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第8話 施療院の現実

 王都の下町は、昼でも薄暗かった。


 石畳の隙間には濁った水が溜まり、腐った果物と排泄物の匂いが混ざり合う。

 通りを歩く人々の顔には、疲労と諦めが貼り付いていた。


「……ここが、施療院です」


 案内役の青年が指差した先には、傾いた木造の建物があった。


 白い壁は剥がれ、扉の蝶番は錆びついている。


「治療を受けられるのは、金のない者だけです。だから……設備も、これが限界で」


 吟子は静かに頷いた。


 日本でも、貧民の医療はいつも最後だった。


     


 中へ入った瞬間、空気が変わった。


 血の匂い。

 汗の匂い。

 膿と薬草が混ざった、重たい匂い。


「うっ……」


 リオが思わず口元を押さえる。


 ベッドは十ほどあるが、どれも満床だった。

 床には毛布を敷いただけの患者もいる。


「次の方! まだ生きてるなら運べ!」


 怒鳴り声を上げていたのは、壮年の男性医師だった。


 名をグラウスという。


「……女が来ると聞いたが、あんたか」


「はい。荻野吟子と申します」


「働きたいなら、覚悟しろ。ここは地獄だ」


 吟子は、視線を逸らさなかった。


「承知しています」


     


 最初に任されたのは、包帯交換だった。


 しかし、それだけで現実の重さがのしかかる。


「……この傷、感染しています」


「放っとけ。死ななければ御の字だ」


 グラウスの言葉は冷たいが、どこか疲れ切っていた。


 別の患者が咳き込み、血を吐く。


「薬は?」


「もうない。昨日で尽きた」


「では、煮沸は?」


「燃料がない」


 吟子の指が、わずかに震える。


 知識があっても、道具がない。


 それは、医師にとって最も残酷な現実だった。


     


 午後、少女が運び込まれた。


 十歳ほど。

 高熱で意識がない。


「母親は?」


「さっき……亡くなったそうです」


 看護役の女性が声を落とす。


 吟子は額に手を当てた。


「脱水がひどい……腸の感染症です」


「助かるか?」


 グラウスが問う。


「……今すぐ処置すれば」


「薬はない」


 吟子は一瞬、目を閉じた。


 そして言った。


「水を沸かしてください。塩があれば少量」


「そんなもので?」


「体液を補うのです」


 即席の経口補水。

 近代日本で学んだ基本だった。


 ゆっくり、ゆっくり、少女の口に含ませる。


 数時間後。


「……う……」


 少女が、かすかに声を出した。


 施療院に、小さなどよめきが広がる。


     


「奇跡だな」


 グラウスが呟いた。


「奇跡ではありません。理屈です」


 吟子は静かに答えた。


「……理屈、か」


 彼は苦く笑った。


「俺たちは祈るしかなかった」


 その夜、施療院の片隅で、吟子は座り込んだ。


 助けられた命。

 だが、その横で、静かに息を引き取った老人もいた。


 手を握っても、何もできなかった。


「……ごめんなさい」


 言葉が、喉に落ちていく。


 日本でも何度も経験した。


 医師は万能ではない。


 それでも、諦めてはいけない。


     


 翌日。


 施療院の前に、人が並んでいた。


「昨日の女医者がいるって聞いた」


「子どもを助けたって」


 噂は、貧民街を駆け巡る。


 グラウスは眉をひそめながらも、扉を開けた。


「……来たい奴は入れ。ただし、治る保証はない」


 吟子は、白衣もないまま、袖をまくった。


「医療は、希望ではありません」


 患者の目を見て、はっきり言う。


「生きるための、手段です」


     


 その日の夜。


「……あんた、ここで何を目指している」


 グラウスが尋ねた。


「医師として、生きることです」


「名声か?」


「いいえ」


 吟子は首を振った。


「女性が、恥じることなく診察を受けられる場所を作りたい」


 グラウスは、黙った。


「……王都は変わらん」


「変えます」


 即答だった。


 かつて日本で抱いた誓いと、同じ声だった。


 施療院の灯りが揺れる。


 そこはまだ、救いの届かない場所。


 だが確かに、医師の魂が、再び息を吹き返していた。


 吟子はその中心に、静かに立っていた。

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