第1話 断罪の続きは、昼休みのあとで
「君との婚約は破棄する。二度と、私の前に現れるな」
そう言った元婚約者が、翌日の昼、私の店の前に立っていた。
「セレス。何をしている」
「お弁当を売っています」
「それは見れば分かる!」
「では、ご注文ですか」
エドガー様は、口を開けたまま止まった。
後ろに並ぶ騎士が、困った顔で彼の肩を叩く。
「買わないなら、横へ。昼休みが終わる」
元婚約者は、脇へどいた。
世の中には、断罪より優先されるものがある。
お昼ごはんだ。
*
昨日まで、私は伯爵令嬢だった。
セレス・オルデン。二十二歳。
小さい頃から決まっていた婚約者は、商務局で働くエドガー様。
舞踏会の最中、彼は、私がある令嬢の出自を笑ったと責めた。
笑ってはいない。
でも、ひどい言い方はした。
彼がその人へ私の母の形見を貸したことが、悔しかった。
返してくださいと、一言だけ言えばよかったのに。
「あなたに似合うものではないわ」
私はそう言った。
彼はその話を、自分が形見を持ち出したことを省いて披露した。
私を悪役にするには、十分だった。
その夜には、もう「悪役令嬢」と呼ばれていた。
父は、家の恥だと怒った。
今夜から出ていけと。
母は、五年前に亡くなっている。
誰かが止めてくれるのを待つのは、もう疲れた。
私は、その令嬢に謝った。
形見を返してもらい、部屋で荷物をまとめた。
母が遺してくれた小さな銀の匙と、ドレスを一着。
自分の小遣いを貯めた金貨が、三枚。
王都の安宿で、女将さんが薄い豆のスープを出してくれた。
塩が、少し足りなかった。
私は匙を持ったまま、急に泣いた。
その匂いで、思い出したのだ。
大きな鍋。
小学校の窓。
お玉を持つ自分の手。
前世の私は、給食の調理員だった。
四十六歳で事故に遭い、この世界に生まれ直した。
何百人分の昼食を、仲間と一緒に作っていた。
白衣の袖をまくり、釜から上がる湯気を浴びる毎日。
昼休みのない子供はいなかった。
誰かに嫌われた日も、算数の点が悪かった日も、お腹は空く。
私は、そういうお腹を満たす仕事をしていた。
女将さんが、戸口から訊いた。
「まずかった?」
「違います。お腹が空いていたんです」
涙を拭いて、食べた。
明日からも、私は食べる。
お金も、必要だ。
その晩、宿の台所を、朝だけ借りられないか相談した。
女将のミラさんは、私の手を見た。
「お嬢さん、包丁を持ったことは?」
「今の身体では、まだ少し。教えていただけるところは、教わります」
記憶があっても、身体と道具は違う。
いきなり、何百人分は作れない。
私は白い豆を一鉢、玉ねぎを二つ、煮込み用の肉を見せてもらった。
この世界の味を確かめるところから、始める。
豆をやわらかく煮て、炒めた玉ねぎと合わせる。
ほぐした肉を混ぜ、塩と、庭にある香草で味を整える。
薄いパン生地で包み、焼く。
持って食べられる、小さな包み焼き。
ミラさんが、端をかじった。
「……何個作る?」
「まず、十二個」
「私が一個買うから、十三にして」
私は、久しぶりに笑った。
ミラさんに市の窓口を教わり、翌朝、場所と品目を限った試売りの手続きをした。
騎士団の詰所の向かい。
間借り台所の借り賃と、材料費と、売る値段を、紙へ書く。
いい話だけでは、店は続かない。
十三個のうち、一個をミラさんに渡す。
残りを、木箱へ並べた。
『本日のお弁当 肉と白豆の包み焼き』
その前に立っていたのが、エドガー様だったのだ。
昨日、私の前から消えろと言った人が。
「貴族の娘が、こんな商売をして恥ずかしくないのか」
「お腹が空いて働けない方が、困ります」
私は次の客へ、包み焼きを渡した。
大きな騎士が、歩きながら一口かじる。
止まった。
振り返った。
「明日も、ある?」
胸が、跳ねた。
「はい」
店主として、初めてした約束だった。
そして最後の一個を買いに来た人を見て、私は、その約束を後悔しかけた。
黒い軍服。
灰色の目。
腰の長剣。
ノア・ヴァルド。
二十八歳で騎士団を率い、遅刻を見逃さず、危険な訓練も許さない。この国でいちばん怖いと噂の、騎士団長だった。




