10
チアキの覚えたのはジークという呼び名とその綴りだ。まずジークヴァルドが書いて、何度か発音を繰り返す。ただこのやり方では難航しそうだと感じる。
紙やインクが足りないし、もったいない。
チアキの教育に関してほしいものが複数でてきて、ジークヴァルドはどう調達したものかと迷う。何度も街まで行くのは人目があって、不審を招く。かといって村で調達すれば、すぐさま噂されるだろう。
ならば選択肢は一つだ。ジークヴァルドは、チアキが綴りに取り組む向かい側で、素早く手紙を書き上げた。
明かりもいつまでもつけているのは惜しい。
今日はこれまでということで、休む。暖炉の前に寝転がり背後のチアキの気配に注意しながら、チアキから得られた情報、チアキを観察して得た情報を整理する。
不可思議な国の名前。どこの地勢とも合わない国の形。こちらの発音も綴りもおぼつかない様子。
文明や文化に触れないよほど特殊な環境下であったのか。もしくはジークヴァルドの知らないところからやってきたのか。
自然後者にと可能性が傾きかける。ただ、荒唐無稽な話だ。
軽々しく結論は出せないので、今後も注意深く見守るしかない。
ジークヴァルドはそう判断し、重いため息をついた。
いろいろと考え事をしていたせいで寝そびれて、ジークヴァルドは毛皮の上で横たわる。目を閉じていればいずれ眠気に誘われるだろうし、こうしているだけで疲れはとれるはずだ。
割り切っていたジークヴァルドだが、ふと、物音を聞き取った。
音の出所はチアキだ。どうしたのだろうと、注意深く気配を探る。くぐもった荒い息、時折しゃくりあげるような音。
――泣いているのか。
ジークヴァルドには最初チアキが泣く理由がわからなかった。
情報交換は有意義だったはずだし、チアキが知っていることと知らないことが整理できて明日以降の対応の参考になった。
なによりチアキもこちらのことを知ろうと前向きだったではないか。
何を泣くことがあるのか。
もとよりあまり泣いたことのないジークヴァルドには、チアキが泣く理由がわかりかねた。それに若い娘が泣く場面に遭遇したことはほとんどなかったから、知らず知らず落ち着かない気分に陥る。自分の行動を振り返り、チアキを不快に、あるいは悲嘆においやるものがあっただろうかと思い返す。
騎士の本文は他者に不愉快な思いをさせることのないよう、己の行動を律せよだ。
加えて、ご婦人に不快な念を抱かせてはならない。
チアキが泣いているのが自分のせいなら、騎士の本分を違えていることになる。
まだ泣いているチアキを背後に感じながら、ジークヴァルドは内省を深めていたが、どう考えても答えが出ない。
チアキに尋ねるのが最も手早い解決策だが、残念ながら言葉が通じていない。
ならば、と気づかれないようにそっとチアキをうかがい見た。
チアキは枕に顔を埋めて静かに泣いていた。時折弱々しく肩が上下する。枕を握る手に力が込められていて、嘆きを外に出さないように努めているように見えた。
その姿に、なぜかジークヴァルドの胸が苦しくなった。
一つ屋根の下に悲しんでいる存在がいるのに、自分は何もできない。嘆きの原因を探ることも、悲しみを癒やすこともできない。自分が無力で、ただ相手に気取られないように横になっているしかない、ちっぽけな存在だと思うと、ちりちりと何かがくすぶる。
チアキはどれほどの間泣いていたのか。家の中に静寂が戻り、ジークヴァルドの鋭い耳にもチアキの寝息しか聞こえなくなる。ようやく力を抜いてジークヴァルドは天井を見つめる。
自分や、現在の環境に原因がなければ、問題はチアキ自身にある。泣くほど悲しいできごと。
あれこれ考えて、ジークヴァルドは一つの可能性に思い至った。
郷愁を誘われたのか。
チアキは自国の地図を描き、口にした。それで帰りたい思いが募ったのではないか。
今までの夜は、腹下しに苦しんでいて故郷を思い出す余裕がなかったのかもしれない。緊張でそれどころでなかった可能性もある。それが、徐々にここに慣れてふと自分の立場や行く末など考えてしまったのか。
そう考えれば合点がいく。それに一緒にいるのがむさ苦しい自分なのだから、若い娘なら嫌気がさして当然だ。
ジークヴァルドは一向に眠気が訪れないのをよいことに、明日からどう接しようかと悩む。
怖がらせないこと。これは当然だ。
ならば優しくする。礼儀をもって接すればよいだろう。
ここがよい所、よい国であるとわかってもらえば、気も紛れるかもしれない。しかし言葉が通じないこともあり、時間がかかりそうだ。
手っ取り早くできることと考える。
美味しいものを食べさせる。猟で獲物が捕れれば新鮮な肉を調達できる。ただチアキを残して長期の猟には出られないから、近場の獲物を狙うことになる。
畑で摘みたてや取れたての野菜や果実を用意する。これはすぐにでも可能だ。
菓子は……街から持ってきたものがあるので、チアキの体調を見ながら出してみよう。
ほかに、できることはないだろうかとあれこれ考える。豚やロバ、犬に触れあわせては。よい考えに思えるが、あいつらを清潔に保つのは難しいから、ひとまずお預けだ。
さしあたっては、湯冷ましを鍋に入れて川で冷やしておこうと毛皮の上に起き直る。泣いたまま眠れば目が腫れているだろう。ひっそり泣いていたから、気づかれたり詮索されるのは好まないのではないか。
物音をたてないよう静かに鍋を持ち、外に出る。肌寒い早朝の空気が一気にジークヴァルドに押し寄せてきた。頭をぶるりと振って覚醒し、ジークヴァルドは川への道をたどる。鍋を川に突っ込み、水が入らないよう注意しながらしばらくそのままでいる。
鍋肌がほどよく冷えたのを確認し、ついでに洗顔も済ませる。
忍び足で戻ればチアキに起きる気配はなかった。水差しに鍋の水をあけ、布を少し多めに置いておく。
そしてまた気配を殺しながら外に出た。チアキが眠っているから、この時間に近場に足を伸ばすつもりだった。運がよければ、何か捕まるかもしれない。
漠然とした願い通り丸々と太った鳥を仕留めることができ、ジークヴァルドはうきうきしながら家路をたどる。手早く羽をむしって血抜きをした上で逆さにつるす。これで昼はごちそうにありつける。満足感に満たされたまま、畑で野菜を収穫して泥を落とす。
生のまま薄く削いで塩をかけるのがジークヴァルドの好みだが、チアキは腹を壊してしまうだろう。
できるだけ調理の時間を短くするよう薄切りにして、煮立った鍋に放り込む。
その匂いに誘われたのか、チアキが身じろぎをして目を開ける気配がした。
若い娘の寝起きなど見るのは失礼だ。――たとえ意識のない間は観察していたとしてもだ。ジークヴァルドは足早に外へ出た。家畜に餌をやり、犬の相手をして戻るとチアキは着替えて顔も洗ったと見えて髪の生え際が少し濡れている。
「おはよう、チアキ」
「ジーク」
頭をさげるチアキに朝の挨拶をかけ、朝食の準備に戻る。
薄切りにしたパンを焦げないように注意して焼くとあぶるの中間程度に火に当て、皿に盛る。
鍋の中身を器に移せば、すぐに朝食が始まる。ジークヴァルドは大麦麦芽を使ったエールか葡萄酒を適量飲むが、チアキには湯冷ましを出す。ふと、甘い酒を与えてみてはどうかという考えが浮かんだ。強めの酒を湯冷ましで割れば、腹に優しく口当たりもいいだろう。
街で調達するものに甘い酒を加えて、ジークヴァルドは豪快に朝食を平らげた。手紙に走り書きを加えた。
皿洗いはすぐに済む。今日は洗濯はせずに、掃除をしているチアキに出かけると声をかける。通じてはいないだろうが、帽子をかぶり弓矢を担いでロバの手綱を取れば、理解できたらしい。
チアキは扉の前で見送ってくれる。手を上げて応え、ジークヴァルドは村への道をロバに指示した。
村には巡回の商人がいた。村にはない品物を持ってきて、村の産物と交換したり売り買いをする。そして手紙や言づて、荷物などを運んで小遣い稼ぎもしていた。
「これを街の雑貨屋に頼む」
そこは同業、店を知っているらしく宛名を一瞥して頷いた商人に硬貨を握らせる。
これで村での用事は半分済んだ。あとはちょっとした買い物をすればいい。
チアキの存在を気づかれるわけにはいかないので、甘いものや娘用の品は買えない。実用一点張りの物になってしまった。
長居したくないので酒の誘いも断って、ロバを急がせる。
森に入り、人の気配が絶えていくのを黙々とやり過ごしてジークヴァルドは家を目指した。
それなりに愛着のある家だが、今は重みが違う。扉の横に作業ができるようにと木で長椅子を作っていたが、チアキがそれに座り外壁に背中を預けていた。
――逃げてはいなかった。安堵が半分、そして留守の間は家の中でかんぬきをかけさせた方が安全だという危惧が半分。
ジークヴァルドは、少し離れたところから大きな声を出した。
「ただいま。昼は柔らかな、焼きたてのパンを食べよう。鳥をあぶったのに添えたらきっとうまいはずだ」
もうずっと、独り言以外森で声を発していなかった。
昼の日差しにふさわしい明るい声がまだ出せることにどこかで安心しながら、ジークヴァルドは自分でも気づかないままにチアキに笑いかける。




