に聖女がいるとは聞いていなかったと切り出した。
エシャール様から教えられていたのは、街と教会を巡る大まかな状況だけで、聖女の存在も、誰が大司教を務めているのかも知らなかったらしい。
以前、教会へ行くと話した時にガイルが嫌そうな顔をしていた理由も、そこでようやく分かった。
神へ祈る場所には人も金も集まる。
まともな者もいる一方で、権力を持つ者までまともとは限らないため、相手が分からないうちは警戒していたのだという。
神託を受ける聖女と教会を動かす大司教が対立することも、昔から珍しくはないそうだ。
「随分な言い方ですわね」
ロゼリア様が不機嫌そうに眉を寄せる。
けれど、ガイルから間違っていないだろうと返されると、否定できないのが腹立たしいと小さく息を吐いた。
礼拝堂で見た二人の様子を思い返せば、この教会も例外ではないのだろう。
瑛太さんが話を本題へ戻し、なぜ私たちを待っていたのかと尋ねた。
ロゼリア様は表情を改めて背筋を伸ばすと、数日前にエシャール様から神託を受けたのだと話し始めた。
神託で告げられたのは、銀青色の髪と銀髪を持つエルフの夫婦が、赤髪の護衛と大きな従魔を連れて訪れること。
そして、その者たちを迎えるようにということだけだった。
私たちが何者なのかも、なぜ教会を訪れるのかも聞かされていないという。
「私たちも同じです」
インベントリから折り畳んだ手紙を取り出し、ロゼリア様へ差し出す。
受け取った手紙を開いた彼女は、一行だけの文章へ目を通した。
それから羊皮紙の表面を指先でなぞり、少しだけ目を細める。
「本当に、これだけですのね……」
「はい。誰を訪ねればいいのかも、何を話せばいいのかも書かれていませんでした」
ロゼリア様への神託も、私たちの手紙と同じように肝心なことが抜けている。
もう少し詳しく説明してくださってもよいのではないかと言われ、思わず頷いた。
同じことを考えていたのが私だけではないと分かり、張り詰めていた気持ちがほんの少しだけ緩んだ。
けれど、彼女はすぐに小さく咳払いをして表情を整え、手紙をこちらへ返してきた。
瑛太さんが大司教にも見せる必要があるのかと尋ねると、今度は迷うことなく首を横へ振る。
「いいえ。その手紙は、コンラート大司教には見せない方がよろしいでしょう」
理由を尋ねると、大司教は聖女である彼女が直接神託を受けていることを快く思っていないのだと教えてくれた。
私たちがエシャール様から直接手紙を受け取ったと知られれば、女神とのつながりを理由に教会へ囲い込もうとする可能性があるらしい。
礼拝堂で重ねられた質問と、通路を塞ぐように動いた神官たちを思い出す。
あの大司教なら、本当に何か理由をつけて私たちを教会へ留めようとするかもしれない。
「エシャール様から頼まれた以上、彼にあなた方を好き勝手させるつもりはありません」
「助かる」
瑛太さんが短く礼を言うと、ロゼリア様はわずかに顔を逸らした。
私たちを特別扱いするつもりはなく、神託を途中で投げ出せば聖女としての面目に関わるのだという。
言葉はどこまでも素っ気ない。
けれど、ルクスの敷物や水まで用意された部屋を見れば、それだけが理由ではないように思えた。
その時、閉じた扉の向こうから複数の足音が聞こえてきた。
面談室の前で止まったまま動かない。
大司教側の神官が、私たちの話を聞こうとしているのだろうか。
ロゼリア様はすぐに席を立ち、扉へ片手を触れさせた。
淡い光が扉の表面へ広がり、面談室を包むように壁を伝っていく。
「これで、こちらの声が外へ漏れることはありませんわ」
廊下から聞こえる足音に変化はない。
外の音はそのままに、面談室の中から出ていく音だけを遮っているらしい。
彼女は何事もなかったように席へ戻ると、まずは互いにエシャール様から何を言われたのか確認しようと話を切り出した。
隣に座る瑛太さんと顔を見合わせる。
エシャール様の手紙に従い、教会へ顔を出すことはできた。
神託を受け、私たちを待っていたロゼリア様とも出会えた。
けれど、ここが安心してすべてを話せる場所なのかは、まだ分からなかった。
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