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賛美者  作者: 桃園沙里
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<第二話・出征>

 その年の十一月のことでした。

 夜、夕食の後片づけをしていると、玄関の戸を叩く音がします。こんな夜分に誰だろうといぶかしく思っていますと「こんばんは。役場の者だけど」と声がしました。私はさぁっと血の気が引きました。夫が戸を開けましたところ、そこには役場の方が、赤紙を持って立っていました。大姑も姑も、奥から出てきました。

 大姑が役場の方に訴えました。

「この子はまだ結婚したばかりなんです。もうちょっと待って下さいまし。お願いでございます。せめて子が出来るまで、何とか入隊を遅らせてはくれまいか」

 役場の方は、お気持ちはわかるが、と言いましたが、夫に赤紙の受領書に名前を書くよう促しました。私はその時、夫のペンを持つ右手が震えているのを横目で見ました。それを見たら、なぜか涙が出てきてしまったんです。泣くまい、と思いながらも。

 役場の方が帰られた後、私たちは抱き合って泣きました。いえ、泣いていたのは私だけです。

 夫は、すぐに帰ってくるから、約束するから、と私に何度も言いました。後から思うと、あれは自分に言い聞かせていたのでしょうね。

 翌日は、親戚縁者を集めての壮行会です。男の方々は、名誉なことだ、御国の為に戦ってこい、と勇ましく言っておりました。一方、女の方は、私や姑が台所に立っているところへこっそりやって来て「大変だろうけどがんばるんだよ、孝一さんが帰って来るまでの辛抱だよ」と囁いて行きました。

 長男や跡取りは兵隊に取られない、と言われていましたが、それは以前の話。日中戦争が始まるとそうも言っていられなくなったようです。

「孝一さんは体が丈夫で性格がいいから、上官に気に入られたんだよ、きっと」と言う方もいました。

 そうして三日後、新婚わずか半年足らずで、夫は旅立ってしまいました。


 夫が戦地へ行ってからは、私は日々の仕事をこなすのが精一杯でした。

 幸い夫のすぐ下の弟が自動車会社に勤めていたのですが、休みの日など畑仕事は彼が中心になってやってくれました。

 田植えや穫り入れの時期には、私どもの家のような男手を兵隊に取られている家には、青年団から援農の方たちが派遣されるようになり、ありがたく思いました。もっと大きな農家には、遠くの市町村から援農の学生さんたちが団体で来たとかいう話です。


 姑は苛立つ気持ちを私にぶつけてきましたが、いちいち気に留めていませんでした。私の気持ちもギリギリのところで保っていたので、それどころじゃなかったんです。

 それでも夜になると寂しさが襲って来て、早く夫が帰って来ればいい、と寝床で涙を流すこともありました。寂しさに耐えられなくなった時には、戦地にいる夫に葉書を書きました。

 と言っても、検閲がありますから滅多矢鱈なことは書けません。家族は皆元気です、無事稲刈りが終わりました、とか、当たり障りのないことです。下手なことを書いて見つかったら、私だけでなく夫が軍部に睨まれますから。「早く帰ってきて」と言うだけでも逆賊扱いされますからね。

 当時、軍部に目を付けられると厄介でした。戦争を批判した文化人が拷問にあったり、一般人でも敵国のスパイだとあらぬ疑いを掛けられて財産を没収されたり、危険な最前線に送られたり、良いことはありません。余計なことは言わない、それに越したことはありませんでした。

 夫の書いてくる返事も、同様に他愛のない内容です。戦地の自分のことは一切書かずに、家族は元気か、苗の育ち具合はどうか、とか、いつもそんな感じです。そんな手紙でも、読むと私は、戦地にいても夫は私たちを思っていてくれているのだと胸が熱くなりました。


 日々の農作業に追われているうちに、月日は過ぎていきました。

 夫が出征して間もなく冬が来て、夫がいないまま年を越し、春が来て田植えをして、秋に稲刈り。

 嫁いで二度目の稲刈りです。初めての稲刈りは、夫と一緒に家族総出で忙しいながらも楽しかったのですが、今回は違います。ご近所の方や援農の方たちと協力しあっての稲刈りです。

 干した稲に囲まれ、ふと手を止め見上げた空は、青く高く続いていました。その時、急にどうしようもない不安に駆られました。このまま夫が帰って来ずに、この先ずっと一人で稲刈りをするのではないかと。


 私はその頃、今が自分の人生で一番辛い時期なんだ、これを乗り越えれば何とかなる、と思っておりました。でも、後になって、これはまだ序の口だったと知るのですが。


 そんな暮らしの中で、ゆいいつ心を慰められたのは大姑の存在でした。

 ある朝、私が台所で洗い物をしていると、大姑が姑を呼ぶ声がしました。

「春子は、元気かねぇ」

 大姑は、他家に嫁いでいる孫娘、つまり私の夫の妹を気遣って言いました。

「春子がお腹空かせてないかと心配でね、カツさん、いくらか野菜を持っていっておくれでないか」

 その言葉に姑は大変驚いた様子でした。姑も内心は春子さんのことが心配でたまらなかったようですが、大姑に気を遣って言い出せないでいたみたいです。私も実家のことが気になってはいましたが、姑の手前、言えませんでしたもの。

 姑は元々外出好きでないのかもしれませんが、私が嫁いで以来、姑が畑と近隣のお店以外に出掛けるのを見たことがありませんでした。おそらく長年そうだったのでしょう。姑の私に対する態度でわかります。私が買い物のついでにちょっと近所で世間話をして戻ると「おやまぁ、随分姿が見えないから里に帰ったのかと思った」などとイヤミを言われ、駅前の美容院に行こうとすると嫌な顔をされましたから。それはきっと姑が大姑から言われ続けたことなのでしょう。

 ですから、大姑の言葉が優しく聞こえたに違いありません。

 姑は大姑の気が変わらないうちに、と大急ぎでズタ袋にジャガイモやら何やらを持てるだけ詰め込んで、さっさと出掛けて行きました。大姑は見送り際に「久しぶりなんだから、ゆっくりしておいで」とまで言いました。それには私も大層驚きました。この戦争で大姑は気が弱くなってしまったのかと思うほどです。


 姑が出掛けて行った後、私が洗い物をしていると大姑の呼ぶ声がします。何かあったのかと思い、慌てて部屋へ行きますと、大姑はにこやかな顔をして座っておりました。

「千代さん、ちょっとこれ」

 そう言って手の中から銀のブローチを出しました。蝶の形をした銀の台に親指の爪ほどのオパール石がはめ込んであるものです。

「まあ、きれい。これは何と言う石ですの。まるで石の中に湖があるみたい。深く青く澄んだ水に、光の加減で雲母がきらきらと、あら今度は明け方の空のよう。素敵。ずっと見ていても飽きませんわね」

 大姑は満足そうに微笑むと、私の手にそれを滑り込ませました。

「千代さんに似合うと思ってね、これは私が若い頃、死んだ主人が買ってくれたのよ。でも、もうわたしゃ歳だし必要ないから、とっといておくれ」

「まぁ、そんな大切な物を私が頂くわけにはいきませんわ。お祖母さまだって、まだまだお似合いになります。それに、こういう物って、着けなくても見てるだけでも幸せになれますでしょ」

「いいや、私はもう先が短い。死んだ後、これが、美しさのかけらもわからない女の物になるのが我慢ならなくてね。千代さん、あんたは綺麗だし、何よりこれが美しいと誉めてくれた。私は、あんたにこれをあげたいんだよ」

 私は恐縮しながら、頂戴致しました。

「千代さんは銀座へ行ったことはある?」

 大姑は唐突に訊きました。

「いえ、まだ一度も」

「私は若い頃、東京の下町に住んでてね、若い頃はよく、夫と銀ブラしたものよ。銀座はいいわよ。街は綺麗で新しい物がいっぱい。道行く人はみんなおしゃれでね、戦争が終わったら孝ちゃんに連れてってお貰いなさい。素敵な所よ」

 大姑は若い頃、東京の商社に勤めていた大舅と知り合い結婚しました。その後、農家を継いでいた義兄さんが亡くなり、この家と田畑を引き継いだらしいのですが、大舅は人を雇って、大姑には畑仕事を一切させなかったと言っていました。

 話を聞いて私は、大舅は私の夫と同じく、優しい方だったのだと感じました。大姑は、私を大事にする夫に、若い頃の自分たちの姿を重ねて見てくださったのでしょうか。ありがたく思います。

 私は頂いたブローチを桜色のチリ紙に包んで、私が嫁入り道具で持ってきた桐のタンスの奥深く、着物の下にしまい込みました。姑に見つかったら大変ですもの。

 その後、姑の目を盗んで、時折取り出してはうっとり眺め、その時ばかりは辛い現実を忘れたのでございます。

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