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世界を創った神ですが、悩める客にラーメンを出していたら世界を救うことになりました。  作者: 霜月 羽流


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20/20

20杯目 「いただきます」


夜の路地裏。

提灯の灯りだけが、静かに揺れていた。

さっきまで聞こえていた笑い声はもうない。

座敷童たちは、それぞれ「また来るね」「ごちそうさま」と笑顔で帰っていった。

店主は暖簾を下ろそうとして、ふと手を止める。

「……まだ一人、残ってるな。」

その言葉と同時に、暖簾が小さく揺れた。

チリン――鈴の音が静かに響く。

「こんばんは。」

そこに立っていたのは、一人の老人だった。

真っ白な髪、深い皺。杖をつきながら歩くその姿は、どこにでもいる老人のように見える。

店主は少しだけ首を傾げる。

「紹介は受けてきたのか?」

老人は穏やかに笑った。

「ああ…長いこと、この店を探していた。ようやく見つけたよ。」

店主は椅子を引く。

「座んな。」

老人はゆっくり腰を下ろす。

二人の間に、静かな時間が流れる。

やがて店主が口を開いた。

「何食う?」

老人は少し考えてから笑った。

「おすすめを。」

「今日は、それしか言われねぇな。」

店主は苦笑しながら鍋へ向かう。

寸胴鍋の蓋を開ける。立ち上る湯気を見つめ、静かに呟いた。

「これが……最後の一杯か。」

麺を茹でスープを注ぐ。チャーシューを乗せる。

ねぎを散らす。煮卵を添える。

今までと何も変わらない。

いつも通りの動き、いつも通りの一杯。

「お待ち。」

老人は丼を受け取り、小さく頭を下げた。

「いただきます。」

その一言を聞いた瞬間、店主は目を細める。

老人はゆっくりと麺をすすった。

一口。

また一口。

そしてスープを飲み干す。

「……おいしい。」

「こんなに温かいラーメンは、初めて食べた。」

店主は照れくさそうに笑う。

「大げさだ。」

老人は静かに首を横に振る。

「いや、味じゃない。心が温まった。」

店主は何も言わず、空になった丼を受け取る。

「相談か?」

老人は頷いた。

「私はね。死ぬのが怖い。」

店主は黙って耳を傾ける。

「若い頃は平気だった。でも歳を重ねるたびに大切な人がいなくなった。友人も、妻も、子どもたちも独立した。今は一人だ。」

老人は静かに笑う。

「だから思うんだ。私が死んだら、誰も覚えていないんじゃないかって。」

店主は少し考え、お茶を差し出した。

「飲め。」

老人は一口飲む。

温かな湯気が二人の間を流れる。

店主は空になった丼を老人の前へ戻した。

「じゃあ。未来を見てみるか。」

老人は静かに頷く。

黄金色のスープに、小さな波紋が広がる。

映し出されたのは、一軒の家だった。

老人の葬儀。

たくさんの人が集まっている。

孫が泣きながら話していた。

「おじいちゃんね。いつも僕に料理を作ってくれたんだ。」

娘が笑う。

「お父さんのおかげで今の私がある。」

近所の人も話す。

「あの人には何度助けてもらったか。」

「優しい人だった。」

老人は涙を流した。

「みんな……覚えてくれてる。」

景色はさらに進む。

十年後。

孫が自分の子供にラーメンを作っていた。

「これはね。ひいおじいちゃんから教えてもらった味なんだ。」

子どもが嬉しそうに笑う。

「おいしい!」

老人はその光景を見て、静かに涙を拭った。

景色は消えていく。

スープは元の黄金色へ戻った。

「人はな。」

店主が静かに話し始める。

「死んだから終わるんじゃねぇ、誰かの心に残る限りちゃんと生き続ける。」

老人は何度も頷いた。

「ありがとう、安心したよ。」

老人は立ち上がる。

「最後に君へ一つだけ。」

店主を見るその瞳が、ふっと優しく変わる。

「長い間。世界を守ってくれてありがとう。」

店主の表情が止まる。

「……。」

老人は微笑んだ。

その姿が淡い光に包まれていく。

白い髪は黄金色へ、杖は一本の光へ。

老人の姿はゆっくりと変わっていく。

そこに立っていたのは――

世界を見守り続けてきた、『命』そのものだった。

店主は苦笑する。

「やっぱり、お前だったか。」

命は静かに頷いた。

「迎えに来た。」

「みんなには会えたか?」

「ああ。十分すぎるくらい。」

命は店主へ手を差し伸べる。

「もう休もう。」

店主は屋台を見渡した。

暖簾、寸胴鍋、丸椅子、提灯。

そして、誰もいない席。

「……もう少しだけ。」

そう言いかけた時。

店主の身体に走っていた光のひびが、一斉に広がる。

パリン――。

静かな音だった。

店主の身体が少しずつ光になっていく。

それでも店主は笑っていた。

「悪い。約束…守れそうにねぇな。」

その時――

「お兄ちゃん!」

路地裏の奥から、聞き覚えのある声が響いた。

店主はゆっくり振り返る。そこには座敷わらしが立っていた。

息を切らし、泣きそうな顔をしている。

「忘れ物!って……。」

座敷わらしの顔から笑顔が消えた。

「え……?」

光になっていく店主。初めて見るその姿。

店主は困ったように笑う。

「見つかっちまったか。」

座敷わらしの瞳から涙があふれる。

「……お兄ちゃん。どうして…どうしてなの。」

店主は優しく頭を撫でる。

「泣くな、笑ってる方がお前らしい。」

座敷わらしは首を振る。

「嫌だ!行かないで!」

その叫びが夜空に響いた。

店主は最後に、いつものように笑う。

「またな。」

その一言とともに、身体は無数の光となって夜空へ舞い上がった。

光は空の亀裂へ吸い込まれ――

世界中を優しい光が包み込む。

割れていた空は、ゆっくりと元へ戻っていく。

止まっていた風が吹き始める。森に緑が戻る、海が輝きを取り戻す、人々は再び笑い始める。

世界は救われた。

しかし、路地裏にはもう、ラーメン屋はなかった。

暖簾も、提灯も、屋台も。何も残っていなかった。

ただ一つ。

湯気の立つラーメンの香りだけが、そこに漂っていた。

座敷わらしはその場に座り込み、泣きながら笑う。

「……ごちそうさま。」

その声に応えるように、どこからか懐かしい声が聞こえた。

「おう。また来い。」

座敷わらしは空を見上げる。

そこには満天の星空が広がっていた。

そして、一つだけ。

誰よりも明るく輝く星が、静かに笑っているように見えた。

世界は、白く染まっていた。

空もない、大地もない、風もない、音もない。

ただ、どこまでも続く白い世界。

店主は静かに目を開けた。

「……ここは。」

自分の身体を見下ろす。

光となって消えたはずの身体は、元の姿に戻っていた。

少しサイズの合っていない割烹着。

いつもの草履。

いつもの姿。

「死んだ……ってわけじゃねぇのか。」

その声だけが、白い世界へ静かに響く。

「死んではいないよ。」

後ろから、優しい声が聞こえた。

振り返ると、十九杯で現れた白い着物の人物が立っていた。

その表情は、どこか穏やかだった。

店主は肩をすくめる。

「また会ったな。」

「うん。」

「お疲れさま。」

白い着物の人物は静かに微笑む。

「君は最後まで世界を守った、みんなの笑顔を守った。だから世界は救われた。」

店主は苦笑する。

「守れたのは、世界じゃねぇよ。一杯のラーメンだけだ、それで十分だった。」

白い着物の人物はそう答えた。しばらく二人は何も話さない。

やがて店主がぽつりと呟く。

「……みんな、笑ってたか。」

「うん。」

「最後まで。」

その言葉を聞き、店主は安心したように目を閉じた。

「そっか。」

白い着物の人物は店主の隣へ歩いてくる。

「これで終わりだ。」

「君は役目を果たした。」

「もう休んでもいい。」

店主は何も答えない。

ただ静かに前を見つめていた。

白い世界の向こう側には、小さな光が無数に浮かんでいる。

それは世界で生きた命の記憶だった。

笑顔、涙、怒り、恋、別れ、希望。

その一つひとつが、星のように輝いていた。

店主は小さく笑う。

「いい世界だった。」

「君が創った世界だから。」

「違う。」

店主はゆっくり首を振る。

「俺が創ったのは箱だけだ。世界を作ったのは、あいつらだ。人間も妖怪も神様も。みんな勝手に笑って、勝手に泣いて、勝手に幸せになった。だから、俺は何もしてねぇ。」

白い着物の人物は優しく笑った。

「相変わらずだね。」

店主は照れくさそうに頭を掻く。

その時だった。

白い世界のどこからか、小さな声が聞こえた。

「……お兄ちゃん。」

店主の表情が止まる。

「……。」

もう一度。

「お兄ちゃん。」

今度ははっきり聞こえた。

店主はゆっくり振り返る。

誰もいない。

それでも声は聞こえる。

「お兄ちゃん起きて。まだ終わっちゃだめ。」

店主は目を見開いた。

「あいつ……。」

白い着物の人物も驚いたように目を細める。

「まさか、記憶が……。」

その瞬間。

白い世界へ、一筋の涙が落ちた。

ぽちゃん。

その一滴から波紋が広がる。

波紋は世界全体へと広がり、無数の光を揺らした。

店主は静かに呟く。

「座敷わらし……。」

白い着物の人物は静かに頷く。

「君は、一人だけ記憶を持っていると思っていた。でも違った、あの子も君との時間を覚えている。」

店主は苦笑した。

「まいったな。約束、忘れてなかったのか。」

白い着物の人物は店主へ問いかける。

「選んで。このまま終わるか。それとも、もう一度、世界を創るか。」

白い世界は静まり返る。

店主はしばらく考えていた。

やがて、小さく笑った。

「……答えなんて決まってる。俺はラーメン屋だ、店を閉めるなら。最後の客を見送ってからだ。まだ、約束を守れてねぇ。」

白い着物の人物は嬉しそうに笑う。

「やっぱり、そう言うと思った。後悔するよ。」

「しねぇよ。」

「また悩みを抱えた奴らが来る。だったら、またラーメンを作るだけだ。」

白い着物の人物は静かに両手を広げる。

白い世界が眩しく輝き始める。

「では、もう一度世界を始めよう。」

光が溢れる、星が生まれる、空が生まれる、海が生まれる、山が生まれる。

風が吹く、花が咲く。

人間が生まれる、妖怪が生まれる、神々が生まれる。

そして――

一台の小さな屋台が現れた。


雪が降る夜。路地裏。

店主は屋台を引きながら歩いていた。

「ここなら静かだな。」

屋台を止める、提灯に火を灯す、暖簾を掛ける。

「さて、開店するか。」

その時だった。

路地裏の奥に、小さな影が倒れている。

店主は慌てて駆け寄った。赤い着物、小さな身体、震える肩。

一杯目と同じ座敷わらしだった。

店主は優しく声を掛ける。

「大丈夫か?」

少女はゆっくり目を開く。

その瞬間。大粒の涙が溢れた。

「……お兄ちゃん。」

店主は驚く。

「え?」

少女は泣きながら笑った。

「やっと、やっと会えた。ずっと待ってた。」

店主は首を傾げる。

「俺たちどこかで会ったか?」

少女は何度も涙を拭く。

「ううん、初めて……初めて、なんだけど知ってる。お兄ちゃんは優しいラーメン屋さん。」

店主は不思議そうな顔をしながら笑う。

「変な子だな。とりあえず、腹減ってるだろ?」

少女は笑顔で頷いた。

「うん!ラーメン食べたい!」

店主は鍋に火を入れる。

「任せろ。」

湯気が立ち上る。

優しい香りが路地裏に広がる。

その光景を見ながら、座敷童は心の中で小さく呟いた。

(今度こそ私がお兄ちゃんを一人にしない。)

暖簾が夜風に揺れる。

そこへ、一人の客が現れた。

「こんばんは。」

店主はいつもの笑顔で迎える。

「いらっしゃい。今日は、どんな悩みだ?」

湯気は夜空へと昇っていく。

その先にある未来が、どんな形になるのかは、まだ誰にも分からない。

けれど一つだけ、確かなことがあった。

この小さな屋台には、今日も誰かの「いただきます」と、誰かの「ごちそうさま」が響く。

そして、その一杯が、また誰かの明日を少しだけ温かくする。


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