第0話
三十路を目前にした中堅OLの日常というものは、終わりのないエクセルの入力作業と、上司からの理不尽な仕様変更要求によって構成されている。
最後に記憶に残っているのは、深夜のオフィスで発光するPCモニターと、飲みかけで生温かくなったブラックコーヒーの味だけだ。
納期は間に合ったのだろうか。
それとも、あのままデスクで意識を失って、ついに過労で倒れたのだろうか。
(……いや。そもそも、ここはどこだ?)
ゆっくりと、重い瞼を押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、病院の殺風景な白い蛍光灯ではなかった。
精緻な刺繍が施された、重厚で美しい天蓋。そこから吊るされた、かすかに揺れるレースの布地。
状況を整理しようと試みる。
体を起こそうと、手足に力を込めた。
――動かない。
正確には、神経と筋肉の連動が完全に断たれているような感覚だった。腕を上げるという単純な動作すら、ひどく重い。首すら自力で持ち上がらない。
(どういうことだ。過労による麻痺か? それとも重度のくも膜下出血……)
私は全身の感覚を総動員し、なんとか右腕だけを視界の端へと持ち上げた。
「……」
目の前に現れたのは、キーボードの叩きすぎで腱鞘炎気味だった大人の手ではなかった。
指の関節すらまともに形成されていない、ぷっくりと丸みを帯びた、シワだらけの極小の手のひら。
幻覚ではない。私の意志に連動して、その小さな指が不器用にグーパーと動いている。
視界の外から微かな足音が近づいてきた。
コツ、コツ、と硬い靴音が絨毯に吸い込まれるような、上品な足音だ。
「お目覚めになられたようですね」
上から覗き込んできたのは、黒と白を基調とした、質の高い布地で仕立てられたメイド服を着た女性だった。
その所作や、無駄のない動きから、それが『本職』のものであることは、長年クライアントの役員を相手に接待をこなしてきたOLのカンが告げていた。
メイドは私の顔を見るなり、目尻をふわりと下げた。
「まぁ……。奥様に似て、なんて愛らしいお顔立ち」
「本当ですね。透き通るような白い肌……天使のようですわ」
背後から別のメイドも顔を覗かせ、私を見てうっとりとため息をつく。
「ええ。これほどお美しい赤子は、王都中を探してもそうはいらっしゃらないでしょう。将来が楽しみでございます」
私の脳内で、危険信号がけたたましく鳴り響いた。
(おい、待て。百歩譲って私が何らかの理由で赤ん坊に戻ったとして、なんだその評価は)
鏡を見るたびに目の下のクマをコンシーラーで隠すのに必死だった、しがない社畜OLだ。「美しい」「天使」などという形容詞を向けられる人生ではない。
このメイドたちは、明らかに『絵画に描かれた貴族の娘』を愛でるような言葉選びをしている。
(冗談じゃない。何か根本的な誤解が生じている!)
現状を打破すべく、私は腹の底から声を張り上げ、この重大な間違いを訂正しようと試みた。
『ちょっと待ってください、人違いです! 私は——』
口を大きく開き、明確な意志を持って放たれた言葉は。
「あうー! ぷわぁっ! ぷぁー!」
意味を成さない、湿った空気の振動となって室内に響き渡った。
「あらあら、元気なお声。お腹が空いたのでしょうか?」
「ふふっ、怒ったお顔もたまりませんわ」
メイドたちがくすくすと上品に笑い合う。
その視線の下で、私は、己の三十年間のキャリアウーマンとしての尊厳が崩れ去っていくのを、ただただ受け入れることしかできなかった。
◇
それから、五年。
人間の適応能力というものは恐ろしい。
「……」
私は現在、自室の姿見の前に立ち、己の全身を観察していた。
鏡に映っているのは、艶やかな髪を持つ、ひどく整った顔立ちの五歳の幼女だ。手足はまだ短く、頬は柔らかい丸みを帯びている。
誰がどう見ても、裕福な貴族の令嬢という外見だ。
視線を下ろす。
着ていた寝着の裾を少しだけ捲り上げ、己の足を、そして体を物理的に確認した。
ふくらはぎのむくみはない。
長時間のデスクワークによる、あの鉛のような肩こりも、慢性的な腰痛も、そこには一切存在しない。何度首を回しても、関節が鳴ることもない。
私は寝着の裾から手を離し、ほう、と一つ息を吐き出した。
(なるほど。毎朝の満員電車に乗る必要も、深夜のタクシー帰りをすることも、もうないらしい)
嘆き悲しむような感情は湧いてこなかった。
出向先の新しいオフィスのルールに順応するのも、優秀なOLの必須スキルである。与えられたアバターと環境が変わったのなら、それに合わせた『最適化された生活』を構築すればいいだけの話だ。
私は鏡の中の幼女――『私』と視線を合わせ、小さく頷いた。




