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3(時計の針くらいの小さな音)

 ――実のところ、わたしはヨシ君に助けられたことがあるのだ。

 昔々、といってもおじいさんとおばあさんがいたわけじゃなくて、柴刈りも洗濯も関係のない、わたしが一年生だった頃のこと。

 入学して早々の、遠足の日のことだった。

 親睦会的なその遠足は、一年生が六年生に連れられて近くの運動公園に向かう、というものだった。ちょっと歩いて、遊んで、お弁当を食べて、また学校まで戻ってくる、というだけの。

 でもまだ入学したてで、右も左もわからないわたしにとっては、それはジャングルの奥地に探検するのと何も変わらないことだったのである。

 訳もわからないままリュックを持たされて、訳もわからないまま六年生のお兄さんとペアを組まされて、訳もわからないまま学校を出発する。

 何だか、ダンボール箱に詰めこまれてどこかに送られる、荷物にでもなったみたいに。

 それでも、何とか目的の運動公園までたどりついて、よくわからないレクリエーション(ハンカチおとしとか、ジェスチャーゲーム)をこなして、まだよく知らない友達とお弁当を食べて、何とか問題なくイベントを消化していく。

 問題が起きたのは、自由時間のあと、学校に帰るときのことだった。

 公園をあっちこっち歩いていたわたしは、いつのまにか元の場所に戻れなくなっていたのだ。自分が今どこにいるのかわからないし、どうやってそこまで来たのかもわからない。

 おまけに、公園にはたまたまよその学校の生徒たちも来ていて、似たような子供たちがあふれかえっていた。そんな中から、覚えてもいない同級生や、引率の先生や、注意不足の六年生を見つけるのなんて、不可能だった。

 つまるところわたしは、迷子になったのだ。

 そのことに気づくと、わたしは泣いてしまいたくなった。何しろ一人ぼっちでどうしていいかわからないし、たいした知恵や分別なんてものもない。そんなのは、からっぽの貯金箱からお金を取りだそうとするみたいなものだった。

 そうやって、わたしが幼いトラウマを抱えこもうとしているときのことだった。

 ――ヨシ君が現れたのだ。

 わたしを探しにきたのか、ただ近くを通りかかっただけなのか、それはわからなかった。でもヨシ君はきっと、新聞紙をくしゃくしゃにしたみたいなわたしの泣きっつらを見て、訊いてきたのだ。

「君、杏野あんのさんでしょ」

 それはもちろん、わたしの名前だった――杏野紬あんのつむぎ

「もうすぐ時間だけど、みんなのところに戻らないの?」

「……戻りたいけど、戻れない」

 わたしはぐずぐずした声で、そんなことを言ったはずだった。元の場所も、みんなのことも、手をつないでいた六年生のお兄さんも、全部忘れてしまったから。

 するとヨシ君は、励ますでも、慰めるでも、得意になるでもない、何だか温度のない声で言うのだった。

「なら大丈夫だよ、ぼくが覚えてるから」

 わたしはヨシ君のことを見たけど、特に不安が消えるわけでも、安心させられるわけでもなかった。何しろヨシ君の様子はどう見ても、頼りになんてなりそうになかったから。

 でも結果的に言えば、ヨシ君は正しかった。わたしたちはちゃんと元の場所に戻れたし、ペアの六年生を見つけられたし、何事もなく学校に帰ることができた。

 何故なら、ヨシ君はそのために必要なことを全部覚えていたから。

 今でもそうなのだけど、ヨシ君は人の顔や名前を覚えるのが得意なのだった。一度見ただけでも、ちょっと聞いただけでも、きれいにハンコでも押したみたいに、それを忘れたりしない。

 同じクラスとはいえ、入学したばかりでわたしの名前を知っていたのも、自分とは関係のないわたしのペアの六年生がわかったのも、そのせいなのだった。

 ともあれ、おかげでわたしは重篤な精神的障害を負うこともなく、何とか無事に学校生活をスタートさせることができたのだった。自分の間抜けさだとか、迂闊さだとかに気づくとともに。

 そうじゃなかったとしたら案外わたしは、今のわたしとはまるっきりの別人になってしまっていたかもしれない。今よりもう少しだけ臆病で、もう少しだけ引っ込み思案で。

 たぶんそれは、わたしにとっては不幸なことのはずだった。たとえ、ほんの少しだけだったとしても。

 ヨシ君がそのことをどう思っているのかは、わからない。きっと、そんなことは忘れてしまって、記憶の片隅にだって残ってはいないんだろう。いつかの道で蹴とばした小石の行方なんて、誰も覚えてたりしない。

 でも、わたしは――

 その時のことを、一度も忘れたことはないのだった。



 いつのことだったか、学校のベランダからヨシ君とモミジを見かけたことがある。

 二人はいつもみたいに、校庭のベンチに並んで座っていた。ただ並んでいるだけで、何かのためでも、何かをするわけでもなく。

 それは何だか寂しいような、切ないような、不思議な光景だった。

 モミジは誰に対しても残酷に、自分の思うとおりにふるまったけど、ヨシ君に対してだけは別だった。どんなわがままも、気まぐれも見せたりはしない。

 といってそれをなついているとか、愛情を示しているとか言うのは、違う気がした。たぶん朝と夜くらいに、それは違っている。

 そしてヨシ君のほうも、モミジのことは普通とは違うふうに扱っていた。特別に、大切に。それはやっぱり、好きだとか愛情だとかいうのとは、何だか違っていたのだけど。

 ヨシ君とモミジの関係は、信頼とか、友達とか、好きなもの同士とか、そういうのじゃなかった。

 たぶん、それは――

 それは何かを、確かめあっているみたいな感じだった。

 この世界に――

 この世界に、自分たちが一人ぼっちでいることを確かめあっているみたいな。

 ――そんな、感じだった。

 ヨシ君を見ていると、わたしは時々思うことがあるのだ。本当はそこにはいないみたいな、本当はどこにもいないみたいな、その姿を見ていると。

 一体、ヨシ君にとってこの世界はどういう場所なんだろう。

 そこにはちゃんとした喜びとか、楽しみとか、友達と仲よくしたい気持ちとか、何か面白いことをしたい気持ちとか、そういうのはあるんだろうか。

 わたしやみんなにとっては大切であたりまえなそういう気持ちが、ヨシ君には欠けているんじゃないだろうか。

 ヨシ君を見ていると、わたしは思うのだ。

 何だかそれは、ただからっぽで真っ暗なだけの夜空の中で、たった一つだけ星が光っているみたいだな、って。

 ヨシ君とモミジは、いつもみたいに校庭のベンチに並んで座っていた。何かのためでもなく、何かをするわけでもなく。

 それを見ていると、わたしの胸はずきりと痛むのだった。

 どこか胸の奥の奥のほう、どんなに手をのばしても届かないくらいの場所で、時計の針くらいの小さな音を立てて、ずきりと。

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