第1話:【開花】魔術の作法と、白銀の細剣(レイピア)
ロスヴァイセ・スラヴィエーヌ。
それが、私の名前だ。
スラヴィエーヌ家は、代々優秀な魔術師と騎士を輩出してきた名門の公爵家である。広大な領地と、王都における確固たる政治的発言権を持つこの家に生を受けたことは、控えめに言っても最上級の初期条件と言えた。
現在、八歳。
身長は同年代の少女たちと比べても平均的か、わずかに高い程度。プラチナブロンドの髪は腰のあたりまで伸びており、手入れの行き届いた毛先は動くたびに光を反射する。
屋敷の東棟にある図書室。
天井まで届く巨大な本棚に囲まれた空間で、私は分厚い羊皮紙の魔導書をめくっていた。
書物によれば、この世界における『魔術』とは、決して曖昧な奇跡や神からの恩恵などではない。それは極めて厳密な『手順』と『構築』の産物である。
魔力というエネルギーを体内から引き出し、頭脳の中で『術式』という設計図に流し込み、形にする。
(なるほど。要するに、魔力という『予算』を、術式という『企画書』に沿って実行するプロジェクトのようなものね)
私は本を閉じ、表紙の装丁を指先でなぞった。
スラヴィエーヌ家の血を引く私には、生まれつき平均を大きく上回る魔力が備わっているらしい。だが、予算があるだけでは企画は通らない。
「――ロスヴァイセ様。本日の座学はそこまでになさってはいかがでしょうか」
背後から、静かな声がかけられた。
振り返ると、銀縁の眼鏡をかけた長身の青年が立っていた。専属の家庭教師、ノアだ。彼は優秀な魔術師であり、感情の起伏を滅多に表に出さない合理主義者である。
「ノア。座学での理解は完了しました。実践のフェーズに移行したいのですが」
「……よろしいのですか? 初動訓練は、大変な集中力を要します。八歳の御身には、少々負荷が強いかと存じますが」
「問題ありません。タスクの処理には慣れています」
ノアは小さく息を吐き、眼鏡の位置を中指で押し上げた。
「承知いたしました。では、基本となる『水』の生成から始めましょう。目を閉じ、ご自身のへその下あたりにある魔力の源郭を意識してください。そこから、細い糸を紡ぐように魔力を引き上げ、手のひらに集束させるのです」
私は目を閉じ、下腹部の奥底にある微かな熱源(魔力)を慎重に指先へと誘導した。
「そこから、先ほど図書室でご覧になった水の設計図をイメージし――」
パチンッ。
小さな破裂音と共に、魔力が霧散した。失敗だ。
「……魔力の流入量が多すぎましたね。形になる前に崩壊しました」
私は自分の手のひらを分析した。予算を注ぎ込みすぎて頓挫したプロジェクトと同じだ。
「もう一度、試行します」
二回目。
今度は魔力を絞りすぎた結果、術式が起動する前に枯渇した。資金不足だ。
三回目。
魔力と術式の結合までは成功したが、ただの湿った空気が発生しただけで終わった。最終的な完成形のイメージが甘かったのだ。
(力加減は把握した。次は、綺麗な球体を作るイメージ維持に集中力を全振りする)
四回目。
抽出。伝導。流し込み。イメージの固定化。すべての工程を、一つの綺麗な流れ作業として処理する。
ぽちゃん。
静かな水音が鳴った。
私の小さな手のひらの上に、完全な球体を保った透明な水が浮かび上がっていた。
「……完了しました。これが『水』ですね」
私が視線を上げると、ノアは眼鏡の奥の目をわずかに見開いたまま、完全に硬直していた。
彼の右手から、持っていた指導用の羽ペンが滑り落ち、床に転がる音が図書室に響いた。
「……ロスヴァイセ様。たった四度の試行で、無詠唱による事象固定を……?」
「詠唱は思考を補助するための声出し確認に過ぎないと本にありました。頭の中で手順が組めれば、省略可能という認識ですが、間違っていましたか?」
「…………いえ。理論上は、その通りです」
ノアの声は、わずかに上ずっていた。
「では、次は『氷』を試行します。水を冷やす工程を追加するだけですね」
「お待ちください。氷属性は干渉プロセスが一段階増えます。十代の魔術師でも習得には数年を――」
私はすでに魔力の抽出を開始していた。
水の生成。そこからの冷却。
一回目。水が冷たくなっただけ。
二回目。シャーベット状の氷塊が発生し、すぐに崩れ落ちた。
三回目。
ピキィィン、という甲高い音が鳴り響いた。
私の手のひらの上に、見事な六角柱の氷の結晶が形成されていた。
額から、一筋の汗が滑り落ちた。
さすがに頭を使いすぎたのか、軽い疲労感がある。だが、胸の奥には難しい仕事を一人でやり遂げた時のような、確かな達成感があった。
「……氷、生成完了です」
私がノアの方を向くと、彼は口元を手で覆い、わずかに肩を震わせていた。
彼は私に対してゆっくりと、これまでで最も深い一礼をした。その態度が何を意味しているのか、私には十分に理解できた。
◇
魔術の習得から数週間。
私は早くも、深刻な問題に直面していた。
(……飽きた)
図書室の窓際の席に座りながら、私は頬杖をついていた。
魔術というシステムは、仕組みを理解するまでは面白い。だが、その実践はひどく単調なのだ。座って、瞑想して、魔力を制御して、放つ。
その繰り返しは、まるで延々と書類整理やデータ入力をさせられているような、無機質な肩こりだけを私に蓄積させていった。
(せっかく健康な体があるのに、またずっと座りっぱなしなんて御免だわ)
私はもっと、体を動かす爽快感を求めていた。
気晴らしに屋敷の裏手へ足を向けると、そこは私兵騎士たちの訓練場になっていた。
剣と剣が打ち合う甲高い金属音、男たちの野太い怒声。
男性の騎士たちは、身の丈ほどもある両刃の長剣や、重い長槍を使用している。自重と腕力に物を言わせた戦法だ。
一方、訓練場の反対側。
数名の女性騎士たちが、手には極限まで細く鍛え上げられた刀身を持つ剣――細剣を握り、訓練を行っていた。
タンッ、と乾いた足音。
一人の女性騎士が、地面を滑るように前傾姿勢で踏み込んだ。
最小の動作。無駄な力みを一切排除し、全身のバネを鋭い『刺突』の一点へと乗せる。
(……美しい)
筋力で劣る女性の肉体を、しなやかな身のこなしと洗練された技術でカバーしている。重い剣を無理に振り回すよりも、よほど理にかなっている。
何より、あの無駄のない動きは、極上のストレッチやエクササイズを見ているようで、無性に私の心を惹きつけた。
私の内側に眠っていた好奇心が、強烈な熱を持って目を覚ますのを感じた。
◇
私は屋敷の裏庭、人目のつかない木立の中で、一人立っていた。
手には、倉庫から持ち出した訓練用の木製レイピア。
肩幅に足を開き、半身の姿勢をとる。重心を低く保ち、右手に持った剣の切っ先を前方へと向ける。
女性騎士たちの動きを思い出す。
「……ふっ」
鋭い呼気と共に、右足を踏み込む。
シュッ! と空気を裂く音が鳴った。
(遅い。踏み込みの時に体がブレている。もっと体幹を意識しないと)
姿勢を戻す。
再度、踏み込む。
シュッ!
(腕の力だけで突こうとしている。腰の捻りを乗せて、全身を連動させるのよ)
突き、戻し、体勢を整え、再び突く。
頭で思い描いた理想の動きに、自分の肉体を近づけていく作業。汗が滲み、筋肉が熱を持っていく。
それは、退屈な魔術の瞑想とは比べ物にならないほどの、圧倒的な爽快感だった。
シュッ!
シュッ!
シュバッ!
何度突いたか分からない。
掌の皮が擦り切れそうになり、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げている。だが、ずっとデスクワークばかりの人生を送ってきた(?)私にとって、この疲労感すらも心地よいご褒美だった。
ザクッ、と背後の芝生を踏む音がした。
「――ロスヴァイセ様」
ピタリと、私の動きが止まる。
振り返ると、私付きのメイドであるノエルが、白いタオルを手に持って立っていた。
「ノエル……」
「お戯れもほどほどになさってくださいませ。本日は朝から何も召し上がっておられませんよ。厨房の者たちも心配しております」
「……あ」
言われて初めて、己の腹の底から強烈な空腹感が押し寄せてくるのを感じた。
見上げれば、太陽はすでに西の空へと傾きかけている。
(……やってしまった)
私はタオルを受け取りながら、内心で頭を抱えた。
一度好きなことや新しい趣味を見つけると、食事や睡眠すら忘れて没頭してしまう。
(まったく。この『過集中』という生来のバグだけは、どうにも修正できそうにないわね)
この没頭癖だけは、誰にも悟られないように制御しなければならない。完璧な公爵令嬢としての仮面を被るためには、あまりにも不都合なバグなのだから。




