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目の前に座ったアサという女性は、ここによく来ているらしい。
「ここのナポリタン、食べたことありますか?」
「無いです」
「すごく美味しいんですよ。今日は私の奢りです」
「そんな悪いですよ、初めて会ったのに」
「奢ってでも食べて欲しいくらい美味しいんです」
自分が作るわけじゃないのになぜか自慢げなアサは、また自然と私の笑みを引き出した。
「……ふふ、結構強引ですね」
「美味しいものは誰かと共有したいじゃないですか」
運ばれてきたナポリタンは、鉄板の上でジューっと湯気を立てている。スプーンとフォークを用意し、私たちは両手を合わせた。
「いただきます」
熱々のナポリタンを口に運ぶと、酸味と甘みの強いケチャップソースが太麺とよく絡み、玉ねぎやピーマンの食感がいいアクセントになっている。鉄板で少し焦げた部分も香ばしくて、粉チーズの風味ともよく合う。プリっとしたソーセージもジューシーで、正直今まで食べたナポリタンの中でダントツに美味しかった。
アサは服の胸元に紙ナプキンの端を折り入れ、紙エプロン替わりにしてナポリタンを頬張っていた。
「それ、ケチャップが跳ねないようにしてるんですか?」
「そうです。それでも、袖とかに跳ねちゃったりするんですけどね」
彼女は笑って言う。
「でも、跳ねたら洗濯するの面倒だし、服が汚れるのってショックじゃないですか」
そう言うと、アサは「うーん」と首を傾げ、その後、ふふっと笑った。
「その時はショックでも、服に跳ねたケチャップを見て後から思い出すのは好きなんです。あぁ、ナポリタン美味しかったなって」
アサはまた嬉しそうに笑い、ナポリタンを口に運ぶ。
「須田さんは、今まで見た一番綺麗なものって思い出せますか?」
「え? うーん……」
そう言われると、パッと浮かばない。美術館で見た絵画とか、家族旅行で行った海辺の景色とか、綺麗なものはたくさん見た気がするけど、一番かと聞かれるとどれもピンと来ない。
「綺麗なものって、記憶に残りづらいんですよね」
「……え」
「汚れたら、その時はショックでも、その分心に残るんです。ケチャップ跳ねちゃったけどナポリタンは美味しかったよな、って思い出すことが出来る。もちろんわざと汚れるのはどうかと思いますけど、ナポリタン食べるくらい自由じゃないですか。汚れるから食べちゃダメなんて、そんなことは無いです」
自分が食べているナポリタンを見つめ、確かにこんなに美味しいものを、汚れるからという理由で食べないのはもったいないなと感じた。
「誰かに迷惑をかけてるんじゃないのなら、綺麗かどうかより、記憶に残ったそれを、自分が大切にできるかどうかが大事なことだと思うんです」
ナポリタンを食べ終わったアサは、フォークを置いて私を見た。
「だから、汚れてもいいんじゃないかな」
ご馳走様でした、と手を合わせる彼女を見て、私も最後の一口を食べ終え、手を合わせる。
「ここのナポリタン、美味しかったでしょ」
「……めちゃくちゃ美味しかった」
「口の周り、汚れちゃいましたね」
紙ナプキンで私の口を拭ってくれるアサの指に、透明な雫が落ち続ける。少しだけ、自分のことを許せそうな気がした。
蝉の声が響く校内で、私はいつものように先生に数学を教わっていた。
「……と、こんな感じかな。大体理解できましたか?」
「…………」
「須田さん?」
「ごめんなさい、理解、ずっとできてました」
「……そうなんですか?」
「今は、違うこと考えてました」
「どんなこと?」
「……汚れちゃった自分を、許す方法」
私は参考書と筆記用具を持って立ち上がった。立花先生は困ったような顔で私を見上げる。
「もう補習は大丈夫です。だけど、もし分からなくなったら、また聞きに来てもいいですか」
「それは、もちろん」
未だ困惑顔の先生に深々と頭を下げ、私は教室を出る。
染まってしまったものはもう仕方がない。でも、染まらなければよかったなんて、今は思わない。
「さて、勉強すっかー」
この気持ちとどう向き合っていくかは、卒業までゆっくり考えるとしよう。




