最終話
頬に何か落ちてきた。
冷たい。落ちてそのまま頬を滑り落ちていく。その動きで液体だと分かる。
また落ちてきた。暗闇の中でそれに触れる。すると触れた指先が濡れた。
人差し指と親指をこすって濡れた感覚を確かめる。
その指先を見ようとして、見られないことに気が付く。
ああ、俺は目を閉じた状態なのか、と気が付くまでに数秒かかった。
瞼が鉛のように重くて全く動かない。だから眠っているのか世界が暗いのか分からないままだった。
そうだ俺は目を閉じている。そう意識した瞬間に思い出した。
七海を金属バットで殴った感覚、掌のしびれ、目の前に倒れ込んだ七海の後頭部。そして再び時を飛んだこと。
思い出した。
「な、な、み……」
声にならない声をだして、目を開いた。
飛び込んで来た視界があまりに光に溢れていて少し開いた目を再び閉じた。
目の奥底が居たくて視界が反転している。白い布を巻き付けられたような膜が取れてから俺はゆっくりと目を開いた。
少しずつ、本当に少しずつ。
目を光に馴染ませるように、世界に俺を馴染ませるように。
やっと開いた視界に飛び込んできたのは、揺れる木だった。
ゆっくりとこっちにおいでと呼ぶ母親の腕のように揺れている。
揺れる葉。一度たりとも同じ動きをしない風にあたり、ふわふわと揺れている。
この世界に生を象徴するかのように揺れている。
頬に再び何か落ちてきた。
それを指でぬぐい、なんとかピントを合わせると、視界に俺を覗き込む七海の目が見えた。
その目はグシャグシャにとろけていて、まっ赤になっている。
大量の涙がこぼれていて、そのひとつひとつが真下に寝転がる俺の頬に落ちてきていた。
「な、ななみ?」
再び声を出す。
俺はどうやら横になっていて、それを上から七海が覗き込んでいる。
七海が俺の上で泣いているので、ポタポタと涙が落ちてきていたのだ。
俺たちは無言で見つめ合った。
七海の後ろで木々が揺れている。葉の隙間から太陽の光が落ちてくる。
その光が隠れた。同時に俺の視界が奪われて七海が俺にしがみついてきた。
動いた。
七海が動いた。
俺はそんなことにまず感動した。
だって俺はついさっき、七海の頭を撲殺したから。
そして七海の動きは止まった。
ちゃんと呼吸は止り、殺したから。
たった一度なのにものすごく痛かった。手が腕が心が。人を殴るということがこんなに苦しいなんて知りたくも無かった。
俺の中の真ん中が空洞になるような悲しみで、今も全てが信じられない。
俺は七海を殴った。殺したんだ。
その七海が動いている。俺は海で何キロも泳いだ後のように重い腕を持ち上げた。
そして七海の肩に回した。腕からじんわりと温度を感じる。温かい……。
でもこれは世に言う天国なんじゃないかと思い始めた。だって空気は体温のように丁度良く、七海は温かく、景色は木漏れ日で美しい。
その考えはすぐに終わった。だって七海は体操服を着ていたから。
「……天国で、体操服は、ないわ、な……」
「ふはっ……!」
七海が俺にしがみついた状態で笑った。
笑った、七海が。さっき無表情で全く動かなかった七海が笑った。
俺はあふれ出してくる感情に我慢が出来なくて七海を強く抱きしめた。腕に伝わる感覚……ああ、七海だ、そしていつもの匂いが香った。
七海のパーカーの紐が俺の顔の真横にあった。
まっ赤な紐。
間違いない。これは七海で、俺たちは再び時間を戻ることが出来たんだ。
俺は体を起こはじめた。世界が見たい。七海も俺から体をずらす。
そしてここが【学校の木の下】であることを知った。
ドン……ドン……! と遠くで太鼓を叩く音が聞こえてくる。
「応援合戦……?」
聞き慣れた音だ。下を見るとタロットカードが展開されている。
そうだ、七海があのタロットをした最初の時。
あの時間に戻ったのだ。
さっき俺が展開したのと、全く同じ。でも世界のカードだけは無かった。
俺が書いて七海が塗ったカード。
本当にこのタイミングに戻ったんだ。
顔を上げると、七海が俺を見ていた。目はまっ赤で、まだ泣き続けている。
その顔にアザはない。
アザは、ない。
そして発光もしてない。
俺はゆっくりと手を伸ばした。
そして指先で触れた。
七海は真っ直ぐに俺を見たまま、俺の指先を受け入れた。
アゴを少しあげて、触れて、と言わんばかりに。
アゴ先に触れる。熱くない。発熱してない。ただ涙がこぼれていて濡れていたので、指先でぬぐった。
そのまま指先を滑らせて首筋を撫でる。アザはない。
体操服の首筋から襟元をはねて、指を鍵状にして引っ張った。
そして中を覗き込む。迷いなく真っ直ぐに。七海は甘い息を吐きながら俺の指先を受け入れる。
ない、そこにもアザはない。
そのまま指先を滑らせて背中をみる。
ない、ない。どこにもない。
俺はそのまま七海にしがみついた。
「……ない?」
抱きしめられたままの七海は大きく頷いた。
そして
「……ない。諒真が目覚めるまで、ずっと体中を見てたけど、無いの。アザが全部消えてる。消えてるの……」
七海は同時に声をあげて泣き出した。俺の耳元で大声をあげて、ワンワンと子どものようにしゃっくりを上げながら。
ないの、消えたの、ないの。七海は何度も何度も言った。俺はただ背中を撫でて、頭を撫でて、何度も何度も抱きしめた。
「諒真は? 諒真はなんともないの?」
涙でグシャグシャな七海が俺から少し離れて俺の顔を見た。
「っ……」
俺は七海の顔が涙と鼻水であまりにグシャグシャだったので、吹き出してしまった。
「諒真あ……」
七海は再びアゴを高くあげて、子どもがスーパーで駄々をこねて座り込むような状態で泣いた。
どれほど長い間、緊張状態だったのだろう。俺には計り知れない。
気になって俺も体を軽く調べたが、どこにもアザは無かった。
お互いにオデコに手を乗せ合って体温も見たが、平熱だ。
コツン……と七海が、俺のおでこに、自分のおでこをぶつけてきた。
熱くない。
七海だ。
それだけで嬉しくて、お互いにおでこをすり寄せ合った。
「……もう触れても、いいのかな」
俺はおでこをくっつけたまま言った。
「……えっち」
七海はおでこをくっつけたまま、瞳だけ動かした。
俺は手を伸ばして七海の頬に触れた。柔らかくてフワフワして肌。ずっとマスクで隠して……俺を守ってくれた七海。
そのまま耳に触れて、髪の毛を触った。肩に乗せて眠り、抱きしめて、撫でて、探して追った髪の毛。
細い首。熱くて触れたらやけどしそうなほど発熱していた細い首に、いつものパーカー。そしていつも揺れていた赤い紐。
クラスの皆を殴るときも揺れていた。走るときも、俺の横で笑う時も……。
俺はその赤い紐ごと七海を引き寄せた。
そしてそのまま七海の唇を、自分の唇でふさいだ。
七海は嫌がらずに俺の唇を受け入れた。
薄くて細い七海の唇。
何度も優しく吸って、確かめた。
熱くない。あの時みたいに、もう熱くない。
いつもの七海だ。
「りょ、ま……」
七海が少し離れた隙間から囁く。
俺はそれを聞きながら、何度も七海の唇に口づけを落とした。
七海がここにいる、触れられるだけで、幸せだった。
応援合戦の終わりを知らせる声が聞こえて、俺たちは立ち上がった。
そして手を繋いで歩き出した。
俺たちには、まだやることがある。
「んだよ、諒真と七海。二人でサボりかよ」
応援合戦を終えた椎名を、俺は木の下まで引っ張ってきた。
「なによーー、なんの用なのーーー?」
反対側からは、七海が姉貴を引きずってきた。
「汐里さん、こんにちわ」
「あら、椎名くん。応援合戦良かったわよ」
「ありがとうございます」
二人は白々しく会話をした。
ほら、こんな風に普通だから俺は全く気が付かなかったんだよ! まあ……言い訳だけど。
「あのさあ」
俺は口を開いた。
姉貴と椎名がこっちを見る。
「椎名は誰が好きなの?」
「は、お前。突然なに? 俺婚約者いるし」
「分かった分かった。で、誰が好きなの」
「え……」
椎名の目が泳いだ。
「お前さあ、姉貴が好きならちゃんと告白しろよ。ほら、はい、どうぞ」
ぶっちゃけすぎて悪いけど、俺は何度も飛んだ時間の旅で疲れてるのだ。
こうなった原因は全て椎名と姉貴がバレないようにコソコソしてたのが問題なのだ。
「んだよおい諒真!」
めずらしく椎名が叫ぶ。はいはい。俺は静かに頷いた。
椎名は俺と七海を交互に見て、目線だけで姉貴を見た。でもすぐに顔ごと落とした。
姉貴は腕を組んだまま動かない。ずっと椎名を見ている。
椎名は口を開いて、再び閉じて、顔をあげて、下げて……
「挙動不審じゃねーか!」
俺は椎名の背中を叩いた。椎名はフラリと体を動かしながら「あのさ、俺だって考えてて、ちゃんと……全部片付けてからに、したいんだけど」と漏らした。
「あのさ。それじゃダメなことも、あるんだ」
俺は言った。そのせいで俺たちは大変な目にあったんだ。
言っても誰も信じないけど。俺は椎名の目を見て真っ直ぐに言った。
椎名は俺を睨み、そして姉貴を見た。
そして決意するように、姉貴のほうへ歩き出した。
大きな木の下、二人は向き合った。
「……どうしても、どうしても、諒真の友達だけでは、居られない」
姉貴は動かない。
「でも、何があっても、どんなことがあっても、汐里さんを諦めることは、できない」
姉貴はクッ……と俯いた。
「全てを間違いだったで終わらせない。俺は、絶対にあなたを諦めない。だから、待っててほしい」
「椎名の一人息子が何言ってるの」
姉貴がポツリと言った。
「だから?」
椎名がもう一歩寄る。
姉貴が一歩下がる。
「立場も家族も自分で選べなくても、未来は必ず自分で選ぶ。それは誰のせいにもしない」
「甘くないよ。私には荷が重い。君は重いよ」
「だったら俺が半分持ちますから」
「重い……」
「待っててください」
「ヤダ……」
「待ってろ!」
「ヤダ!」
椎名が姉貴に抱きついて叫んだ。
待ってろ! ヤダ! 待ってろ! ヤダ! と合戦を始めたので、俺と七海はその場を離れた。
校舎横には待たせていた神宮司さくらが居た。
その目には大粒の涙が見える。
七海が走り寄る。
俺は離れた。
九月の風が吹き抜ける。
見上げた空が青くて、少し泣いた。
この青空を絵に描こうと思った。
二度と忘れないために。
絵はこういう時のためにあるのだと思った。
まっすぐに、迷い無く思った。
終わり
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