オイディプスの誘惑
硝子から漏れる外気は冷たい。桜も咲く頃だというのに、なぜ今年はこれほどまでに冷えるのだろう。
「……振り返るな」
知らない間に私の背後に近づいた男が低く、低く呟く。耳を澄ませてようやく聞こえるかどうか。そんな声である。
「そのまま、前を向いていろ」
「……僕はね、最初から、いつ死んでもいい心つもりだったんだ」
私の背には、ひやりと冷たいものが当てられている。
それはナイフだろうか。ステッキだろうか。金属のぞっと冷たい感触だ。
ガウンの上からでも分かるほどの冷たさだ。それは殺気だろう。
「伯爵家には思い入れなんて一つもない。僕はウェールズの屋敷でこもっているときが一番楽しかった」
金属は私の背を滑り進み、私のちょうど心臓の辺りぴたりと止まる。
「そうやって、こっそり殺そうとするのは止めなさい。死ぬ時くらい、お前の顔をきちんと見たいよ」
私はそんな感触など恐ろしくはない。死に近い人間は、いつでも死を想うのだ。死はむしろ、私の友人だ。
窓枠に手を置いたまま、私はゆっくりと振り返る。
「……ロバート」
青く靄がかった部屋の中、そこに長身の男が立っていた。
「……なぜ」
ロバートのブラウンの瞳が大きく見開かれた。白髪で染まったその髪が闇の中で揺れる。
それは半年間、毎日のように見た顔だ。20年前、共に暮らした顔だ。
年を取ってもまだ、顔には20年前の面影がうっすらと残っている。
私は震える指で、サイドテーブルの灯りを吹き消した。
……部屋は、一気に薄闇となる。
「死ぬ覚悟があっても、やはりその時となると恐ろしいものだ。情けない顔を見られるのは嫌だから消させて貰うよ」
執事のロバートは真面目だ。真面目すぎるきらいがあるが。
彼はこんな時でも、襟をただした執事服を着込んでいる。
真っ黒な執事服に、同じく黒の革手袋。その手には細長いナイフが一本。
柄がクリスタルで彩られ、宝石などが飾られている。本来ならば飾り用のものだろう。しかしナイフの刃は闇目にも分かるほど鋭く研がれていた。
「ナイフか。高級なナイフに貫かれるとは、高貴な身分にふさわしい。僕のためによくよく考えてくれた結果がそれか」
「……なぜ……」
「別に殺し方など、考えあぐねる必要などなかったんだ、ロバート。どうせ僕は窓から突き落とされたって死ぬし、首なんて締められれば普通の人間よりも早く死ぬ」
「……なぜ」
ロバートはよほど驚いたのか、先ほどから口が震えて言葉にならない。それを私は小気味よく眺めた。
この真面目で頭のいい男を出し抜けたのは、恐らくはじめてのことだ。
私は小さく息を吐く。まだ彼は手にナイフを持ったままだ。しかしすぐに使うつもりはないのだろう。
私はゆっくりと椅子を引く。
「座っていいかね。知っての通り、僕は腰が弱くてね」
「なぜ、私がここにくると、知って……」
「だから言っただろう。僕はいつ死んでもいいと。殺しにくるのなら堂々とくればいいと……これに釣られたのだろう」
私はガウンから、白色の便箋を取り出して振ってみせる。
そして便箋を破き、中の封筒を取り出す。真っ白な折り目も美しい便箋。私はロバートの前でそれを広げた。
闇の中でも、分かる。それはただ真っ白なだけ。一文字も、インクの跡はない。
「……偽の手紙」
「ああ。僕が作った」
くだらない白い便箋だ。羽根のように軽いその紙を私は床に放りなげる。
「父や兄のことで僕が女王に呼ばれる……それは犯人が分かった時だけだ。お前のいうところの伯爵家の醜聞ってやつだな。それは王家も防ぎたいところだろう。もし王家がお前の犯行を知ったとしても、直接お前を捕らえることはしない」
私の手に残ったのは白い便箋だけだ。封代わりの赤い蝋を私はゆっくりと撫でる。半年前に見た女王陛下の顔が、薄ぼんやりと思い出される。
「……もしお前が犯人だと分かれば、王家は僕を呼び出してお前の処分を迫る。そうなれば僕はきっと王宮から出ずに、お前を密やかに捕らえて処分する。僕が拒んでも、女王陛下ないしその警護がそう命じる。醜聞を、最も嫌うお方だ」
「……処分など恐ろしくは」
「そうだ。お前は処分されることなど、恐れてはいない。僕が殺されることを恐れていないように」
私は椅子に深く腰掛けて、冷たい指を組む。
目が慣れてきたおかげで、部屋の様子がうっすらと見えるようになっていた。
「ええ……」
ロバートはナイフを掴んだまま、片手で頭を押さえている。
「もし……あなたが王宮へ行ってしまえば、あなたを殺せなくなる」
「そうだ。お前は僕を殺せなくなることを恐れていた。今日を逃せば僕を殺すチャンスは永久に無くなる」
「だから今夜、あなたを」
「今夜、僕をきっと殺しに来る」
真っ直ぐな男だ。こんな時でも、声に震えはなく目は相変わらず冷たい。
「分かって私をお誘いになったのですね」
「どうだ、魅力的な誘惑だろう」
私を見つめる目は、執事としてのそれではない。憎しみというわけでもない。ただ、獲物を見つけた獣の目だ。
私はあざけるように笑って、封筒を振ってみせる。
「偽造のことが女王の耳に入れば伯爵家も取りつぶしになるかな。どうだい、そっくりな印だろう。一時、偽印作りに熱中したことがあってね」
「……なるほど。騙されました」
ロバートはナイフを一旦、サイドテーブルに置く。が、その横から離れることはしない。扉への道も彼の体で防がれている。
恐らく悲鳴をあげてもメイドも庭師も誰も来ないだろう。彼らの部屋にかけられる鍵は、ロバートが管理している。
万に一つも、逃げることはできない。もちろん、逃げる気もないが。
「殺されるのは、恐ろしくもなんともない。よく、恨みに耐えてこの家に仕えてくれた」
「……恨み……」
「ロバート。お前はいつ気付いていた? お前が父上の子だということを」
は。と、ロバートの顔が震える。彼は狼狽の色を見せた。口を手で覆い、その指を彼はきつく噛みしめる。手袋の革がたてる、ぎりりという音が部屋に響く。
「……彼を殺す……数ヶ月前」
「父はお前の才能に気付き、出自をお前に伝えたのだろうね。僕よりも出来のいい、しかし、けして口外できない実の息子」
私は顔を覆い、天を向く。天の向こうに、父も兄もいるのだろう。
彼らは今、どんな気持ちで地上の我らを見つめているのだろうか。異母兄弟の私達が、泥沼にいる様を……彼らは笑って見ているのだろうか、悲しんでいるのだろうか。
「ロバート。お前の過去は知っている。どれだけ隠しても、ちょっと調べればすぐにわかるんだよ。とてもいやなものだ、この国の情報機関というものは」
ロバートは、父の子だ。
戸籍上の父親は、私の父に仕えた副官である。しかし、恐らく我が父は……あの乱雑で獣のような父は……副官の妻を襲ったのだろう。欲しいものは、無理矢理でも手に入れる男だった。
生まれた男子を、彼ら夫婦は自らの子として育てる他ない。
しかしロバートの「父」は耐えきれず、戦争で無茶をした。伯爵を庇って死んだと公式記録にはあるが怪しいものだ。
同時に、ロバートの母も死んだ。それは自殺だと書かれていた。一見すれば、夫を亡くした妻の悲劇の死だ。オペラで流せば多くの人が涙する。しかしこれは現実だ。オペラには書かれない、その後がある。
つまり、残されたロバートの行く末である。
「一年間だけ、僕の元へ送り込んだのは、あの人の冷酷さだ」
副官とその妻が死んだことを、父は後悔しただろうか? いや、しない。あの男にそんな情緒はない。
私は顔を覆う指の隙間から天を見つめ続ける。
「ロバート。お前はウェールズにいる頃、父から手紙を貰ったね。そこにはお前の過去が書いてあった。内容は知らない。でも想像は付く。もしかすると父は、お前に僕を殺させるつもりだったのかもしれない。そしてお前に僕の名を与え、僕の変わりとするつもりだったのかもしれない」
冷酷な手紙には、冷酷な文字を。
父はきっと、病弱な息子を……お前の異母弟を殺せとそそのかす文字を書いたに違い無い。
お前こそ我が息子よと、大仰に書き殴ったに違い無い。
そして。
「……その前に、ご自分が殺されてしまった。情けない話だね」
父はロバートに殺された。
父がウェールズに来るというのは嘘だった。
ロンドンにいる父の元へ行き、父を殺すためにロバートは私に嘘を吐いたのだ。
そして馬の足に傷を付け、馬車を落とした。頭の良い彼ならば、造作もないことだろう。
「前にもいったが、僕は父のことも兄のことも侮蔑している。子と知りながら執事に取り上げた父、弟と知りながらこき使った兄。そして父も兄も、僕にお前を……異母兄にあたるお前を与えて彼らは影で笑っていたのだ」
兄はロバートの出自を知っていただろう。
そして父がロバートの能力をかっていた事も、知っていた。
兄は伯爵の座を狙われることを恐れた。そこで兄は先手を打って手元に引き寄せ、執事として採用した。
ひどく小汚いことである。
「グリーヴスの勇敢で美しい血は途絶えた。残っているとすれば、お前の中にほんの少しあるくらいだろう」
「なぜ、私を試されたのです。殺されるとわかって」
「逆に聞こう。なぜお前は僕を殺さなかった。殺すつもりだったのだろう。半年以上……いや、20年前から。お前の目的は伯爵家の血筋すべての根絶にある」
ロバートはもう、落ちつき払っている。目は冷酷で、なるほどそれは父によく似ていた。
「少なくともこの半年、いつだってお前は僕を殺せたはずだ。なのに、なぜ殺さなかった。理由は分かるよ。伯爵家最後の一人として……かつての友として……凝った演出で殺したかったのだろう。好物は最後まで取っておくタイプかい?」
私はテーブルの小さな引き出しを開ける。ロバートは身構えたが、気にせず中のものを、床にばらまいた。
「殺しかたを考えあぐねてなかなか僕を殺せないお前は、僕の代わりに別の人間を続々と殺した」
床に散ったのは、新聞の切り抜きだ。
毒殺、毒殺、毒殺。刺殺、絞殺。
黒いインクは、悲劇を大仰に書き連ねる。
「ロンドンで起きる霧の殺人事件、この犯人は全てお前だね」
ロバートはそれをじっと見つめた。
霧の町で起きる、殺人事件。新聞は面白可笑しく書き連ねている。
私はずっとその事件を追い続けてきた。
現場は見ていないが、同じ犯人であろうことはすぐに分かった。
「ロバート。僕だけを狙っていれば……僕は大人しく死ぬつもりだった。こんな罠にかけてお前を呼び出す必要も無かった」
震えるのは恐怖のせいではない。怒りのせいだ。
「だから僕はもう、そろそろ潮時だと思ったのだ。ここで僕が殺されておかないと、お前はもっと人を殺し続ける」
「いつ、それを知ったのです」
「父や兄を殺したことについては、兄の死辺りからずっとお前を疑っていたよ。お前の出自を知った時には確信に変わった。ただ最近の殺人に関しては、お前のせいだとは考えてもみなかった。疑いはじめたのは、桜の園に出かけた時。確信したのはお前と出かけた夜」
私は指を組み、唇に押し当てる。
さくらと共に花を見に行った夜も、ロバートとともに夜店を歩いたことも、すでに遠い思い出のようだ。
たった数日の間に、様々なことが起こりすぎる。
「用心していたはずですが……」
「そうだね。少なくとも、桜の園で起きた事件までお前は慎重だった。でもあの時、お前はきっと、衝動的に人を殺したのだろう。抑えが効かなかったのだろう。特に準備もしないまま、気紛れに殺したのだろう。お前が僕の元に、見物客が殺されたと知らせに来たとき」
私は自身の鼻を突いてみせる。
「かすかだが、毒の香りがした。お前のミントの匂いにすぐに紛れたが」
ある種の毒は、香りが残る。すぐに風で紛れてしまう程度のものだが、薬になれた人間ならばかぎ分けることができる。
あの時、私はその香りを嗅いだ。そしてぞっとした。一連の事件の矢印が、ロバートに向かっている。慌てて新聞の切れ端をかき集め、ロバートの外出記録と照らし合わせた。
それでもまだ、確信はしていなかった。信じたく無かった。
しかし。
「そしてお前と出かけた昨夜。あれは僕の賭けだった。殺人は起きなかった。僕は安堵した。ああ。ロバートは連続殺人鬼などではなかったのだ。と安堵した。でも僕は蛇のように用心深い。だからお前に少しだけ意地悪をした。水路で男が殺された……と、あのとき、お前に伝えたね」
一緒に町を歩きながら私はさり気なく、罠をしかけたのだ。
ロバートは過去を思い出すように、眉を寄せる。まさか私のような男に、罠を仕掛けられていたなど想像もしていなかったのだろう。
「何か、私はミスを?」
「あのとき、お前は目で西の水路を一瞬だけ、見たのだ。僕は水路で男が死んだとは言ったが、場所までは言っていない。実際、死体があがったのは川だ、新聞には川としか書かれてない。西の水路は殺人現場だよ。そこから死体は流されたのだ。僕はエドから電報を受けたんだよ。西の水路が現場であることを知っているのは、僕とエドと、警察の数人だけ」
私は数回、空咳をする。今宵はひどく喋りすぎている。
執事としての癖なのか、私が咳をすればロバートの目は水差しを探して一瞬だけ彷徨う。そのような姿が悲しかった。
「そばかすのメイドも、可哀想に。さくらの毒を試そうとしたのだろう。でもあの程度の毒では、メイドは死ななかった」
私は喉を手で押さえたまま、宙を向く。
「無理に毒を使わせようとして、あのメイドに感づかれたか、なにか勘違いでもされたかな。執事がメイドに手を出すことは珍しくもなんともないから。あの娘は手紙を書こうとしていた。手籠めにされかけた、とでも書こうとしたのかな。まあ、お前への告発文だったのだろう。だからお前は、紅茶にもっと強烈な毒を仕込んで……」
「……私だって、この家のものを殺すのはしのびなく……ああ、忍びなかったのです」
ロバートが低く、つぶやいた。
声が震えている。
「20年、仕えました。恨みは伯爵家だけ。メイドはみな、良い子たちだ。その子を……殺すのは忍びなかった。本当に、忍びなかった……」
しかしそれは、恐れの声ではない。後悔の声でもない。
「殺したことを思い出して、日中我慢ができなくなる。血の甘い匂いに、気持ち悪くなる」
口を押さえ、彼は笑っている。
「だからお前は髭を剃ったんだな。鼻の下に、ミントのエキスを塗り込むために。お前は……血の匂いが苦手だから」
昨夜、さくらの毒とメイドの死について語るときも、彼は顔を伏せていた。メイドの死を語りながら、彼は笑っていたのだ。
私は立ち上がり、彼の前で腕を広げる。
いっそ、一気に刺された方が恐怖はない。
「本当は黙って殺されるつもりだったのだが、どうしても約束をしてほしいことが2つ、聞きたい事が1つ、できてしまったので、僕は今夜お前を罠にかけた」
「……」
ロバートは戸惑うように私を見る。手はまだ、ナイフには伸ばされない。
「まず聞きたいことからだ。兄のことだ。毒で死んだ。あれは、さくらを使ってやったのじゃないだろうね?」
「……違います」
私の問いに、ロバートは存外素直に答えた。
「あれはただの毒蛇です」
その答えに私はほっと安堵する。
気になっていたのはその件である。さくらがいつからロンドンに居るのかは分からない。あの程度の毒で兄が死ぬことはないはずだが、それでも不安はあった。
そうだ。さくらは、誰も殺してはいない。
彼女の輝く未来は、これで保障された。
「そして、約束をしてほしいことの一つはさくらのことだ。あの子は賢い。しかるべき医者にみせて、なんとか毒を抜かせろ。お前が仕込んだ毒じゃないだろう、そこまで鬼畜だとは思えないし、思いたくもない」
「あれは、ジプシーが……」
「東洋では時にあるらしいね。幼い頃から毒に浸して毒に慣らして、体液をすべて毒にかえてしまう」
ロバートは戸惑うように私を見る。まさか、私がさくらにここまで執心するとは思ってもいなかったのだろう。
「……喉を掻ききったのはお前だね、ロバート。あのように見事に声帯だけ潰すようなやり方は、医学に通じていなければできやしない。可哀想に、あの子の声はきっと愛らしかったろうに」
「……」
「解毒法はあるはずだから毒を抜いた上で国へ戻してやってくれ」
ジプシーの毒であれば、エドにでも託せばさくらは助かるだろう。
……もう何の心配もない。私は小さく息を吐く。
「安心した」
「あなたを殺すための娘だった」
「それは見当違いだったなロバート。さくらのために僕は生きたいと、思ってしまったよ」
「……手を出されもしなかった」
「なんだい、君はそんな下世話なことを想定していたのか」
苦笑する私に、ロバートは眉を寄せる。
「できるわけがない」
私は、さくらの優しい微笑みを思い出した。にこりと、はにかむような微笑みだ。それは彼女の名になった、桜の花が解れる様に似ている。
「昔、僕が屋根から落ちたとき……お前が偽の父の手紙で僕をだまして屋根に引き出し、突き落とした時」
私は腰を押さえる。
その場所はもう20年の間、痛み続けている。
20年前、父が帰ってくるとロバートから聞いた私は屋根にのぼって健気にも父を待ったのだ。しかし、その茶色の道の向こうには馬車どころか砂煙さえみえなかった。
それでも健気な私は、待ち続けた。
その背を、冷たい指が押した。
熱にうなされながら、私は父の死を聞いた。
それから20年後、兄の死を聞いたとき私は瞬時にロバートの犯行だと確信した。そして同時に思ったのだ。父の死も、私の背を押したのも、恐らくロバートだろうと。
「脊髄をやってしまってね。足は動くようになったが……残念ながら、そちらの機能は完全に絶望的だと」
「……」
「お前は僕を殺さずとも、この家を滅ぼすことができたんだよ」
「後一つの約束とは」
ロバートはかすかな狼狽を浮かべていたが、それでも懸命に自分を保っているようだ。私は一歩、彼に近づく。
彼は一歩、下がった。ナイフが床に落ちて激しい音をたて、ドアに向かって転がっていく。
「あと、一つとは……」
「大勢を殺しすぎて、もし殺人の快楽を覚えてしまったのなら、僕で最後にしておくれ」
私は二歩だけ彼に迫って、足を止める。
そしてまた大きく腕を広げた。
それは贖罪を背負って死んで行く、彼の人の姿に似ている。
私に贖罪があるとすれば、それは父と兄の償いだ。そして私の代わりに死んだ人々への償いだ。
「これ以上はもう殺す必要などないだろう。お前は国に戻り両親の墓を守って生きていけ」
「命令ですか」
「まさか」
どうせ私は、長くは生きられない体である。
「友人としてのお願いだよ」
微笑むと、ロバートは激しく頭を振った。
「私は、私にも伯爵の血が」
そしてロバートは激しく自身の胸を叩くのだ。ああ。と私は長い息を吐く。
「なるほど……僕が死ぬときお前も死ぬ。お前は、死ぬのにいい日を考えあぐねていたのか」
そうだ。ロバートの願いは、伯爵家の断絶である。彼は自分の出自が呪われしものと知って、父だけでなく兄だけでなく伯爵家というもの全てを憎んだ。
それはロバート自身も含まれている。
「ロバート。これだけは言っておこう」
膝をついたロバートに、私はそっと近づく。久しぶりに彼の肩に手を置けば、そこはすっかりとやせこけていた。
固い執事服では、見た目には分からない。彼は相当に、やつれている。
「この碌でもない僕の人生の中で、お前と過ごしたウェールズ時代は本当に幸せだった」
目を閉じれば浮かんでくるのは、美しい田舎町だ。
私と同じ髪と目の色を持つ、ロバート。口うるさいメイド。不味い紅茶と不味いビスケットと、美味しい空気。
「その一年だけが僕の中で最も幸せな時間だった」
「そのようなことを、今更……」
「この思い出を誰かが守ってくれないと僕は死ぬ甲斐がない。お前は生きろ。伯爵家の血など、僕が死ねば屋敷も消えて家系図からも消える。王室の歴史書にほんの一行程度、残るだろうがね。まあ露のようなものだ。伯爵家は消える。お前は生きる。そしてウェールズのメイドには、僕が伯爵家を去って、どこか遠い場所で……医者をしていると、そう伝えてくれ」
私は彼の前に腰を下ろして、目を閉じる。そして心臓を指で突いた。
「分かっていると思うが、痛みには弱い方だ。せめてもの情けだ。できるだけ苦しまない方法で頼む」
「……」
闇の向こうでナイフの音がした。
冷たく固い音だ。私は歯を食いしばる。目を固く閉じる。手の内に冷や汗が流れ、冷たくなり、震えが止まらない。
私のこの柔らかい肉を、軟弱な骨を、血管を、ナイフが貫く瞬間を待ち受ける。
……しかし。
「……?」
痛みはいつになっても襲っては来ない。恐る恐る片目をあけて、食いしばっていた口を薄くあける。
目の前、ロバートがゆっくりと床へ滑り落ちる瞬間だった。
「ロバート!」
彼は膝からゆっくりと地面へ崩れ落ちる。まるで時が止まったかのように、ゆっくりと。
彼の顔には驚愕の色が浮かんでいる。自殺? いや違う。彼は驚きの目を、背後に向けている。
「さくら!」
ロバートの背の影に、小さな少女の顔が見えて私は悲鳴を上げた。ジャポネの美しいキモノの袖が、闇の中でゆらりと揺れる。
それは血に、塗れている。
小さく白い掌が、巨大なナイフの柄をつかんでいるのだ。その切っ先はロバートの腰の奥深くに差し込まれている。
「さく……ら」
ロバートが、小さく呟いた。さくらは顔面蒼白のまま、ナイフを殴り棄てる。そして崩れたロバートの体にすがりつき、そして。
「……!」
思いきり、傷口にその歯を立てた。
彼女の瞳から涙が転がり落ちる。口からは唾液も落ちただろう。彼女は落ちたナイフで、自身の指先を切りつける。流れた赤い血を、さくらは無情にもロバートの傷口に差し込む。
そして、さくらは声の無い声で泣いた。
「お前は……」
ロバートは口から溢れる血にむせる。しかし目は大きく見開かれたまま。ゆっくりと体を回転させ、さくらの顔に、指を伸ばす。さくらは逃げない。ただ、大粒の涙をこぼし、こぼし、こぼし……そしてロバートの体にすがりついて泣いた。
「顔は……見せないようにしていたのに」
ロバートは薄く微笑む。それは見たこともないほどに、優しい微笑みである。
私は情けないほど震える膝を叱咤して、這いずるようにロバートとさくらへと近づく。
血の香りは、いまや恐ろしいほど充満していた。
毒の香りもする。それは、花のように甘い香りである。
「さくら……もしかして、さくらを養っていた冷たい匂いの男」
『におい』
血まみれの口を、さくらは大きくあけた。
本などなくても、言いたい言葉は分かる。
『このにおい』
さくらはロバートの口元をさすのだ。そこには彼がいつも塗り込んだ、ミントの残り香。
そうだ、桜の園できっとさくらは彼の香りに気付いたのだろう。
「僕を殺すために、さくらを育ててさくらを送り込んで……」
ロバートは虚ろな目を私に向けた。何か呟いたが、それは言葉にはならない。
傷だけならともかく、傷口から直接毒を流し込まれたのだ。脊髄に触れたその毒は恐ろしい勢いで彼を蝕んで行く。
さくらの毒は弱い。しかし傷口から直接流し込まれれば……。
「……ロバート…」
「……アレックス」
久々にその口が、私の名を呼んだ。20年振りに聞く、懐かしい響きだった。
私はそっと、ロバートの顔に手を触れた。もう、彼は言葉を吐かない。ブラウンの目が天を睨み私を見つめ、さくらを眺めて優しく歪み、そして色が消える。
細長い彼の体が、まるで人形のように崩れた。命が、消えて行く。
「……何という気持ちで、さくらに……名を付けたのだろう」
肩をふるわせて泣くさくらを抱きしめ、私はロバートの目にそっと指を置いた。
私の前では一度も閉じたところを見せなかった瞼を、降ろす。
眠るようなその顔は、兄にも父にも私にも似ていない。穏やかで、優しい顔だった。
「自分で送り込んだくせに、急にさくらのことを哀れに思ったのか、ロバート。だから僕にさくらを手放せと……そういったんだな。僕が死ねばさくらが悲しむと分かったから……」
さくらはロバートの肩に、腕に、すがりついて泣いている。それは父を失った娘の嘆きだ。二人がどのような疑似生活を送っていたのか私には分からない。
毒を持った娘を買い取ったロバートは、彼女を私への殺人に使う予定だったのだろう。
そのつもりで育てあげた。しかし情が湧いたか、20年非情に徹した男に、何かしらの情が宿ったのか。
震えるさくらの肩を私はどうしようもなく、撫でる。
さくらのこの態度を見る限り、ロバートは酷い養い手ではなかったのだ。
「さくら、なぜ、僕の方を、助けた……ああ……」
さくらは黒の瞳で私を見上げる。
「なるほど……救われたくない方を……見捨てたんだな」
私はロバートにブランケットをかけてやる。ふと、彼の胸元をみればスケッチブックのリングが見えた。
「とうとう最後まで見せてくれなかったスケッチブック」
そうっと引き出してみる。もう、彼が抵抗することはない。
「……なんだ」
血まみれのそれをめくれば、そこには人の顔が描写されている。
「僕と、さくらばかりじゃないか」
殺さなくてはならない相手が唯一、自分を人として扱ってくれたのならその行き場のない殺意は外へと向かうしかない。
ロバートはもう半年も、葛藤に苦しんでいたというのか。
「なるほど詩集……ソネットか」
小さな指が私の顔をそっと撫でる。
ふとみれば、さくらが泣き濡れた顔のまま私の涙を拭っているのだ。
小さな指に絡む私の涙が、雨粒のように床へ落ちる。
「お前は僕の涙を拭えるのに、僕がお前の涙を拭えないのは寂しいね」
今や遺品となったそのスケッチブックを私は大切に懐へしまいこむ。
そして顔をぬぐってさくらの肩をそっと押した。
「もう夜も遅いが、着替えて、塔の下の公園へいこう」
『公園』
「桜が満開になったら行こうと約束をしていただろう?」
夜はもう更けきっている。しかし花は咲いているだろう。この青い霧の中で咲く桜の花は、どれくらい悲しく美しいことだろう。
「そして花を両手いっぱいに桜の花を持って帰ろう。ロバートはあの桜の花を、おそらくじっくりと眺めることなどしていないだろうから……」
私はもう動かないロバートの体を見つめ、やがて静かにドアを閉める。
屋敷は薄気味悪いほどに静まりかえっていた。屋敷に漂う甘い煙は、睡眠効果を誘うものだ。ロバートが焚きしめていたのだろう。誰も起きないはずだ。少なくとも明日の昼頃までは。
「明日朝一番に、女王陛下に会いに行く。伯爵の位を返上しよう。屋敷を返そう。伯爵の杖も、コートも、印章も全て霧の街に返しに行こう」
さくらが不安そうに私を見上げる。私は血濡れたその唇を指先で拭う。染みいる毒の痛みは、却って心地良いほどだった。
「そして一緒にウェールズへ帰ろう。もちろん、ロバートも一緒だ。あの幸せな……」
誰にも見とがめられず扉を開ければ、深夜特有の青い霧が辺り一面に広がっている。
「……美しい田舎町に」
霧の殺人事件も負の連鎖もここに止まった。
華やかなりしこの屋敷に、青い霧と毒の香りだけを残して。