6(ひょうたんからは意外なものが飛びだすものである)
「杏野、ちょっと職員室までいいか?」
と先生に訊かれたのは、放課後のことだった。
わたしたちの担任は、寺本康平という。まだ若い男の先生で、海藻っぽい縮れた髪をしていた。熱血漢というよりは省エネタイプの人で、料理に加えた塩少々くらいにずぼらなところがあった。でも生徒からは、それなりに人気があったりもする。
終わりの会もすんでしまって、教室は乱暴につめこまれたおもちゃ箱みたいにごみごみしていた。あっちこっちに声がとびかい、物音は遠慮なくはねまわっている。
声をかけられたわたしの頭の中では、いくつかの可能性が出たり入ったりした。何かまずいことをして叱られるのか、思いもしないことで褒められるのか。
でも思いあたることなんて一つもなかったし、とにかくついて行ってみるしかなかった。ひょうたんからは、何が飛びだすかわからないものである。
授業中より少し広くなったような廊下を、わたしと先生は歩いていく。何となく人の視線が気になるのは、たぶん気のせいだ。
職員室までやって来ると、わたしは先生の机のところまで連れてこられた。整理されているような、されていないような、いいかげんな机だった。まあまあ、本人のことを反映しているのかもしれない。
イスに座った先生は、まず一枚のプリントをわたしに向かって差しだしてきた。
「悪いけどこれ、宇代の家まで届けてやってくれないか」
プリントを見ると、さっきもらった学級だよりだった。これだったら、わざわざ職員室にまでやって来る必要なんてない。
つまり先生には別に、本当の目的があるということだった。
案の定というか、先生はたまたまボールが転がってきたみたいな、そんなさりげなさで言った。
「時に、杏野は宇代と仲がよかったよな」
わたしはプリントから顔をあげて、先生のほうを見る。
三十六歳、独身の寺本先生の表情は、意外とわかりにくい。少なくとも、眠たそうなフクロウと同じくらいには。
「たぶん、そうだと思いますけど」
と、わたしは慎重に答えておいた。
「それが、どうかしたんですか?」
「いや、なに、宇代のやつ長いこと学校に来てないからな。お前なら何か知ってるんじゃないかと思ったんだ」
わたしはふと、モミジのことを話してみようかと思った。でもやっぱり、やめておく。別に約束したわけでも、釘をさされたわけでもないけど、ヨシ君はそれを望んでいない気がしたから。
それに正直なところ、先生がモミジのことに気づいているかどうかも怪しかった。
「先生のほうこそ、何か知らないんですか?」
わたしは逆に、訊いてみた。
「それがわからないから、困ってるんだ」
苦めのコーヒーを飲んだくらいの顔を、先生はした。
「親御さんに訊いてみても、はっきりしなくてな。自分なりの考えを持ってるし、しっかりしたやつだから、大丈夫だとは思うんだが。とにかく本人がその気になったらいつでも戻ってきてほしいとは伝えてある」
わたしとしても仕方がないとは思うけど、まあまあ頼りにならない先生ではある。
それで話はおしまいかと思ったら、そうじゃないみたいだった。「じゃあ、わたしはこれで」と帰ろうとしたところで、先生が言ってきたからだ。
「あいつがチラシを配ってたことについては、何か聞いてないか?」
わたしはぴたっと足をとめて、先生のほうを振りむいた。
「チラシって、何のことですか?」
「何でも、駅前でそんなことをしてたって話だな」
先生はぼりぼり頭をかきながら言った。あんまり、清潔感のある行為とはいえない。
「それが、例の学校にいついてる猫、モミジのことについてのチラシらしいんだよ」
「モミジについての?」
ますます、わからない。
「俺もよくは知らんのだが、話によればそうなってる。それも変わってるのは、猫を探してますってチラシじゃなくて、飼い主を探してますってチラシらしいんだよ」
わたしはふと、和菓子屋のおばさんに聞かされた話を思いだしていた。あの時も、ヨシ君は飼い主を探すのを口実にしてたっけ。
「あの猫に飼い主がいるなんて、俺も知らなかったんだがな」
と、先生は微妙にずれた発言をした。独身なのも、仕方がない。
「よくわからんのは、何で宇代がそんなことをしてるのかってことなんだ。猫が怪我でもして保護してるから、飼い主を探してるってことなのか? 本人に訊こうにも、学校には出てこないし、どうにもならん。こんなこと訊きに家庭訪問てのも、大げさな気がするしな」
腕組みをして考え中の先生は置いておくとして、わたしは頭の中をぐるぐるかきまわしていた。
もちろん、ヨシ君がカメラを借りたことも、和菓子屋さんにそれを仕掛けたことも、チラシを配っていたことも、偶然なんてことはありえない。全部、何か関係しているのだ。全部、モミジが死んだことと関係しているのだ。
そう思って、わたしはふと訊いてみた。
「……ヨシ君がチラシを配ってたのって、いつ頃のことなんですか?」
先生は特に気にした様子もなく、あっさり答えてくれた。
「一週間くらい前らしい。といっても、実際にチラシを配ってたのは、二三日のことらしいが」
カメラを借りて和菓子屋さんに置いたのが、二週間前。モミジに関するチラシを配ってたのが、一週間前。そしてそのカメラは、もう回収してしまっている。
もしかしたら、ヨシ君はもう何らかの目的をはたしてしまったのかもしれない。だからカメラも不要になって、片づけてしまうことにした。
ヨシ君の目的――
それは一体、何なのだろう?
「…………」
わたしはあらためて、渡されたプリントに目を落としてみた。
プリントには五月の出来事だとか、これからの行事、保健の先生からの伝達なんかが書かれている。でもそこには、モミジのことも、ヨシ君の不登校も、古代のエジプト人が猫のミイラをお土産にしていたことも、何も書かれてなんていない。
「とにかく、聞いてみます」
わたしはほとんど独り言みたいにして、そうつぶやいていた。
ランドセルをかついで歩きながら、わたしは道々考えていた。
モミジとヨシ君、モミジの死、ヨシ君のいくつかの行動――
でもわたしには、それをどう組みあわせていいのかも、そのあいだをどう結びつけていいのかも、さっぱりわからなかった。ばらばらになったパズルの前で、途方に暮れるみたいに。
何しろヨシ君はそこに、親切な印をつけておくことも、わかりやすい解説書を用意してくれることも、ヒントになるようなメッセージを残しておくこともなかったのだから。
そう思うと、わたしは何だか腹が立ってきてしまった。自分でもちょっと勝手だし、理不尽だとは思うのだけど、どうしても。
ヨシ君はいつも、何も話してなんてくれない。親切で、優しくて、頭もいいけど、いつも大またで一歩くらい、遠くにいる。心の戸締りをきちんとして、丁寧に鍵をかけて、「邪魔をしないでください」と札をかけている。
それはもちろんヨシ君の自由で、わたしがつべこべ言うことなんかじゃない。ペンギンに空を飛べといったり、クジラに地面を歩けなんていったって、仕方がないのと同じで。
でも、わたしは――
そもそもどうしてわたしは、ヨシ君のことがこんなに気になるのだろう。どうして夜空を見上げて星を探してしまうみたいに、ヨシ君のことを考えるのだろう。
あの遠足の時に助けてもらった、恩義だろうか? わたしはそれをいつまでも忘れられないで、何とかしてそれを返したいと思ってる。
いや――
わたしが感じているのは、もっと違うものだった。
もっと、別の――
心のとても大切な、とても柔らかな部分から出ているものだった。世界の初めに空から降ってきた雪の一片みたいな、春の一番最初に地面から芽吹いた草の種みたいな、そんな。
わたしがそんなふうに、ああでもない、こうでもないと考えているうちに、いつのまにかヨシ君の家までたどり着いていた。こうなったら、いくら案じたって時間の無駄というものだ。
「よしっ――!」
と、わたしは自分にむかってよくわからない気あいを入れてから、玄関のインターホンをそっと押した。