7(愛情と憎悪は同時に成立する)
ヨシ君のお母さんは、朗らかで、いつもにこにこしている。愛嬌が多めで、ちょっとしたマスコットというところだ。カエルの子はカエルなんていうけれど、ヨシ君とはほとんど共通点がない。あるとしたら目元とか鼻筋とか、顔のいくつかの細かい部分、二人とも比較的やせていることくらいだろうか。
インターホンを鳴らしたわたしは、そのヨシ君のお母さんに迎えられていた。わたしはさっそく用事を伝えて、ヨシ君に直接会えるようお願いをする。
「あらあら、それはどうもわざわざありがとね」
と、ヨシ君のお母さんはにこやかに言った。いつもながら、春風みたいに和やかである。
正直なところ、ヨシ君のお母さんを相手にしていると知らないうちにケーキをごちそうになっていたりするので、わたしは警戒する。それはそれで嬉しいのだけど、今日は違う用事で来たのだから気をつけなくちゃいけない。初志貫徹は大事だ。
「ヨシ君は、いますか?」
わたしはちょっと家の中の様子をうかがいながら言った。特に物音とかはしない。ヨシ君は一人っ子で、お父さんもまだ帰ってきていないはずだった。
「あの子なら、部屋にいるわよ」
と、ヨシ君のお母さんはあっさり教えてくれる。
「ここのところずっとこもりっきりで、何かしてるらしいのよね。たまには外で遊んだほうが健康にいいと思うんだけど、私は」
どうやらヨシ君のお母さんにとって、ヨシ君が学校に行ってないことはあんまり重要じゃないみたいだった。もしかしたら、そのほうが健康的ではあるのかもしれない。
わたしは階段のほうをちらっと見てから(ヨシ君の家は二階建てなのだ)、訊いてみた。
「二人だけで話したいことがあるので、ヨシ君の部屋まであがらせてもらっていいですか?」
ヨシ君のお母さんは気にした様子もなく、にこにこと答えてくれた。
「ええ、もちろんかまわないわよ。積もる話もあるでしょうしね」
ちょっと天然のはいった発言だったけど、放っておくことにする。今はそれどころじゃない。
お邪魔します、と断ってから、わたしは二階にあるヨシ君の部屋に向かった。何度か来たことはあるので、勝手はわかってる。
階段をあがって、短い廊下のつきあたりにドアがあった。ごく普通の、何てことのないドア。頑丈な鉄で出来ているわけでも、意味深な言葉が書かれているわけでもない。鍵もかかっていないし、ドアノブに札がかけられたりもしていない。
わたしがほとんど何も考えずにドアをノックすると、中からは返事があった。入ってもいいかどうか訊くと、入ってもいいと答えが返ってくる。何だかそれは、山彦みたいに現実味がなかったけれど。
「じゃあ、開けるよ」
わたしはそう言ってから、ドアノブに手をかける。
ドアを開けると、当然だけどヨシ君の部屋だった。シンプルで、飾りけがなくて、何もない。机に、ベッド、本棚、タンス――三分もあれば、必要なものは全部スーツケースに詰めて持っていってしまえそうだった。
ヨシ君は奥の窓際の机に座って、ノートパソコンで何か作業中だった。玄関でわたしとお母さんが話してたのは聞こえていたはずで、わたしが来たことにはとっくに気づいてたのだろう。
「どうかしたの、紬?」
約二週間ぶりのヨシ君の挨拶は、びっくりするくらい普通だった。
わたしはそれまで考えていたことや、悩んでいたことや、悶々としていたことを思いだして、何だかむっとしてしまった。ジャムの蓋がみぞとずれて、うまく閉められなかったときみたいに。
「これ、学校のプリント。先生が渡してくれって」
ちょっとだけ怒ったみたいに、わたしは言う。でもヨシ君は、
「うん、ありがとう」
と、やっぱり驚くほど普通だった。もしかしたら、そういうところはお母さんに似たのかもしれない。
わたしは紙袋をつぶすくらいのため息をついてから、あらためて言った。ヨシ君に腹なんか立てたって、無駄なのだ。そんなのは、風船をできるだけ遠くまで投げようとするのと同じだった。
「それで――」
とランドセルをどかっと床に置いて、わたしは勝手にベッドの上に座った。
「ヨシ君は今まで、何をしてたわけ?」
「…………」
でもヨシ君は、すぐには答えなかった。雨が降りそうなとき、傘を持っていくかどうか迷うみたいに。
「ヨシ君は、お父さんからカメラを借りたんだよね」
わたしはかまわずに、前に進むことにした。その先が大嵐だろうが、猛吹雪だろうが、もう知ったことじゃない。
「そのカメラを、モミジが死んでた例の踏み切り近くにある和菓子屋さんに仕掛けたのが、二週間前。それから、駅前でモミジに関するチラシを配ってたのが、一週間前。和菓子屋さんのカメラを回収したのが、つい先日――」
わたしがしゃべっているあいだ、ヨシ君に目立った変化はなかった。ただ黙って聞いているだけで、エジプトのミイラみたいにじっとしている。
でもわたしは、やっぱりそのまま続けた。
「――ヨシ君は言ったよね、〝モミジは殺された〟って。誰かに首を切られて、線路の近くに置かれたんだって。だったらもしかして、ヨシ君は犯人を探してるんじゃないの? そのためにカメラを使って、いろいろやったりしてた」
わたしの言葉が終わっても、ヨシ君はまだ黙っていた。砂時計の砂が、なかなか落ちきらないみたいに。
それでもしばらくすると、ヨシ君は口を開いた。引きだしをそっと開くのと、同じ調子で。
「だったとしたら、紬はどうするの?」
訊かれて、わたしは迷いもしなければ、ためらいもしなかった。自分でも、ちょっとびっくりするくらいに。
「わたしはただ、知りたいだけ。ヨシ君が何をしているのか、何を考えているのか、気になるだけ――」
その言葉がヨシ君のどこに届いたのかはわからないけど、どこかには届いたみたいだった。ヨシ君は本の埃を払うくらいの時間のあと、言った。
「……うん、ぼくはモミジを殺したのが誰なのか、ずっと探してたんだ」
もちろんそれはわたしの言ったとおりで、予想したとおりなのだけど、それでも面と向かって言われると、ぎくっとしてしまう。
「でも、モミジを殺した犯人を探すだなんて、どうやって? そんなの、無理なんじゃ」
とりあえず、わたしは訊いてみた。危ないとか、無茶だとかは、いったん置いておく。
「普通に考えたら、そうだと思う」
と、ヨシ君はあっさり認めた。
「だからぼくは、いくつか仮説を立てたんだ。それにしたがって情報を集めて、それを検証した」
「仮説って、どんな?」
あの現場から、どんなことがわかるっていうんだろう。
「問題は、何でモミジの死体をわざわざあんなところに置いたのか、ってことなんだ」
ヨシ君は特に自慢げでも、得意そうにでもなく言う。
「何でって、それは首が切れてるのを怪しまれないためなんじゃ……」
とわたしが反射的に答えると、ヨシ君は首を振った。
「それも少しはあるけど、本当は違うんだ。だって、そんなことをするくらいなら、はじめからあんなところに置かなければいいんだから。どこか人の来ないところに埋めるなり、捨てるなりすればいい」
「――それも、そうか」
「つまり、犯人は意図的にあの場所に置いたんだ。人に見られるかもしれない危険を冒してまではたしたい、何か目的があって、あの場所に」
どんな目的があるのか、わたしは考えてみた。でもそんなの、わかりっこない。
「犯人はね」
と、ヨシ君は言った。
「モミジを晒しものにしたかったんだよ。わざと人目につくところに置いて、辱めたかった。そうやって――復讐したかったんだ」
「復讐……」
かなり、意外な言葉だった。
「写真で何度も確認したけど、モミジの首はきれいに切られてた。丁寧に、慎重に。まるで、傷つけないようにするみたいに」
「傷つけないように、傷つけた?」
「たぶん犯人は、モミジのことが好きだったんだ。でもモミジは、それに応えなかった。モミジはそんな猫じゃないから」
それは、わかる気がした。
「愛情と憎悪は、ねじれているにしろとても近いところにある。場合によっては、その両方が同時に成立することだってある」
「殺したいくらい、好きだった?」
「あくまで、仮説だけどね」
ヨシ君は結論を急がない。
「そのうえで、もう少し仮説を進めてみた。目的が復讐だとして、どうしてあの踏み切り近くを選んだのか? それはもしかしたら、犯人があの踏み切りをよく利用してるからなんじゃないか。そうすれば、モミジが晒しものになっているのがよくわかるし、何食わぬ顔でそれを見ることだってできる。注目されているにしろ、無視されているにしろ。それに人に見られるかもしれないリスクがある以上、犯人はよく知った場所を選びたかったかもしれない」
「つまり犯人は近所に住んでて、駅まで行くのにあの踏み切りを使ってるってこと?」
わたしが訊くと、ヨシ君は簡単にうなずいてみせた。当然だけど、クラッカーを鳴らして「ご名答」なんて褒めてくれたりはしない。
「それと、もう一つ仮説を加えてみた。犯人はモミジの首を切断してる。それも、ごく丁寧に。だとしたら、作業は慎重に、邪魔の入らないところでやった可能性が高い。魚をさばくのとは違うから、そんなところほかの人に見られるわけにはいかない。つまり、犯人は一人で暮らしていて、自分の家でモミジの首を切断したと考えられるんだ」
「駅を利用してて、一人暮らし?」
「うん、だから犯人は、若くて、どこかに勤めてる人だって仮定できる。そこまで条件を絞ったうえで、調べてみることにしたんだ」
「……そのための、カメラ?」
言ってから、わたしは自分でも戸惑ってしまう。まさか、ヨシ君は。
「そうなんだ、あそこの踏み切りを使ってて、若くて、通勤していると思われる人を、全員撮影してピックアップしてみた」
「だって、そんなの一体何人くらいの人が――」
わたしはちょっと、言葉につまってしまう。
「街の広報によると、朝の時間帯に駅を利用してるのは、千人くらい。人口比から考えて、そのうちの六割くらいが通勤客だと考えられる。そのうち、二十代から四十代くらいとすると、また数は減ってくる」
「だとしたって……」
そのうちの一人ひとりを、いちいち識別していったということだろうか。
「ぼくは昔から、人の顔を覚えるのは得意なんだよ」
ヨシ君はちょっと、古くて懐かしい感じの笑顔を浮かべる。そうして、続けた。
「結論から言うと、あの踏み切りを通ってて、条件にあう人は全部で十五人いた。年齢があってて、一週間のあいだに少なくとも四回は姿を見せた人はね」
「一週間……」
その数字に、わたしの頭が反応する。ちょうどそのタイミングで、ヨシ君はチラシを配りはじめたのだ。
「うん、これでだいぶ候補は減ったけど、犯人を見つけられたとはいえない。それで、こっちから条件を足すことにしたんだ」
「それが、チラシ?」
「犯人がやってることは計画的で、衝動的とはいえない。だとしたら、自分のしたことが犯罪だって、ちゃんと認識してるはず。そんな人があのチラシを見たら、多少の危機感は持つだろうからね」
そこからまた、一週間の撮影。
「首切りを電車に轢かれたせいだと見せかけるくらいだから、犯人は危ない橋なんて渡りたくない。だとしたら、今はできるだけ現場に近づきたくないと思うはず。つまり、十五人のうち……」
「映像からいなくなった人が、犯人?」
ヨシ君はうなずいて、机の上のノートパソコンに目をやる。そのパソコンを使って、撮影した映像をチェックしていたんだろう。たぶん何時間も、何十時間もかけて。
「最終的な条件にあう人は、一人だった。だからその人のことを、いろいろ調べたよ。ぼくの仮説が正しいとすると、その人が犯人なんだ」
「犯人がわかって、ヨシ君はどうするつもりなの?」
警察に相談する、というのがたぶん一番正しくて、まともで、理にかなっているのだけど。
それに対するヨシ君の答えは、ある意味予想外で、ある意味予想内だった。わたしはその答えをもうずっと前から知っていて、でもたぶん――それに気づかないようにしていた。
「ぼくはこれから、その人のところに行くつもりなんだ」
ヨシ君は気負うわけでもはりきるわけでもなく、かといってためらうわけでも怖がるわけでもなく、どちらかといえば平然と、近所の公園にでも出かけるみたいに言った。
――もしかしたら、そのせいだったのかもしれない。
ヨシ君があんまりにも平気で、あたりまえで、何てことのない顔をしているせいで、たぶんわたしの頭は混乱して、気が動顚してしまったのだ。
じゃなきゃ、こんなバカみたいなこと言うはずがない。
「それ、わたしもついて行くから――!」
気づいたときには、私の口からはカエルがぴょこんと跳びはねるみたいにして、そんな言葉が飛びだしていたのだった。