第一話:『不落の熱粥(ふらくのねつがゆ)』
建安十二年(西暦207年)秋。
かつて魔王の都と呼ばれた郿塢は、ただ風と灰が支配する広大な墓標だった。
王允の掲げた「大義」の炎に焼き尽くされ、魏の支配さえ届かないこの廃墟は、敗残兵や飢えた難民が漂着する無法の境界――極東の地獄。
肺の奥に吸い込む空気が、刃物のように冷たい。風が郿塢の廃墟を吹き抜けるたび、壁の灰と死者の砂塵が混ざり合った灰色の粉が視界を霞ませる。
私は麻衣の袖をまくり上げ、煤と泥を顔に薄く塗り伸ばした。
月を隠したとまで言われたかつての容姿など、この無法地帯では暴行と死を招く呪いでしかない。
長い髪が竈の火に巻かれぬよう、頭の後ろで機能的なお団子に固く結び上げる。
余計な後れ毛の一本すら、命に関わる実務の邪魔だ。
火打石を打ち、薪に火を移す。
パチパチと爆ぜる橙色の光を見つめながら、私は小さく息を吐き出した。
かつて王允様の仕掛けた「大義」の策略に加担し、己の口から出た嘘の言葉で世界を狂わせた。
その深い悔恨から、私は一時期、一切の言葉を失っていた。
弁明も謝罪もする資格はないと、心を閉ざしていたのだ。
けれど、この郿塢の片隅に庵を結び、飢えた人々に粥を配る日々が、私の凍りついた心を少しずつ溶かしてくれた。
「ありがとう」「生きられる」難民たちの泥まみれの笑顔と、何より足元にぴったりと寄り添う我が子の存在が、私に再び「言葉」を返してくれたのだ。
今の私は、普通に人と話し、言葉を交わすことができる。
「かぁか、おきび、きれいだね」
三歳になる娘の、順が、私の裾をそっと引いた。
数年前、この無法地帯で不条理な暴行を受け、絶望の泥の中で産み落とした命。
人見知りをせず、いつも私の「実務」をじっと見つめている、この地獄に咲いた唯一の光。
その小さな両手が、傷だらけの木椀を大切そうに抱えている。
下邳の水攻め。
濁流に呑まれかけた私を、自らの命と引き換えに押し流して救ってくれた、恩人・高順様の形見。
『食って生きろ、貂蝉』
あの人が最期に遺した意志が、私の魂の錨だった。
「ええ、綺麗な火ね。今日もみんなにお粥を配りましょう」
私は順の泥のついた額をそっと撫で、微笑みかけた。
私の言葉はもう、人を欺くためのものではない。
目の前の命を繋ぎ、この子を育てるためのものだ。
◇
日が昇ると同時に、廃墟の影から這い出してくる影がある。
行き場をなくした敗残兵、飢えに目を血走らせた難民たち。
彼らは獣のような殺気と絶望を孕みながら、温もりを求めてこの「無名宿」へと殺到する。
私は一歩も引かない。
私は「目の前の命をただ生かす実務」にすべてを賭けている。
まずは竈の熱効率。
薪の配置を一分一厘の隙もなく組み、最少の木切れで最大の火力を生み出す。
次に、飢えた難民たちの動線。
一箇所に群がれば暴動が起きる。
私は穏やかな、しかし凛とした声で彼らに語りかける。
「焦らなくて大丈夫。みんなの分は、ちゃんとあります。一列に並んで、順番に温まっていってくださいね」
顔や衣服は煤まみれでも、井戸水できれいに洗ったこの両手だけは、白く清らかなままだ。
食べ物を扱う実務者としての、譲れない誇りと衛生。
正確な手足の動きで大釜から麦粥を掬い上げ、娘の持つ高順様の木椀へと注ぐ。
「はい、どうぞ。気をつけて持ってね」
娘は粥を落とさぬよう、慎重に難民の差し出す手へと手渡していく。
温かい湯気と、木椀が触れ合う静かな音。そして交わされるささやかな会話。粥が彼らの喉を潤すたび、荒れ狂っていた殺気が、奇跡のような静かな調和へと変わっていくのが分かった。
◇
その調和を切り裂いたのは、鋭く冷たい、異国の銀鈴の音だった。
シャラシャラと鳴り響く金属音に、難民たちが一斉に怯え、身を縮こまらせる。
砂塵を巻き上げて廃墟に滑り込んできたのは、見たこともないほど巨大で豪奢な商団の馬車だった。
それを護衛する騎兵たちの姿に、私は息を呑んだ。
中原のそれとは明らかに異なる、獣の毛皮をあしらった異様な衣服。
頭髪を一部残して剃り上げた独特の髪型。
そして、手綱を握るまでもなく馬と一体になったかのような、驚異的な騎乗技術。
かつて都が権力闘争に揺れていた頃、董卓の一族が引き連れてきて街を闊歩した、あの恐怖の「匈奴」の騎馬武者たちの特徴そのものだった。
そんな恐るべき精鋭を引き連れて、この地獄に突如現れた、圧倒的な富の塊。
馬車から降り立ってきたのは、眩いばかりの異国の毛皮を纏った、傲岸不遜な若い女だった。
まだ二十代前半だろうか。
あの獰猛な異国の騎兵たちを従える、大商団の主人。
しかし、彼女はすぐにはこちらを向かなかった。
毛皮の襟を揺らしながら、崩れ落ちた巨大な城壁の残骸や、焼き尽くされてただ灰が舞う郿塢の広大な廃墟を、じっと、見つめている。
その鷹のような鋭い瞳は、ただの冷徹な商人というよりは、何かを捜し求めるように、あるいはあまりの荒廃ぶりに言葉を失っているかのように、物憂げに周囲の有様を追っていた。
やがて、その女主人の視線が、廃墟の片隅にいる私を捉えた。
いつものように難民を制御している私の手際に、彼女の目が留まる。
煤を塗ってはいるが、私の団子髪の奥にある目元、佇まいから、ただの難民ではないことを見抜いたのだろう。
哀傷を秘めた瞳が、一瞬で鋭い商人のものへと切り替わる。
私は娘の肩を抱き寄せ、静かに見つめ返した。
この時、私はまだ知る由もなかった。
目の前にいる富を纏った少女が、かつて私が王允様と共に策略を巡らせ、奈落へと突き落とした魔王・董卓の孫娘、董白であるということを。
そして彼女もまた、目の前の煤けた女が、自分の一族を滅ぼし、この郿塢を灰にした元凶であるなどとは、夢にも思っていない。
◇
彼女は周囲を威圧するような足取りで、私の竈へと歩み寄ってきた。
近づくにつれ、彼女の目が私の足元で怯える順と、高順様の木椀、臨戦態勢を取る私の佇まいへと移る。
その瞬間、彼女の傲慢な瞳の奥が、かすかに激しく揺れた。
まるで、泥水をすすって生き延びてきた己の過去、そしてこの灰となった故郷で生きようとする私たちの姿を重ね合わせたかのように。
「白様、こんな灰塗れの場所、見物する価値などございません。長居は無用です、馬車へお戻りを」
背後の匈奴の精鋭が、ひどく退屈そうに、しかし恭しく彼女に声をかけた。
白――それが、この獰猛な異国の兵たちを従える、若き女主人の姓なのだろう。
彼女は部下の手を制し、私を容赦なく見下ろした。
「おい、あんた。その細い腕で、その小さな子供を抱えて、この無法地帯でいつまで生き延びられると思っている?」
「……ここで生き延びるために、毎日こうして竈に火を灯しています」
私は一歩も引かず、穏やかに、しかしはっきりとした声で答えた。
彼女は、私が普通に言葉を返したことに一瞬だけ目を見開いたが、すぐにふっと鼻で笑った。
懐からずしりと重い、黄金の詰まった革袋を取り出し、私の大釜の横に叩きつけた。
鈍い金属音が響く。
「生意気な口を利く。だが、耳が聞こえて話が通じるなら早い。私は無能な怠け者に施すつもりは毛頭ないが、使える『能力』には正当な対価を払う主義だ。あんたのその、一寸の無駄もない竈の管理、難民を捌く動線の構築――その『実務の才』、私が買い取ってやる」
「私は白涼。」彼女は私の団子髪を、そして私の目を真っ直ぐに指差した。
「こんな灰の底で、その才能と子供の命を腐らせるな。私の商団に来い。あんたのその腕と頭があれば、そのガキを飢えさせずに、絹の布団で寝かせてやれる。……どうだ、私の下で働け。悪い取引じゃないはずだ」
黄金の袋と、白涼の差し出した手。
それが彼女の偽名とも知らず、また彼女も私が一族を滅ぼした元凶とは知らず。
言葉を取り戻し、ここで静かに生きようとしていた私の日常に、かつて郿塢で燃え上がった因縁の業火が、再び音を立てて近づいてくるのを感じていた。




