第20話 ヒロインより、お義母さんを攻略しました♡
三年後の、風の強い春だった。
俺、佐伯悠、二十三歳。青栄大学を卒業して、児童書の出版社で働き始めて二年目になる。スーツにもだいぶ慣れた。かつて付け焼き刃の経営用語を並べて三分で見抜かれた背伸びが、少しずつ、背伸びじゃなくなってきた——と、思いたい。
《本日十八時、喫茶ミモザにて最重要イベントが発生します》
視界の隅で、ナビが妙にかしこまった声を出した。
《イベント名、プロポーズ。成功率——計算を放棄します。頑張ってください》
「お前が先に緊張してどうすんだよ!?」
スーツの内ポケットには小さな箱。給料を必死に貯めて選んだ指輪だ。そして財布には、三年間ずっと入れっぱなしの一枚がある。あの日、風の交差点で凛花さんがくれた喫茶ミモザの招待券。角がすっかり丸くなった、俺の攻略の始まりの紙切れ。
夕暮れの商店街を抜けて、木の扉の前に立つ。深呼吸、一回。二回。三回目の途中で扉が勝手に開いた。
「遅い。何分深呼吸してるのよ」
立花凛、二十一歳。首から提げた一眼レフは、もう「証拠撮影用」じゃない。写真家の卵として、今日は記録係を買って出てくれた張本人だ。
「い、いや、心の準備が」
「三年付き合っといて今さら? ほら、中で全員待ってるから」
「全員!?」
ドアベルが鳴る。カウンターの向こうで、見慣れた顔ぶれが一斉にこっちを見た。
「ゆーくん、遅い! パリから駆けつけた親友を待たせるとか、それはない」
水瀬美月。製菓留学の一時帰国中で、テーブルには本場仕込みのケーキがどんと鎮座している。その隣で、後輩がすごい早口で立ち上がった。
「先輩! 聞いてください、私のゲーム、ついに発売日が決まりました! つまり今日は先輩の人生最大イベントと私のデビューのダブル記念日ということで実質これは奇跡の【伏線回収】——」
「小春、UI風に喋るな。ややこしい」
星野小春、新米ゲームクリエイター。カウンターの端には大きな花束が届いていて、カードには落ち着いた字でこうあった。『若いというのは、それだけで武器だよ。存分に振り回しなさい——黒田』。あの人は今日も、大人の背中のままだった。
思えば、この三年は宝物みたいな日々だった。週末のたびに通っては皿洗いを奪い合い、絵本のサイン会では緊張する凛花さんの後ろで俺の方が倒れかけ、凛の初めての写真展では家族席に座らせてもらって、意味もなく涙腺が決壊した。好感度ゲージなんてとっくに見なくなった。数字にしなくても、隣で笑ってくれる人の温度で、全部わかるようになったからだ。
「あらあら、悠くん。いらっしゃい」
厨房から、その人が出てきた。
立花凛花さん、四十一歳。絵本作家。エプロンの胸元には、二冊目の新作『あたらしいまほう』の刊行記念バッジが光っている。三年前のあの夜、「大事な相談があるんです」と切り出された中身は——『私たちのことを、絵本に描いてもいいですか?』だった。飛ばされた傘を追いかける男の子の話は、いま全国の書店に並んでいる。
「今日は貸切ですか? 賑やかですねえ」
「え、あ、その」
言葉が出ない。三年経っても、この人の笑顔は俺の語彙力を粉砕する。
【好感度:測定不能✨】
「表示が仕事を放棄した!?」
そのときだった。開けっ放しの扉から春の突風が吹き込んで、店先の傘立てから水色の傘が一本、ころんと道路へ転がり出た。
「あらあら、私の傘」
「——任せてください!」
考えるより先に体が動いた。歩道を転がる傘を全力疾走で追いかけ、車道に出る寸前で掴み取る。振り返ると、夕陽の中で凛花さんが目を丸くして、それからおかしそうに笑っていた。
「ふふ。初めて会った日と、同じですね」
「……はい。あの日から、ずっとこうです」
俺は傘を差し出す代わりに、店の真ん中まで戻って、財布から角の丸い招待券を取り出した。
《イベント、開始します》
ナビの声と同時に、視界に三年ぶりの選択肢ウィンドウが浮かんだ。
【一、いつか改めて伝える】
【二、雰囲気のある場所で伝える】
「相変わらず、俺の欲しい選択肢がないな」
だから俺は、あの日と同じことをする。存在しない三番を、自分で作る。
「三番。——今、ここで、この人に伝える!」
片膝をつく。箱を開ける。指輪が、ミモザ色の照明を映して光る。
「凛花さん。俺は最初、あなたを『救う』つもりでいました。でも間違いでした。救われたのは俺の方で、あなたはとっくに、自分の力で自分の物語を書き始めていた。だから、これは攻略の続きじゃありません。……俺と、家族になってください。傘が飛んだら俺が拾います。皿が溜まったら俺が洗います。あなたが絵本を描く隣で、コーヒーを淹れ続けたいんです」
店内が、しんと静まった。凛花さんは口元を両手で覆って、それからゆっくり、その手を下ろした。
「あらあら……困りました。断る理由を、三年間探しましたけど」
目尻に涙が光る。でも、声は笑っていた。
「一つも、見つかりませんでした。——はい。私も、あなたと家族になりたいです」
【♡プロポーズ成功♡】
震える手で、指輪を左手の薬指にはめる。サイズはぴったりだった。当たり前だ。三ヶ月前、寝ぼけた凛を買収して、こっそり測ってもらったんだから。凛花さんは自分の手をかざして、ミモザ色の光にかざされた小さな石を、大切そうに眺めた。
「ふふ。悠くんは本当に、いつも全力疾走ですねえ」
「あなたのこととなると、ブレーキの付け方をまだ習ってないので」
わっと店内が沸いた。美月がクラッカーを鳴らし、小春が「真エンドです! 実質トゥルーエンドです!」と泣きながら早口で叫び、凛のシャッター音が連写で響く。
その凛が、カメラを下ろして俺の前に立った。腕を組んで、ツンと顎を上げて。
「言っとくけど。お母さんを泣かせたら許さないから。……お義父さん♡」
「ぐっ……!? 二十一歳の娘に敬われる二十三歳の父……!」
「あら、いい響きですねえ。ね、お義父さん?」
「凛花さんまで!?」
ひとしきり笑ったあと、凛花さんはふと、カウンターの奥の小さな写真立てに目をやった。若い頃の、立花悟さんの写真だ。
「あとで三人で、悟さんにも報告しに行きましょうね。きっと『遅いよ』って笑われちゃいますけど」
「……はい。ちゃんと挨拶します。娘さんとお店と、それから凛花さんの物語を、俺にも一緒に守らせてくださいって」
「合格。今の言葉、写真より先に録音しときたかった」
凛が鼻をすすりながら憎まれ口を叩いて、慌ててカメラを構え直す。美月が「はいはい、泣く前にケーキ切るよ! 本日の主役たち、席について!」と仕切り、小春が「待ってください、この瞬間はスチル回収です、全員笑顔でお願いします!」と涙目で叫ぶ。
コーヒーカップとケーキ皿がテーブルに並び、乾杯の代わりに全員でカップを軽く掲げた。凛花さんの淹れたコーヒーの香りに、美月のケーキの甘い匂いが重なる。この店で覚えた匂いだ。俺の第二の人生が始まった場所の、幸せの匂い。
笑い声が、ドアベルの音と混ざって春の夕暮れに溶けていく。テーブルには美月のケーキ。壁には凛の写真と『ミモザのまほう』の原画。小春のゲームの体験版が隅のテーブルで起動している。あの失敗した展示会の続きが、今は当たり前の日常として、この店に並んでいる。
《おめでとうございます》
ナビの声が、静かに響いた。
【♡隠しルート完全攻略♡】
【追加シナリオ:にぎやか家族編 解放!】
《……最後に一つ、確認させてください。私も、この家族の一員ということで、よろしいでしょうか》
「何を今さら。三年前から相棒だろ」
《……ありがとうございます。では、新しい物語を開始します》
視界に、真新しい選択肢ウィンドウが浮かぶ。書かれているのは、たった一行。
【一、三人で、幸せになる!】
「なあ、これ選択肢って言わないだろ。一個しかないぞ」
《はい。もう、迷う必要がありませんので》
凛花さんが俺の左手を取り、凛が「ほら、写真撮るから並んで」と俺の背中を押す。窓の外では、ミモザ色の夕陽が商店街をやわらかく染めていた。
ヒロインより、お義母さんを攻略します——あの日の自問に、今なら胸を張って答えられる。間違いなんかじゃなかった。だってほら、こんなにも、みんな笑ってる。
俺は笑って、たった一つの新しい選択肢へ、ゆっくりと手を伸ばした。




