2(昔、猫のミイラはお土産だった)
教室から窓の外を眺めていると、モミジの姿があった。
運動場のはしっこ、桜の木が並んだあたりを歩いている。いつもみたいに堂々として、優雅で、世界に怖いものなんてない、という感じだった。
近くで遊んでいた低学年の子がそれに気づくと、嬉しそうにモミジのほうへと駆けよっていく。何しろ、人気者なのだ。
でもその子がすぐそばまで来ると、モミジはあっさりと逃げだしてしまった。慌てず急がず、ダンスのステップでも踏むみたいに。
その子は残念そうに立ちどまると、すごすごと友達のところへ戻っていった。それ以上追いかけても無駄なのは、わかっていたから。
すると友達のほうでは、その子を非難するようなそぶりをしてみせた。うっかりモミジを驚かせて逃がしてしまったことを、責めているんだろう。その子は申し訳なさそうに、しょんぼりしていた。
とことこ歩いているモミジは、でもそのことにちゃんと気づいているみたいだった。どことなく満足そうな、魔女っぽく意地悪そうな、そんな足どりをしているから。
本当のところ、モミジはきれいだけど――怖い猫だった。
相手がどれくらい自分のことを好きなのか理解していて、それをあますことなく利用してしまう。相手を悲しませるのも、喜ばせるのも、モミジにとってはネズミをもてあそぶのと同じくらい自由自在だった。人の気持ちを完全にコントロールすることができるのだ、この猫は。
モミジはいつでも、どこでも、自分の好きなようにふるまった。それこそ、女王陛下みたいに気まぐれに、わがままに(女王陛下が気まぐれでわがままかどうかは知らないけど)。
「また、やってるんだ」
とその時、急に横から声がした。
見ると、こよりちゃんだった――小見山こより。こよりちゃんはわたしと同じように、窓の外を眺めている。
「うん――」
うなずいて、わたしはもう一度窓の外に視線を向けた。
「今、モミジが低学年の子を振ったところ。いとも簡単に、ね」
「猫のほうもそうだけど」
と、こよりちゃんは自動販売機くらいに感情のない声で言った。
「人間のほうも、よくやるわよ。あんな猫、かまったって仕方ないのはわかってるのにさ。こりもしないで、それこそ鰹節を前にした猫といっしょよ」
「うん――」
わたしはまた、うなずいておいた。
こよりちゃんは、ちょっとだけ太めで、ちょっとだけ背の低い女の子だった。毛糸のほつれたみたいな癖のある髪をして、どうがんばってもおしゃれとは言いがたい眼鏡をかけている。
口さがない、というのがこよりちゃんの一番の特徴で、どんなことでもずけずけ言ってしまう。こよりちゃんの辞書に、遠慮という文字はない。だからみんなからはあまり好かれていないし、障子の隙間風くらいには嫌われている。
でも本人はそんなこと気にしていなくて、まったくどこ吹く風というところだった。正しいことは正しいし、間違ってることは間違ってる。ただそれだけのことに、遠慮も会釈も必要ない。
そしてそんなこよりちゃんのことを、わたしは何となく好きなのだった。少なくとも、こよりちゃんは嘘をつかなかったし、つまらないごまかしをしたりもしなかった。それに彼女のかけている眼鏡は無骨だけど、意外なほど曇りが少ない。
モミジの行方を無表情に追っていたこよりちゃんは、ふとつぶやくみたいにして言った。
「昔、エジプトじゃ猫のミイラも作ってたんだって」
「人間じゃなくて、猫の?」
わたしは表情に困りながら、こよりちゃんのほうを見た。
「そう、犬とか、猫とか、ワニとか」
相変わらず、こよりちゃんは算数の問題みたいに冷静だった。
「それでどうしたかっていうと、お土産にしてたんだって」
「――お土産」
わたしは少々、絶句してしまった。
「大量に作ってね、観光客に売ってたの。そのためには、子猫なんかも使ってたんだって。昔は避妊手術なんかもないから、きっと増えすぎて困ってたっていうのもあるんじゃないかな」
「ふうん……」
と、わたしは何となくお茶をにごすみたいにうなずいておいた。どうにも、コメントしにくい話ではある。昔の人にとってはそれが当然だったのかもしれないし、そういうことなら今の人がやっていることだって似たようなものなのかもしれない。
ともあれ、こよりちゃんは博識で、時々そんな話をしてくるのだった。ちょっと感心してためになるけど、日常生活では絶対に役立つなんてことのない話を。
「…………」
それからわたしはちらっと、教室のはしっこのほうに顔を向けてみる。
何人かの男子がそこではふざけあっていて、その中にはヨシ君の姿もあった。
ヨシ君――宇代吉樹くん。
女の子のわたしが見ても、線の細い、ちょっと弱々しい体つきをしている。ワット数の少ない電球みたいな、明るくもはっきりもしてない雰囲気や表情。存在感というか、現実感が薄くて、消しゴムをかけたらそのままきれいに消えてしまうんじゃないかな、という気がした。
そのヨシ君は五年生の時にいっとき、不登校になったのだった。
切れかけになって、ちかちか点滅する街灯みたいに、ヨシ君は学校に来たりこなくなったりした。それが段々、来ない時間が多くなって、とうとうごくたまにだけ学校にやって来るようになった。
――原因については、よくわからない。
当時のわたしはそんなヨシ君に向かって、質問してみたことがあった。下手な鉄砲を撃つみたいにして。
「何か嫌なことがあったとか?」
するとヨシ君は、答えるのだった。
「――ううん」
わたしはまた別の質問をしてみる。
「誰かにいじわるされたとか?」
それに対する、ヨシ君の答え。
「――違うよ」
ほかにも、わたしは思いつくかぎりの原因を十個くらい質問してみたけど、答えはどれも同じだった。
それでわたしは業を煮やして、ちょっと怒るみたいにして言ったのだ。
「じゃあ、何でなの?」
するとヨシ君は、絵の具をコップいっぱいの水で溶かしたみたいな、あまりはっきりはしない表情を浮かべてみせた。
「ぼくにも、それはよくわからないんだ」
本人にもよくわからないことが、わたしによくわかるわけはない。
それでも、六年生になったヨシ君は普通に登校してくるようになった。前みたいな、インクの出にくくなったボールペンみたいなことはなくなったし、毎日学校にやって来ている。
どうしてそうなったのかは、やっぱりよくわからない――
と言いたいところだけど、たぶんそれは違う。
ヨシ君が学校に来るようになったのは、モミジがいるからなのだ。モミジがいるから、ヨシ君は不登校をやめた。
でもそれは、ヨシ君がモミジに会うために学校に来るとか、ヨシ君はモミジのことが心配でほうっておけないのだけとか、そういうのじゃない。
そうじゃなくて、たぶんそれは――
ううん、やっぱりわたしには、よくわからなかった。ヨシ君が学校に来なくなった原因も、来るようになった理由も。
教室のはしっこで、ヨシ君たちのグループは笑った。あまり快活とはいえないし、視力検査の小さいマーク(ランドルト環というそうだ)くらいわかりにくかったけど、ヨシ君も笑っている。
蝶がぱたぱたするくらいに少しだけため息をついてから、わたしはまた窓の外に顔を向けた。
そこにはもうモミジの姿はなくて、いつもと同じ運動場の光景が広がっている。平和で、退屈で、変わりばえがしない、いつもと同じ運動場の光景。
わたしにわかるのはただ、少なくともヨシ君はそれなりにうまくやっているみたいだ、ということだけだった。