第十九話 泥を被った雪はもう白くならないから
「ねぇ、母様」
「なぁにイセラ」
「どうして俺の父様はいないの?」
「いないんじゃないわ。日本っていうここより暖かい国でお仕事をしているから会えないのよ」
「結婚したら一緒にいるんじゃないの?」
「母様と父様は結婚出来なかったのよ」
「なんで?」
「母様も、わからないわ……」
幼い頃、俺は母様の事が大好きだった。
唯一の家族だったし、絵を描くと「上手ねぇ」と褒めてくれる。字だって教えてくれるし、料理も美味しい。
優しくて綺麗な俺の母様。
母様は俺の全てだった。
だって、俺は母様を以外の人間なんて知らなかったから。
俺の母、ラゼンテ・レフ・ヒルディ───劇場の姫、世紀の名役者、そんな大層な言葉が宛がわれるくらいの大女優だった。それもその筈だ。母の異能、【劇場支配】は劇場という空間の中にいる人間の全ての視線を支配出来る。まさに、舞台に立つべくして生まれた異能。母は祖母にしょっちゅう、「お前は芝居をするために産まれてきたんだ」と言われていたらしい。母の家は厳格な異能持ちの名家で、産まれたときから完璧に管理された生活を送っていたという。だから一見、自由奔放で何にも縛られていないようなあの男に惹かれたんだろうか。
俺の父親だと言われたその男は、既婚者だった。たまたま、この国に仕事で出向き、綺麗な女と遊んでいたら子供まで出来てしまい、離婚するから待っていてくれと必死に引き止める母を置いて、勝手に帰国した。
孕んだ子どもの戸籍を作るな、人目に見せるなと注文をつけて。
厳しい家で育った母は初めて惚れた男のその言葉を、十年間一語一句違わず果たした。
そのおかげで俺に自由は無かった。生まれた時から初めて家を出たあの日まで、俺は母以外の人間と会ったことは無い。家の庭に出たことはあるが、家の外は大きな木に囲まれた森の中で子供が一度迷ったら骨になっても見つからないと母によく言いつけられていたので、それ以上先に俺が行くことはなかった。勉強を同い年の子と学ぶ学校というのも、病気を治してくれる人がいるという病院にも行った事がない。絵本で読んだだけで、本当に存在するのかどうかも疑っていた。
でも、もし、絵本の世界のものが本当にあるというのなら。
友達を作ってみたい。
庭だけじゃなく、それよりもっと先の外に行ってみたい。
父親に会ってみたい。
だけど、そう言えば母が困らしてしまうということは、子供ながらになんとなく理解していた。
けれども、一度だけ言ってしまった。
「父様が忙しいなら母様と俺から会いに行こうよ」
「そう、よね。なんでこんなに私たちが我慢しなきゃならないの。そうだわ、もうずっと待ってるもの」
その一回が、人生最大の過ちだった。
母がこれから日本に行きたいと連絡をすると、父は母の名前すら忘れたようだ。
「ねぇ、嘘でしょう……? 誰って、そんな……」
『──────』
「私は!!! 貴方が迎えに来てくれると信じて、何年もこんな家に息子と閉じこもっていたのよ!! 去年には奧さんとも離婚するって約束したじゃない!!」
『──────』
「ぇ……?」
その日から少しずつ母がおかしくなっていった。
小さな事で癇癪を起こすようになったし、暴力を振るうようになった。やがて母は1日のほとんどをベットの上で過ごすようになり、料理も洗濯も全て俺の仕事になった。母に似たくせっ毛はみっともないと怒鳴る癖に、見たこともない父に似たらしい目の色だけは執拗に褒めるのが母の姿は俺の心を日に日に疲弊させていった。
やがて俺に異能が発現すると、贋作以外の絵は破り捨てられるようになった。
もう俺は、俺じゃ愛されない。
父によく似た瞳じゃなければ、万人が認めた名画じゃなければ。
「あんたさえ産まなければ!!!」
ごめんなさい、ごめんなさい……。
それから、ずっと謝っていた。
自分でも何に謝っているのか、どこが悪かったのか分かっていなかったけど。とりあえずと、重ねたその言葉はいつしか口癖になって。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
父親と言われた男が憎い。
何年も母様を放っているくせに愛され、その上、俺と母様の自由まで妨げるやつが。
ずっと待っていた母様の名前すら忘れていたやつが。
母様を壊し、俺達の幸せを奪ったやつが。
俺には、俺には母様しかいないのに。
なんで、何もしてないのに叩くの?
なんで、俺の悪いところばっかり言うの?
なんで、俺の絵を破くの?
俺が悪かったの?
俺が枷だったの?
俺がいなければ、母様は父様と結婚できたの?
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服のシミを洗っていた時だったと思う、全然汚れが取れなくて。絵を描いていた時についたシミだったんだけど、何度洗っても黒くて。黒くて、黒くて、もう前みたいな綺麗な色には戻らなかった。
それで俺気づいたんだ、母様はもうダメなんだって。
気付くと血塗れになった母様だったものが目の前に転がっていた。包丁だけでなく、家にあった全ての刃物が母の四肢に突き刺さり、腕はあり得ない方向に曲がっている。内臓も飛び出ていたし、顔に至っては原形をとどめていなかった。
何が起きたのか理解できなかった。
到底自分がやったこととは、思えなかった。
吐いて、気絶して、起きてもそれは夢じゃなくて。
泣いて、謝って、そんなことしても死体が目覚める筈なくて。
後ろめさからか、喋れるわけのない母の死体から怒鳴り声がずっと聞こえる。
逃げたくて、逃げたくて、
俺は初めて外の世界に飛び出した。
雪の降り積もる外の世界は真っ白で、緑のない高い木がずっと並んでる単調な景色。
絵本で見たようなお城も、色とりどりな花畑も何も無い。
何にも。
嗚呼、俺はこんなものが見たくてあんなことを言ったのか。
俺に本で読んだような優しい父親なんていなかった。外の世界ですら俺の夢見たような世界なんて。
最初から知っていれば、あの狭くて平和な世界にずっといたのに。
「なんで......こんな、」
「だって、俺、ただ......」
父親にいて欲しかったんだ。
絵で見た幸せそうな家族になりたかった。母様と父様が並んだ絵を描くのが夢だったんだ。
消えてなくなりたい。
もうどうでも良くなった。夢見た景色も、喜ばせたかった母も無い。そのままそこで死にたい。
だけど、それでも体は生きるのをやめてくれなくて、なんとか暖を得ようと意志もなく歩き続けて、俺はあの山小屋に着いた。
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「―――い、ガキ! ったく、なんでこんなところに子供がいんだよ。子供どころか人も寄りつかねェっていうのに」
「......ぃたい」
「あぁ?」
「あし......いたぃ」
「足? うおっ、肉まで見えてんじゃねェか......! つーかこれ、小指もう駄目じゃねェの?」
「……たす……けて………」
痛い、痛い、痛い。
あんなに冷たかった足は今は何故か燃えているように熱い。もう動けない。少し動かすだけでも、どこかしら痛い。
あぁ、それに、ずいぶんと、疲れ……。
次に目覚めた時には、知らない天井が目に入った。家のよりもずっと柔らかいベッドに暖炉のある豪華な部屋。パチパチと木の燃える音に火の灯りしかない薄暗さはとても落ち着いた。
「おォ、起きたかクソガキ」
そう、口悪く声をかけてきた男はイヴァンと名乗った。




