心葉帖【拍手SS】雨が呼ぶ想い人②
「丁度、店の方に来た所です。良い間合いでした。住居門の鍵が掛かっていて、呼び出しも止められていたようなので、ぐるりと回ってきたのです」
「ごめんね。でも、おかしいなぁ。紅かおじいか、間違えて呼び出し球の魔道解除しちゃったのかなぁっ、と!」
蒼は頭より高めの位置にある棚へ、めいっぱい腕を伸ばした。つま先立ちで、手を奥へ伸ばしていると、影が覆いかぶさってきた。背中に、紺樹の胸が当たる。胸部分は濡れていないが、冷気をたっぷり吸い込んでいた。びくりと、蒼の体が跳ねた。
「あぁ、すみません。驚かせましたね。この布でよろしいでしょうか?」
紺樹が眉を垂らした。
温度にだけ反応したのではない後ろめたさから、蒼は慌てて両手を振る。
「だっ大丈夫! っていうか、紺君が凄く冷えてて、びっくりしたんだよ。早く拭かないと」
蒼は手渡された大きめの布で、紺樹の頭を拭く。身長差から、背伸びをして若干寄りかかる形になってしまう。拭きやすいようにと、布を後頭部にまわし、前倒しの姿勢にさせた。
紺樹から「いてて」と軽く声があがったが、拒否はされなかった。蒼は、ほっと胸をなで下ろした。出来るだけ優しく、髪を拭いていく。
しばらく、紺樹はうっとりと目を閉じていた。けれど――
「蒼。私がしゃがみますよ。その方が拭きやすいかと」
と、目を開いた瞬間、動きを止めてしまった。
拭いてもらうのは前提なのだと思いながらも、蒼自身嬉しいことなので、そこは問題ない。果たして、紅がこの場にいたならば、いい大人がと睨みを利かせたかもしれないが。
言葉を切った紺樹を不審に思い、蒼は顔を覗き込む。
紺樹の指先が軽く、蒼の腰に触れてくる。大きな手の感触が、柔らかく広がっていく。
蒼は驚きに固まってしまった。添えられているだけなのだが、逆に、それがくすぐったさと羞恥を誘ってくる。
「こっ紺君?!」
蒼は、うわずった声で名を呼ぶ。
すると、紺樹は据わった目を向けてきた。恨めしそうに睨んでいるようにも思える。とにかく、とてつもなく、無言の圧力を感じる。
決して、甘い空気ではない。いや、まともに恋愛などしたことのない蒼には、空気の甘い切ないなど、良くわかりはしない。けれど、どう考えても、今の紺樹は腰を掴む力と表情があっていない。
とりあえずと、蒼は冷や汗を流し視線を逸らしながらも、紺樹の頭を拭き続けた。
「まったく……」
ややあって、紺樹が諦めたように呟いた。両側から腰を掴んでいた手に、ぎゅっと力が込められる。すとんと、蒼の足底が床についた。
間を置かずに、蒼は額の上あたりに重みを感じた。同時に、長い溜息が降り注いできた。紺樹が自分の頭を乗せている。重くはない。重くはないが、距離の近さに、蒼の心臓が再び跳ね上がった。
蒼が動けずにいると、頭上からくぐもった忍び笑いが聞こえてきた。
「紺君!」
当然、蒼は抗議の声をあげた。紺樹の頬を思い切りつねってやると。紺樹が、渋々という様子で離れていった。
元々薄暗い店内なので、紺樹が退いたくらいでは、大して変わりはない。けれど、蒼からしてみれば、天国と地獄ほどの差があった。地獄というのは、もちろん、蒼の心臓にとってだ。
紺樹は一歩引いた場所で、笑いを噛み殺している。憎たらしいほど、愉快そうに。
「すみません。でも、蒼が悪いんですよ?」
「なんで? 折角、拭いてあげてたのに。からかうなんて、ひどいよ」
からかわれるのは、しょっちゅうあることだ。本気で怒っているわけでもない。しかし、さっぱり検討がつかない言いがかりで責められと、無償に腹が立ってしまう。
蒼は頬を膨らませて、そっぽを向いた。色硝子の外側では、相変わらず、雨音が鳴り響いている。遠くで、雷が落ちた音がした。
蒼は抗議の視線で、布を紺樹の胸に押し付けた。その拍子にずり落ちそうになった肩掛けを直してくれたのは、紺樹だった。
しかし、何故だか、身体を包まれることはなかった。肩掛けは、胸の前で止まっている。
「普段から、こういった服装をするようになったのですか?」
「服? うぅん。今日は、紺君もお客さんも来ないと思ったし、ちょっと蒸し暑かったのもあったから。本当はこれ、夜着用にしようと思ったんだけどね。ちょっとヒラヒラしすぎてるから、普段着にと思っておろしたの。変?」
数度、蒼は瞬きを繰り返した。身体を冷やすなとでも言うのだろうか。蒼は、ちょこんと首を傾げた。
紺樹は、疲れた顔で項垂れた。
「紺君、どうしたの?」
蒼は紺樹の腕を掴んだ。上げられた顔には、いつもの爽やかな笑顔が浮かんでいた。街の女性から、黄色い声を引き出す微笑み。だが、蒼にとっては、この上なく胡散臭い笑みだった。
蒼は足を後ろに引く。が、紺樹に肩掛けを掴まれて動けない。まるで、蜘蛛の巣に絡まった虫のようだ。
「いえ。淡い蒼紫がとっても可愛らしく似合っていますよ? それに、上からの眺めは目の保養になりますし、感触も良いのですけれど。少しばかり、薄くて開きすぎてるので、私以外、『全て』の男性の前では、着ないで下さいね」
蒼は、紺樹の言葉を反芻する。唇を尖らせて考え込んでいる蒼を、紺樹は満面の笑みで見つめている。笑顔なのだが、脅迫されている錯覚に陥ってしまうのは、何故だろう。
似合っているなら、良いのでは。出会った頃からずっと紺樹の方が背は高いのだから、眺めなど、さして変わらない筈だ。そもそも感触とは、服の手触りだろうか。確かに絹で出来ているのだから、申し分ない心地よさだろう。けれど、開きすぎとは、どういうことか。背伸びするのに、足を踏ん張り過ぎていたか。いや、薄くて、と紺樹は言っていたので、服のことだろう。裾は膝丈まである。となると、肩が出てる上半身だろう。
そこまで考え至って、蒼は首まで染まった。ぼっと、音が聞こえそうなくらいだ。
「ばっ!! 紺君!」
蒼は慌てて両腕で胸を隠した。けれど、豊かな胸は、余計に身を寄せて存在を主張してしまう。恥ずかしさで締めた脇が、逆効果になっている。下手をすると、服から溢れてしまいそうだ。
紺樹の喉が鳴る。また怒られると、蒼は身を縮めた。けれど、蒼の杞憂だったようで、ふわりと柔らかく包まれた。肩布だ。
恐る恐る見上げると、紺樹が呆れ笑っていた。肩布を、しっかりと蒼の身体に巻きつけてくる。蒼は肩布に顔を埋めた。
「紺君、意地悪。直接『隠しなさい』って言ってくれれば、良いのに」
蒼は上目で紺樹を睨みつける。しかし、紺樹は気圧された様子もなく、口の端を上げた。とてつもなく、意地の悪そうな顔だ。ぐっと、瞳の距離が近くなった。
「私が口にするより、自分で考えた方が、恥ずかしさがわかるでしょう? 自覚してもらわないと、意味がありませんからね」
「……ぶぅ」
こういう所が、紅と違う。紺樹の言い方は嫌いではないが、まるで躾られているようで、年齢差を感じてしまう。
蒼はふくれっ面のまま、紺樹の横をすり抜けた。逃げるのではない。煮水器の水が、そろそろ沸く頃なのを思い出したからだ。
紺樹は、蒼の態度を特に気にした様子もない。突きつけられた布で肩や袖などを拭きながら、後ろからついて来た。
小部屋へ戻ると、円卓に置かれた煮水器の中で、泡が踊っていた。蒼は湯を硝子性の茶壷に注ぎ、黄金色が広がるまで待つ。茶杯を温めておくため、残った湯を注ぐと、白い湯気が昇っていった。
円卓と小さな棚が置かれた狭い空間に、蒼と紺樹の二人がいる。紺樹の後ろにある棚に仕舞われた卓拭きを取り出すため、立ち上がった。紺樹は、未だ立ち上がって窓の外を眺めたいた。
「紺君、ごめんね。ちょっと後ろ通るね」
「あぁ、すみません」
壁際なので、横に抜けられない。紺樹は椅子に手をかけ、前に退いた。卓拭きを取るくらいならば問題ないだろうと、蒼がさっさと割り込んでしまったからだ。けれど、目的のモノは、意外と棚奧にあった。手前に引き出しを寄せると、狭い空間ではどうしても触れ合ってしまった。とんと、二人の背中がぶつかる。
ふと、わいてきた好奇心を、蒼は止められなかった。
「ねっ! 紺君?」
蒼は身を翻し、紺樹の腕にしがみつく。そのまま、後ろから紺樹の顔を覗き込んだ。紺樹の顔色は変わらない。ただ、静かに微笑んだ。
蒼は、紺樹の腕に笑みで緩んだ頬を擦り寄せた。雨に混じって、ほのかに白檀香の匂いがした。瞼を閉じると、香りが強くなっていった。紺樹のひどく柔らかい声が、降ってくる。
「どうしました?」
「んーちょっと」
蒼は曖昧に返し、ぎゅっと身体を押し付けた。少し胸が圧迫されて痛いが、それよりも触れ合える喜びが勝った。自分から素直に甘えたのは、いつ以来だろう。
さすがの紺樹も不可思議に思ったのか、髪を撫でていた手を止める。諌めるように、二度ほど手を弾ませた
「当たってますよ?」
紺樹は、しれっと言ってくる。ちょっとくらい、照れるなり動揺してみせてくれても良いと思うのに。ちらりと見上げても、全く変わった様子はない。頬を染めるどころか、目も泳いでいない。
蒼は、やはり、と落胆の溜息を落とした。企に託けて、久しぶりに甘えられたのは嬉しいが、想像通りの反応で少々寂しくなった。
「うん、あててるの。でも、やっぱりだね」
蒼は、むくれ顔で目を伏せた。ここまで無反応に、さらりと忠告されると、切なさでいっぱいになる。蒼はのろのろと、紺樹から離れた。とんと、出っ張った取っ手が肩に当たり、痺れが走った。
向き合った紺樹は、蒼の額を突っついてきた。
「先程注意したばかりなのに。それに、やっぱりとは?」
「この間ね、浅葱が言ってたの」
「浅葱が?」
額に触れている紺樹の指を掴む。ずらすと、紺樹の眉は顰められていた。怒らせてしまったのだろうか。
嬉々として助言をくれた幼馴染の浅葱に「そらみろ」と、心の中で愚痴った。
蒼の声が、小さくなる。
「うん。紺君にはいつも助けられてるし、お礼でもしたらって言われてね。私はお茶をいれるくらいしか出来ないって思ったんだけど。浅葱は、その……」
言葉にすると、途端に気恥しくなってしまう。随分と、子どもじみたことをしたものだと、蒼は首を窄めた。紺樹の指をぎゅっと握る。骨ばった指。中指の腹で、軽く撫でた。男性の指にしては滑らかな肌は、蒼を拒むことなく、滑らかに擦れあった。
紺樹は言い淀んだ蒼に、視線で先を促してくる。瞳の色では、紺樹の心は読めない。
「私の、胸をあててあげたらって、言われて」
怖々と顔を上げると、眼前の紺樹は顔を覆っていた。疲労困憊。その言葉が似合う様子で項垂れている紺樹に驚き、指を握っていた手が離れる。
瞬時に、紺樹は、蒼の後ろの棚に空いた手をつけた。支えが必要なほど、脱力しているのだろうか。今日一番の溜息が、蒼の目の前を通り過ぎていった。
呆れられたのか。蒼は慌てて、紺樹の服を掴んだ。
「わっ私はね! そんなのお礼にならないよって言ったんだよ?! でも、一応っていうか、急に思い出したから! それに、さっき紺君以外の人には見せるなって言ったから、紺君は私の胸なんかに、何にも感じないっていうのはわかってたんだけど! それに、それに。私の胸なんて、ただ肉付きが良いだけのモノだし、色気とかないし。紺君は大人だから、子どものなんて興味ないだろうし。うん、色っぽい人が、好きだよね!」
自分で口にすると、悲しくなってくる。蒼の目にじんわりと涙が滲んできた。最早、蒼自身何を口走っているのか、意味不明だった。要領を得ない。
これでは紺樹に興味を持って欲しいように聞こえるではないか。いや、そうなのかもしれない。どうして。蒼は混乱で目を回していた。ぐるぐると世界が回転する。
紺樹の顔を滑った左手が、蒼の顔横に伸びてきた。端から見ると、蒼が紺樹に棚へ追い込まれているようだ。紺樹には、相変わらず胡散臭い笑顔が浮かんでいる。怒っているのとは違う、蒼には汲み取れない色が灯っている。
「蒼、落ち着いて」
耳元で囁かれて、ぞくりと、得体のしれない感覚が背中を走っていった。中音程の心地よい声が、蒼の心を乱した。
触れたのか否か。曖昧な唇の感触が、蒼の膝を笑わせる。落ち着けと言われても、頭は真っ白になっていくばかりだ。ばくんばくんと、心臓が暴れている。
蒼は震える手で、紺樹の服を握り締めた。互いの白い息が、わずかな隙間で溶け合っていく。
「どうやら、『私以外』という意味が、行き違っているようですね。それに、浅葱に言われたからといって、実際試すなんて……まさか、他の男には、していないですよね」
ぐっと低くなった紺樹の声。額が合わされているので、顔を逸らすことも出来ない。
「すっするわけないよ! してないよ!」
「ほう。では、私はしても構わない、男と見られていないということでしょうか? 警戒する価値もないと?」
「違う、違う!」
紺樹は、自分が男扱いされなかったことに怒っているのだろう。蒼としては、決してそんなつもりはなかった。しかし、どこか安心感はあったのかもしれない。紺樹なら、蒼が嫌がることはしないと。また、蒼も紺樹にされることを、嫌だと思うこともないと。
そこまで考えて、蒼は固まった。なぜ、そう思ったのか。もちろん、紺樹を信用しているのもある。けれど、もっと違った想いから、至っている考えのような気もする。
いよいよ、蒼はわけがわからなくなった。既に、涙目を通り越している、ぎりぎりのところで粘っているが、ちょっとしてきっかけで溢れ落ちていく状態だ。
「……すみません、意地悪が過ぎましたね」
紺樹の掌が、蒼の頬に柔らかく触れた。親指の腹が涙袋に撫でられると、ぽろりと雫が落ちていった。蒼が瞬き、さらに二粒未粒、頬を転がっていく。
紺樹は含み笑いを浮かべているが、どこか力がない。
「蒼が困ったり、涙目になったりするのが可愛くて。調子に乗りました」
蒼は怒るのも忘れて、染まっていった。耳はもちろんのこと、首まで真っ赤だ。いや、爪の先まで赤くなっているのではないかと思えるほど、体が熱い。
今の蒼は、水面から顔を出して口をぱくつかせる鯉のようだ。全然、言葉が出てこない。
それがいけなかった。紺樹は再び口の端を三日月の如く、あげた。すっと。蒼の顎を撫でた指先が、喉をくすぐった。牡丹色の瞳が潤いを増す。
紺樹は、すっと目を細めた。
「それにね。私は胸の造形や色香など、どうでも良いんですよ。蒼のソレなら、なんでも……」
外で鳴り響いている雷が、どこか遠くに聞こえた。雨足が激しさを増している。部屋を照らしている桜の蕾を型取った角灯では頼りないほど、闇が広がっている。
紺樹の瞳に、自分の姿が溶けていく。吐息が、重なる――。
「うちの妹に何やらかしてくれてんですかあっ!! しかも、店先でっ!!」
と思った時。腹の底から出た怒号が、紺樹の後頭部を直撃した。いな。分厚い帳簿が、紺樹の後頭部を殴った。
苦痛に悶えた紺樹が倒れ込んでくる。そのまま一緒に、ずりずりと床にヘタレ込む。
見上げると、紅が雷を背に息荒く仁王立ちになっていた。いつの間に近くに来ていたのだろうか。暗さと動揺のあまり気付かなかった。紅は暗がりでもわかるほど、顔を引き攣らせている。
そう言えば、紅の作業が終わった後、茶を飲もうと約束していたかもしれない。恐らく、家の中を探し回っても蒼の姿が見当たらなかったので、店にまで来てくれたのだろう。
蒼は何とも言えない気持ちで、溜息をついた。
紅の怒りは収まらないようだ。頭を摩っている紺樹の頭に、帳簿を振り上げた。
「蒼の大きな声が聞こえたと思ったら! 部屋を覗いてみれば、蒼は泣きそうだし、距離は近いし!」
「そこは……空気を読んだ方が、良いのでは」
「空気を読んだからこそ、割って入ったんでしょうが! 大体、あんたが人の気配に気づかない筈、ないでしょうに! わざとか、わざとなんだろ?!」
鬼の形相で帳簿を擦りつける紅。紙一重で助けてもらったのには感謝するが、いささかやりすぎな気もする。
蒼は、紺樹の頭を両腕で抱えた。紺樹の後頭部をそっと撫でると、予想通り、コブらしきモノが出来ていた。
蒼の行動が気に食わなかったのか、紅は目の前の襟を引っ張った。幸い、紺樹の襟元は閉じられていないので、首が締まることはなかった。
「蒼! そんな奴、庇うな! っていうか、副長、離れろよっ!」
「紅ってば。ありがとうだけど、それ以上紺君殴ったらダメだよ! 仮にも魔道府の副長なんだから、これ以上おかしくなったら困るでしょ!」
蒼は守るように、紺樹を胸に押し付ける。蒼の豊かな膨らみは、形を変えていった。
紺樹の口がもごもごと動き、胸元をくすぐってくる。照れ隠しに言い放った、庇いにもなっていない言葉に、抗議しているのだろう。
紅が紺樹を引き離そうとするほど、蒼は紺樹を強く抱きしめる。
「蒼、息がっ――」
堂々巡りの攻防を続けていると、紺樹の苦しそうな声が漏れてきた。蒼は慌てて腕を離す。
それで納得したのか、紅も紺樹から距離をとった。それでも、横目で紺樹の動きを警戒はしながら、角灯にアゥマを流し込んでいった。ぽっと。部屋に光が溢れていった。
蒼は眩しさに目を細めた。
「紺君、ごめんね。苦しかった?」
「いえ、大丈夫です。むしろ――」
紅に睨まれて、紺樹は言葉尻を切った。紺樹は、俯いて後頭部を摩った。
蒼は紺樹の顔を覗き込もうとするが、すっと逸らされた。反対側に首を傾けると、また逆を向いてしまう。蒼も意地になって紺樹の顔を挟もうと手を伸ばすが、すり抜けて立ち上がってしまった。
けれど、ちらりと見えた紺樹の頬は、確かに色付いていた。一瞬、息苦しかった名残かとも思ったけれど。口元を覆った紺樹の姿が妙に可愛く見えたので、蒼は自分の都合の良いように解釈しておくことにした。
「とりあえず、蒼は着替えて来て下さい」
紺樹に手を引かれ立ち上がると、背中を押されて小部屋を出されてしまう。首を捻ると、紅が紺樹の背中を睨んだが見えた。
着替えてくるのは問題ないが、その間、紅と紺樹を二人にしておくのが心配だ。また喧嘩でも始められては堪らない。
「でも、紺君。紅と紺君しかいないんだし、今更、着替えなくても良いと思うんだけど」
蒼は、くるりと身体を回転させる。少々出過ぎた茶を、紅が硝子杯に移している姿が見えた。
紺樹も、視線だけ後ろへと流す。何かあるのかと、蒼は後ろを覗き込もうと試みる。が、肩を掴まれ、ついには在庫室まで押し出されてしまった。
「……私以外の全ての男、と言ったでしょう?」
蒼が驚いて裾を翻す。蒼の瞳に映った紺樹は、子どものようにぶすりと口元を歪め、拗ねていた。
実の兄に妬いたのか。蒼は、こみ上げてくる掴みどころのない嬉しさを誤魔化すため、笑い声をあげた。これでは、また紅が怒鳴り込んでくるかもしれない。
「わかった。今回は紺君の『我侭』聞いてあげる。まぁ、紅はお兄ちゃんなんだし、夜着だって見慣れてるけどさ」
蒼は肩を揺らしながら、微笑んだ。
しかし、安心させたつもりの言葉に、紺樹の米神がぴくりと反応した。紺樹の目が、徐々に据わっていった。
慌てて「じゃあ、先にお茶しててね!」と踵を返そうとするが。息をする間もなく伸びてきた腕に捕らわれ、叶わなかった。
きついくらい、紺樹に抱きしめられている。密着した身体が、熱を帯びていく。聞き耳を立てなくとも、紺樹の鼓動が伝わってきた。
「こっ紺君?!」
堪らず声をあげると、より一層強く抱かれた。「腕」と小さな囁きが降ってくる。
蒼は紺樹の背にそっと腕を回す。紺樹の体から力が抜けていくのがわかった。そのまま、紺樹の胸に擦り寄った。
滅多に見られる姿ではない。蒼は、高い笑い声で空気を揺らした。声量は絞って。
蒼が一頻り笑い終わると、紺樹が身体を離した。すいっと、冷たい空気が間を通り抜けていった。
「蒼」
頬に触れた温度に、体が痺れた。すぐに離れてしまった感触。蒼は呆然と頬に手をあてた。
「なるべく、早く戻って来て下さいね? 私が紅の帳簿の餌食にならないうちに」
紺樹の顔には、意地の悪い笑みが広がっていた。額に切り取って街の女性陣に見せてやりたくなるような、絶対、他ではしない顔つきだ。愉快そうに細められた紺桔梗の瞳が、憎らしい。
暖簾の奧から、紅の刺々しい声が響き渡ってくる。呼ばれた紺樹は「やれやれ」と困った様子で肩を竦めた。そして、未だに目を見開いている蒼の髪を一房掬うと、口付けを落とし、姿を消した。
残された蒼は、一人、熟れすぎた林檎さながらの様子で佇む。次第に、ふるふると体が震えていった。
「ばかっ、こじゅー!!」
蒼は腹の底から叫び、自分の部屋へと走り出した。
戻った紺樹は、きっと、紅に問い詰められるに違いないが、知ったことではない。わざと遅れて戻ってやろう。小さな復讐だとは自覚しているが、今の蒼には、それくらいしか出来ない。それに……
(こんな顔で戻ったら、紅に何言われるか)
奥歯に力を入れても、頬は緩んでくる。蒼は熱い頬を押さえ、雨音が流れる廊下を駆けていった。