拾 ~五~*
「――というわけで、シロちゃんはこっちの世界には来てないんだって」
と、莉々は苦笑気味に天に説明する。幼なじみ紫緑が狐に捕らえられていると思い込んだ莉々たちを、狐の亜浪が上手く利用したに過ぎない。
「それならよかった。でも、俺たちが急にいなくなって慌ててるかもな」
「そうだよね。あっちではどれくらいの時間が過ぎたのかなぁ? おじいちゃんとお母さんだって心配してるよね」
「ああ。俺も稽古をサボったって怒られるかも。実際、稽古よりヘビーな日常だったけど」
嘆息した天に、莉々はクスクスと笑う。
そうして、狐たちとはここで別れた。亜浪も、白蔵主の社守となる決意をしたことから、あまり強くは食い下がらすに渋々うなずいた。今後のことはまた改めてということだ。
利玄のいる鳴雪の屋敷まではそう遠くはない。普通に歩いても一日とかけずに辿り着くことができるそうだ。
ただ、このまま進むと到着は夜になる。もう無理に急ぐこともないので、少しだけ休んでから行こうという話になった。
こうして砕花に屋敷を出してもらう旅もこれで終わりだ。莉々は、そう思うと楽しいこともたくさんあったなという気持ちになった。
屋敷の庭が見える廊下でなんとなく月を見上げていると、庭に鳴雪と水巴がいた。神妙な面持ちの水巴と、微笑む鳴雪。水巴は莉々に気づくと、パッと顔を上げて駆け寄ってきた。
「莉々」
「うん、何?」
「お前にも大事な話がある」
大事な話と言われ、身構えた莉々の肩を鳴雪がさりげなく抱いた。
「水巴は百匹頭の座を降りたいそうだ」
「え!? なんで!」
寂しげにすがる目をした莉々に、水巴は少し恥じらいながら目を伏せた。そんな二人の様子に、鳴雪はクスリと笑う。
「愛しい男と添い遂げたいらしいぞ」
水巴はほんのりと頬を染め、莉々を見遣る。
寝耳に水であった莉々は唖然としてしまったけれど、そこは女子である。喜々として首を突っ込むのだった。
「誰だれ? えっと、砕花さんじゃないとすると、秀真くん? 月斗さん? それとも、普羅さん?」
言い難そうな水巴に代わり、鳴雪が笑いを含んだ声で言った。
「この場合、水巴は私の義姉になるのか? 妹のようにして接して来た分、不思議なものだが」
「え??」
きょとんとした莉々に、鳴雪はさらに言う。
「莉々殿が私の伴侶となることが前提だが。水巴はいずれ、莉々殿の義姉になるのだ」
「そ、それって、お兄――」
最後まで言いきる前に、水巴が不安げに莉々の顔を覗き込んだ。
「嫌か?」
必死の面持ちに、莉々もあたたかな気持ちになった。
そっとかぶりを振る。
「ううん、嬉しい。おじいちゃんも水巴さんみたいな女の子だったら文句言えないんじゃないかな? お兄ちゃんをよろしく」
ほっとしたように微笑む水巴は、キラキラと輝いて見えた。この輝きが少しでも長く続くように天には頑張ってほしいと思う。大好きな兄だからこそ、水巴なら莉々も嬉しい。
❖
いよいよ、利玄との対面が近づいていた。その時には封印を張り直すことになる。封印を張り直した時、本当に鳴雪たちと離れ離れにならずにいられるのだろうか。
早朝になって莉々が不安を隠せずにいると、鳴雪はその手を握って笑いかけた。
「莉々殿、何も心配は要らない。莉々殿は私のことだけを考えていてくれたらよいのだ」
相変わらずな鳴雪に、莉々は苦笑した。そう、鳴雪はどんな手を使ってでも再び莉々のもとへやってくる。もしかすると、離れる方が困難なのではないかと可笑しくなった。
「えっと、おじいちゃんとお母さんにも会ってね?」
「もちろんだ」
嬉しそうに答える鳴雪に、天がボソリと言った。
「じいさんは頑固で俺以上に手強いからな」
「それでも誠意を持って接すればわかってくださるだろうよ」
ニコニコと、幸せそうにそんなことを言う。
手下の狸たちは総帥のゆるんだ顔を穏やかに眺めた。
鳴雪の屋敷跡に建っているのは、竹垣に囲まれた小さな屋敷だった。砕花が出してくれる屋敷と同じくらいの規模だ。その屋敷の前に、渋い色合いの羽織を着た、茶人のような老人が老婦人と共に立っていた。二人とも、耳は狸の耳である。
「利玄、かずさ!」
鳴雪が嬉しそうに名を呼ぶと、夫婦らしい二匹の狸は穏やかに微笑んだ。
「鳴雪様、お帰りなさいませ」
利玄が上品に頭を下げる。鳴雪はうむ、と言って笑った。
「先に水巴と天殿に多少の事情は聞きました。封印が解かれた衝撃で皆が各地へ飛ばされた時、最もこの地の近くにいた私に、先代がここを動かず護るように仰られ、この地の護りを強化してくださいました。ここにいると、何やら、ずっとなりを潜めていた狐が訪れては追い返すことばかりでしたが」
「苦労をかけたな」
と、利玄を労う鳴雪に、彼はコロコロと笑った。
「いえ、外敵が訪れた時以外は縁側で茶を飲んでいただけですので」
やっぱり、と誰かがこっそりつぶやいていた。それに構わず、利玄は莉々に目を向けた。にっこりと優しく微笑む。
「あなた様が莉々様ですな? 鳴雪様の御方様になってくださるそうで、今後ともよろしくお願い致します」
「あ、えっと……はい」
ためらいがちに返事をした莉々に、鳴雪は締まりなく笑っていた。
「いや、皆がそろって私も力もみなぎる。今日はゆっくりと休んで――封印は明日にな」
トクリ、と莉々の胸は小さく打った。見上げる莉々に、鳴雪は無言でうなずく。
「はい、では宴の準備でも致しましょうか」
利玄の提案に、砕花と普羅もうなずく。
「共に屋敷を直そう」
林火もうなずく。
「あたしはかずさ殿と料理を用意するよ」
水巴もうなずく。
「舞い手も必要だろう」
秀真もうなずく。
「なら私は囃子の支度でもしよう」
月斗もうなずく。
「では部屋を整えておこう」
青畝もうなずく。
「おいらは虫を出しますでございます」
「……いや、それはいい」
何故鳴雪に断られたのか、青畝はよくわからずに残念そうだった。
そうして、その晩は盛大な宴となった。
まず、屋敷は城といった方がいいような大きさに造り替えられ、それは絢爛な美しさであった。
緋毛氈を敷かれた座敷にて、贅を尽くした懐石が用意された。朱鷺色で牡丹柄の豪奢な着物に着替えさせてもらった莉々は、上座の鳴雪の隣に座る。まるで祝言の席みたいだと少し恥ずかしくなった。天も同じようなことを考えたのか、複雑そうな面持ちだった。
繊細な盛りつけの美味な料理に舌鼓を打ちつつ、歌と踊りに酔い痴れる。人手は驚くほどに多かった。八百八の妖狸たちが女中などに化けているのだろう。横笛を吹く秀真のそばには鼓や琴、尺八、笙を奏でる直垂姿の若衆たちがいる。
そうして、艶やかな赤い振袖をまとった水巴が扇を手に舞い始めた。その後にもヒトに化けた狸たちの舞手がいた。
しなやかに手首を返し、視線を投げかけて踊る水巴は美しかった。莉々は踊り終えた彼女に盛大な拍手を送りつつ、見惚れている天の様子に思わず笑ってしまった。
林火は酒が進んだせいか、普段よりもいっそう陽気になっていた。相変わらずの涼しい顔で酒を飲む砕花にしなだれかかっているが、砕花が避ける様子はなかった。
月斗もなんとか人型を保ちつつ、部屋の角で静かに丸くなっていた。
普羅は青畝を膝に載せ、親子で嬉しそうに語り合っている。
利玄はかずさと共に、そんな光景を見守っていた。
夜通し続くかに思われた宴は、明日に備えてということでお開きとなったが、楽しいひと時だった。
莉々は女中たちの、湯浴みの手伝いをするという申し出をすべて断り、桐の匂いのする大浴場でゆったりとくつろいだ。
湯から上がると白地に七宝の入った浴衣を着せてもらい、女中に案内されるがままに渡り廊下を歩く。
すると、立派な庭園に小さな社があった。小さいけれど、夜間でも輝くように感じられ、大切に敬われていることが窺える。あれが白蔵主を祀ってあるものなのかもしれない。
ぼんやりとそれを眺めていた莉々に、いつからそこにいたのか鳴雪の声がかかる。
「莉々殿、どうかしたのか?」
莉々は顔を上げ、そっと微笑む。
「あ、うん。狐の亜浪さんと白蔵主さんのことをちょっとだけ考えてたの」
「そうか」
鳴雪はそう言うと女中を下がらせて莉々のそばに立った。そうして、莉々の手を取る。
「莉々殿、こちらに来るといい。月がよく見える」
手を繋いで向かった先は、縁側のある部屋だった。そこは特等席のように庭園を一望できた。鳴雪は縁側に腰を下ろすと、莉々にも座るように促す。莉々が座ると、鳴雪は限りなく丸い月を見上げて言った。
「莉々殿に出会って、実はそれほど永い歳月は経っておらぬのだな。それなのに、随分と永い時を共に過ごしたような気になる」
その横顔に、莉々は軽くうなずいた。
「ありがとう、鳴雪さん」
なんとなく零れた言葉に、鳴雪はハッとして首を向けた。何故そんなにも驚いた顔をするのかが理解できず、莉々も驚いてしまった。
「え? 何か変なこと言った?」
すると、鳴雪はほっとしたように表情をゆるめた。
「いや、まるで別れの言葉のように思われたのだ」
不安なのは鳴雪も同じなのだと、莉々は嬉しく思った。クスリと笑う。
「『今まで』とか言ってないでしょ?」
「う、うむ。そうだな」
ぎこちなくうなずく鳴雪の肩に莉々は寄り添う。そうして、つぶやいた。
「これからもよろしく」
その言葉が終わらないうちに鳴雪は莉々の肩を抱いた。そのまま、もう一度月を見上げる。
「どういう形がお互いにとって最善なのか、私は一年半かけて考えることにしたのだ」
「え?」
莉々が鳴雪を見ると、鳴雪は切なく微笑んだ。
「祝言は一年半後。それでよいだろうか? それまでに心の準備をしてほしいのだが」
一年半の猶予をくれると言う。鳴雪の勢いからしてそれは意外なことだった。
けれど、正直に言うと莉々はほっとした。今すぐにでもと言い出されても不思議はないと思っていた。
ただ、一年半とは中途半端な区切りが謎だ。
「一年半、会うことは叶わぬやもしれぬが、約束は絶対だ。一年半後、必ず迎えに行く」
「う、うん。わかった」
莉々がそう答えると、鳴雪は莉々と口づけを交わす。名残を惜しむかのように長い口づけだった。
莉々の体が傾き、耐えきれずに後ろに倒れた。鳴雪の影が莉々の上に落ちる。そして、莉々の首筋の辺りで鳴雪が深々と嘆息した。そこで、ぼそぼそと零す。
「むごい」
「え……」
「天殿に、『莉々はコーコーセーという立場で、最低でも後一年半は結婚できない。ソツギョウするまでは絶対に手を出すな。出したら義弟とは一生認めない』と言われたのだ。むごいのぅ……」
天なりに、無事に莉々を卒業させたいと考えてのことなのだ。
だから一年半なのか、と莉々は苦笑した。鳴雪の頭をよしよしと撫でる。
「ごめんね、鳴雪さん。待っててね」
「心変わりをせぬと誓ってくれるならよいのだ」
「うん――」
❖
翌朝。
ついにその時がやってきた。八百八の妖狸が一堂に会す。
広々とした庭園も狸たちに埋め尽くされる。その場で、人型を保っているのは鳴雪と百匹頭たちだけである。
「ところで……俺たちのこの格好、まずいよな?」
天がぽつりとそんなことを言った。莉々も、正月でもないのに着物姿で町をうろつくことの説明が上手くできそうにない。それに、制服を二人して失くしたとなれば、間違いなく怒られる。
「でも、制服は摂の国に置いてきちゃったし……」
二人がどうしたものかと思案していると、鳴雪がふむ、と言った。
「出会った時に着ていた装束だな? よし、私が再現しよう」
神通力で着物を出してもらっていたのだから、それも可能かもしれない。
「あっちに戻った途端に消えてなくなるなんてことはないよな?」
疑わしげな天に、鳴雪は苦笑した。
「万全の状態である私の力ならば心配は要らぬよ」
そうして、鳴雪はポン、と力を振るった。莉々の装いがブレザーに早替わりする。スカートのひだも胸元のリボンもボタンの数も正確で、着心地も実物と変わらなかった。
「すごいね、鳴雪さん!」
その再現率に莉々が感動してると、莉々の隣で天が青筋を立てた。
「なんだこれ……」
ハッとして莉々が目を向けると、天の学ランは黒いだけの何かで、それはまるで黒子のようだった。
「うん? 何かおかしいだろうか?」
鳴雪は真面目に問う。天の学ラン姿を目にしたことがあるのは鳴雪のみなので、狸たちは誰も突っ込めない。
「全然違うだろ!!」
と激昂する天に、鳴雪は小首をかしげた。
要するに、莉々のことは穴が開くほどに見つめていたけれど、天のことはそこまで見てもいなかったので記憶に留まっていないのだ。着ていた服など曖昧だ。
結局、天に指示をされながら九回目にして合格が出たのだった。
「ところで、お前たちがここにいる間、向こうでは神隠しにあったという状態になっておるやもしれぬな」
砕花がぽつりと嫌なことを言った。二人が言葉に詰まると、鳴雪がへらりと笑う。
「そこは大丈夫だ。ちゃんと考えてある。――さて、そろそろ始めようか」
そのひと言に、皆が気を引き締めた。
「天殿、右手を」
と、鳴雪は自らの手を差し出す。天はそこにやや乱暴に手を重ねた。
「力を放出するように上に向けて、そうして念じてほしいのだ。この世界の存続と安寧を。……ただし、完全に閉じてはならぬ。一点の綻びを残し、私の力で蓋をする。そうすれば、私たちは莉々殿と天殿に会いに行けるからな」
天は神妙にうなずいた。ちらりと水巴を見遣ると、水巴も強張った顔でうなずいていた。
「では――」
ユラリ、と鳴雪から藤色のオーラが発せられた。八百八狸たちは鳴雪へ力を届けるようにして念じていた。天も深呼吸すると空を仰いでまぶたを閉じた。
天からも乳白色のオーラが上がる。莉々も足しになるわけではないけれど、祈りながら空を見上げた。
ふたつの気は混ざり合い、桃色がかった青空を龍のように昇ってゆく。キラキラと舞い落ちる光が桜吹雪さながらに見えて、それはハッとするほどに美しかった。
そうして、それらがピタリと止んだ時、莉々たちの体はこの世界から弾き出された。
莉々はとっさに天の腕にしがみつく。自分たちだけではなく、こちらの世界に混ざり合ったすべてが吐き出された。
洗濯機に放り込まれたほどに目まぐるしい嵐の中、隣を行き交うのは莉々にとっては馴染み深い品々である。桃の缶詰、トイレットペーパー、英和辞書、フライパンにソファー――それらにぶつからないように祈りつつ、莉々は無事の着地を願った。
パァッと明るい光が莉々たちを迎え入れてくれる。そこが莉々たちの世界への境界だと自然に感じた。
その切れ目を抜けても叩きつけられることはなく、二人の体はふわりと浮いた。優しく下ろしてくれた不思議な力の主は、堂々とそばにいた。
封印を解いてしまったあの注連縄がしっかりと戻され、その正面に立っている。
「ほぅ。こちらが莉々殿たちの世界か。ここは山の中のようだが、空気がまるで違うのぅ」
と、鳴雪は物珍しげに上を見上げていた。
「皆!?」
百匹頭たちまでついてきている。天も唖然としていたけれど、鳴雪はにこりと笑った。
「いや、な。二人とも神隠しにあったとされているのでは戻りづらい。手を打つために来たのだ」
その時、ガサリと物音がした。それは獣の立てる音ではなく、ヒトの足音であった。それでも鳴雪たちは隠れようともしなかった。耳のよい彼らは、ヒトが近づいてきていることも気づいていたはずだ。
「莉々! 天!!」
それは、疲れた顔をした紫緑だった。紫緑は童顔に涙を浮かべ、転がるようにして二人に駆け寄ってきた。
「気づいたら急にいなくなって、あれからどこ行ってたんだよ!」
行方不明になった二人を心配して、毎日ここへ足を運んでいてくれたのかもしれない。
「心配かけて悪かったな」
天は苦笑する。莉々は本物の紫緑に再会できて胸がじわりと熱くなった。
けれど、やきもち焼きの鳴雪の手前、あまり馴れ馴れしくはしないでおく。
「シロちゃん、ただいま」
ほっとしたような紫緑を、鳴雪たちはまじまじと見つめるのだった。
「本物だ、本物」
「うむ。そのようだな」
「あらあら、本物の方がすこぅし幼いわねぇ」
「……何、この人たち?」
怪訝そうな紫緑に、鳴雪は人懐っこく笑った。
「名乗るのは後のことにしておこう。さて、皆、始めるぞ」
「はい!」
百匹頭たちは口々に返事をすると、鳴雪に力を注いだ。鳴雪は腕を大きく旋回させる。
その動きで空間がよれるような感覚がした。莉々にもうわん、という耳鳴りがする。天も同じなのか、少しだけ顔をしかめた。紫緑は――呆然と立ち尽くしている。
「これでよい。莉々殿と天殿が神隠しになど遭っていないという暗示を広範囲に向けてかけておいた。この紫緑も我に返った時にはそのようなことは言わぬだろう」
「なるほど……」
天はぼうっとしている紫緑を眺めながらうなずく。
「まあ、それでも問題があるようなら、父上経由で大菩薩様に頼んでさらに範囲を拡大してもらおう」
大掛かりな話だ。苦笑した二人に、鳴雪は真剣な目を向けた。
「ではな、時が満ちた時に迎えに来る」
鳴雪はそう言って莉々に明るく微笑んだ。
「うん、待ってる」
莉々もこの一年半で花嫁修業をしようと思う。満足げに、けれど少し切なそうにうなずいた鳴雪は、水巴にちらりと視線を向ける。
「水巴、お前はこちらに残ってもよいぞ?」
すると水巴はかぶりを振った。
「いえ、鳴雪様を差し置いては行けませぬので、私も共に待ちます」
生真面目なその様子に、天も真剣に答えた。
「俺も色々と頑張るから」
水巴はそんな天にそっと笑う。
そうして、狸たちは注連縄をすり抜けて祠の中に入った。見た目は変わらずとも、あの封印は以前とは少し形の違うものだと納得できる。
莉々と天は狸たちの姿が見えなくなると顔を見合わせた。
「……嘘みたいな体験だったね」
「ああ。でも、事実だ。あいつらに会ったことは嘘じゃない」
「うん」
「再会する時が来るまでに俺たちもできることをしよう――」
❖
西原家の兄妹がそんな体験をした初秋から二度の春がやってきた。
卒業を間近に控えた時、莉々の高校の校門の前にラフなカットソー姿の天がいた。
天は警察学校に通うため、家を出て都会で一人暮らしを始めた。休みを利用して帰ってきてくれたのだ。少し会わないうちに背もさらに伸び、顔立ちに精悍さが増した。
天が地元を出てから莉々に近づく男子生徒が増えたものの、莉々は誰にも興味を示さなかった。おかげでひどいブラコンだと噂されたけれど、まったくの嘘でもないので否定しなかった。
久々の再会を喜びたかった莉々だったけれど、天が引き連れていた面々を見た瞬間、開いた口が塞がらなかった。天も渋々だったらしく、仏頂面である。
「莉々殿、ますます綺麗になったな」
莉々は思わずカバンを落として口元を覆った。そこにいたのは、鳴雪を始めとする狸たちである。
ただし――
「えっとな、設定としては『若手IT企業の社長』だ。似合うか?」
髪を短く整え、ピシリとスタイリッシュなスーツを着こなす鳴雪の姿には一見、違和感はない。ただし、その正体を知る莉々にとっては驚愕以外の何物でもなかった。当人が言う『若手IT企業の社長』の意味を正確に理解しているのかも怪しい。
「め、鳴雪さん!? 皆も……っ」
サラサラの髪を肩口まで伸ばした、すれ違った人がすべて振り返るような美少女が、純白のワンピース姿で天に寄り添っている。間違いなく水巴だ。
ハットを被りダークな色調でまとめた、ファッション誌のモデルのように見えるのは砕花。知的眼鏡の受付嬢風に、下ろした髪をさらりと揺らして微笑んでいるのは林火。秀真はこの高校の制服を着ていたけれど、ここの生徒ではないとすぐにわかってしまいそうだ。
ポロシャツ姿でフードつきパーカーを着る青畝を抱き上げているのは普羅だ。青畝がフードを被っているのは耳のせいだろうか。
月斗は一歩間違えると職務質問されそうな黒尽くめにマスク。利玄は品のよい渋い色合いのスーツだった。
目立つ集団だ。そばにいた紫緑も、通りかかった他の生徒たちもぎょっとしている。
けれど、莉々はカバンを拾うことなく、鳴雪に向けて駆け出した。胸が熱く、感情が昂って涙が滲むけれど、泣くのはあの腕の中に到達してからでいい。
「鳴雪さん!」
人目も憚らず飛びついた莉々を、鳴雪はしっかりと受け止めた。
「私も会いたかった。この一年半、密やかに莉々殿の世界のことも学んでいたのだよ。ちゃんとご家族にも挨拶せねばと思ってな」
「うん、うん……」
「これからは、生涯離れることなく共に過ごそう」
蕩けるように甘い微笑みに、莉々は大きくうなずいて共に歩む未来を再度誓った。
それは、淡く美しい春の日に――
【 パラレル808 ―完― 】
一年半おあずけ状態だった鳴雪ですが、実はチラチラと莉々を見守ってはいたのです(ストーカー!?)
そうしてこちらの世界のことも勉強していました。わからないことは帰郷した際の天に訊ねたり。
鳴雪と水巴は二人の祖父と母に会いましたが、狸云々は内緒です。ただ、言わなくても何かを感じ取るような察しのいい祖父と母なのですが、特に水巴はよく可愛がられました。鳴雪は祖父に目の敵にされました(笑)
鳴雪と莉々(その他の狸たち)の生活拠点は封印の中。天と水巴はこちら側です。莉々は頻繁に里帰りしていますので、一番慣れない土地で苦労が多かったのは水巴かも知れません。
というわけで、これにて完結です。
長らくお付き合い頂きありがとうございました!