■図書館の少年編 その2~過去~5
イジメは急速に激減した。
例の殴り合いの一件以降、イジメっ子たちもさすがに飽きてきたのか、たまにいじられる程度で、これといった大きなイベントはほとんどなくなった。
平和で平穏な日々。
「負の連鎖は続く」
何かの書物で読んだ言葉だが、それは少年の杞憂に終わった。
その後は休み時間になっても図書室に行く数は減り、もっぱら転校生と話すことが多くなったのだが、そんなある日のこと。
「お前、どうしたんだ? その目のアザ?」
転校生が目を殴られたと見られる怪我をしたまま登校してきた。
「いや、別に……」
言葉を濁す転校生。
少年は何度か問い詰めたものの、結局ははぐらかされるばかり。
しかし、また数日後には転校生の顔に新しい怪我の跡が。
また、問い詰めても、転校生は以前と同じくはぐらかすのだった。
「僕はお前の友達として心配しているんだぞ!」
少年は本音でいうが、転校生は依然として口を開くことはなかった。
『イジメはなくなったのに、なぜ怪我をしているんだろう?』
気になった少年は、その日の下校時、転校生の後をつけた。
しかし、特に寄り道することなく、自宅へ。
『あの怪我は一体なんなんだろう?』
目を凝らし、家の中を見た。
居間には転校生と、中年の男の姿が。
見ると、転校生は叱られているようだ。
説教らしき時間はしばらく続き、まもなくすると中年男が手を上げるのが見えた。
『あっ!』
その後、中年男は少年のいる場所から離れて見えなくなった。
転校生は、その場で立ち尽くし、泣いたままだった。
◆■◆
「お前を殴った人、誰だ?」
町を一望できる丘に着くなり、少年は転校生に聞いた。
「……」
黙る転校生。
さきほども、少年が泣き止むのを待って家に訪問し、なかば強引にここへと連れてきたのだった。
「誰だって聞いているんだよ!」
声を荒げる少年。
その怒声に体を一瞬、ビクっとさせた後、転校生はおずおずと口を開いた。
「叔父さんだよ」
転校生は弱々しい声で呟いた。
「あれが、叔父さんか。で、なんで殴られたんだ?」
「テストの点数が悪かったからなんだ」
唖然とする少年。
ぬるく、その出来については見当がついていて、テストの点数が悪いくらいでは文句すら言わなくなった少年の家では考えられないことだった。
「そんなことくらいで殴られたのか?」
「うん。このままでは会社の後を継げるような立派な大人になれないって」
『大人……』
中学二年生の少年にとっては、まったく想像、考えのつかない世界。
でも、転校生はすでにその辺を見据えて、というよりは無理やり意識させられた生活を強いられている。
「ぼく、そろそろ行くね。習い事の時間だから」
少年にそう言うと、静かにその場を離れる転校生。
「おい……」
かける声が小さかったこともあるが、すでにその声は転校生の歩いてる場所にまでは届かなかった。
その次の日の晩、少年は自分の部屋のベッドで寝転がっていた。
両親と妹は、祖父母の家に泊まりで遊びに行っている。
海のあるその町で、海水浴をして帰ってくる予定だ。
少年は、運動に関することは苦手、というより苦痛しか感じない体質なので、その家族行事には参加しなかったのだ。
そのようなわけで留守番。
日課の図書館通いの後、家に戻ってからは誰もいないのをいいことに、早速オナニーをして一息つき、いましがたやることもなく、ベッドの上の人となっているのだった。
そして、少年は転校生のことについて考えていた。
『飼われているようなものだな』
不自由で息詰るような生活。
常に鍛え、学ぶ日々。
そして、大人になったとき、社長の椅子に好むと好まざると座らなければならない。
加えて、それにふさわしい人間になっていなければならないというプレッシャー。
『大人、か』
少年の身の上では、遠い未来のことと思っていたことだが、転校生にとってはそう遠くはない話。
立場が違うだけで、同じ年齢でもこうまで変わるものなのかと、少年はぼんやりと考えていた。
『まさか、オナニーも許されないような環境じゃないだろうな?』
さすがにそれはないか、と、つまらない考えを辞めて、ベッドから跳ね起きるとパソコンのある机の前に腰を下ろし、ジッパーを下げてから未成熟なイチモツを取り出した。
家の中では自由赴くままに振舞っている少年だが、ただひとつ満たされないのがオナニーだった。
狭いマンションの4人家族暮らしなので、いまはまだ妹と一緒の部屋なのだ。
そんなこともあり、今回の家族旅行は鬼の居ぬ間に洗濯とばかりに、ヌキ貯めをしておきたかったのも、参加しなかった理由のひとつでもある。
少年はその日、7回もオナニーをした。
久々の開放感で夜遅くまで起きていたことと、マスのカキ疲れで、再びヘッドの上になったときは、瞬間的に深い眠りに落ちた。
寝言をいい、大イビキをかき、鼻ちょうちんを作る。
実にのんびりとしたものである。
まさか目を開けたその時、世界が激変しているということも知らずに。
◆■◆
朝、少年は目を覚ました。
というよりは、無理やりたたき起こされたというほうが正しい。
突然起こった町の喧騒に。
『ちっ、うるせぇなぁ……』
手元に目覚まし時計を引き寄せて、時間を見てみる。
『まだ、8時ちょっとすぎじゃねぇか。それにしてもなんだ? この騒々しさは? 近所迷惑も考えろっつ~の!』
昨晩の眠りも遅く今朝は誰もいないこともあり、少年は無理矢理眠りの世界へと落ちていった。
そして1時間後。
外の喧騒は夢の中にまでづかづかと土足で上がりこみ、久しく見ていなかったイジメの夢を見た。
イジメっ子たちに、ドカドカとケリを入れられるという悪夢。
「あ~! くそ! うるせぇ!」
あまりの騒ぎに、もう寝ているところではない。
布団を跳ね除けてしばらくして眠気が去ったとき、外の騒々しさがただごとではないということに、遅ればせながら少年は気がついた。
『悲鳴? なんだいったい?』
メガネをかけ、しぶしぶカーテンを開けたとたん、少年は愕然とした。
『な、な、なんだ? 一体なにが起こっているんだ!?』
道路ではたくさんの車が衝突しており、ケガ人が道でゴロゴロしている。
しかも、なぜか白人ばかり……。
『意味わかんねー! どうなっているんだこりゃ?』
しばらくして、ハッとした。
それは外にいる人々の顔がみな同じになっているという違和感。
とっさに少年は自分の顔をまさぐり、仰天した。
『ぼ、僕の顔の感触とちがう!』
そう思うなり鏡の前に行き、自分の顔を確認してみた。
少年はイジメどころではないショックを受けた。
『か、か、顔が! 僕の顔が!』
鏡に映し出されているのは、いつもの知っている少年の顔ではない。
白人の子供の顔になっているのだ。
「は、は……」
声にならない声をあげ、呆然と立ち尽くす。
少年は身の上に起きた惨事を理解するのに、しばらく時間を要した。
◆■◆
「ツー、ツー……」
少年の耳に当てているケータイが、不通の音を立てている。
『だめだ、つながらない』
父、母、妹、祖父母、全員のケータイにコールしてみたが、どれにも通じない。
メールも打ってみたが返事も届かない。
力なく、肩を落とす少年。
『一人ぼっち……』
意味不明な事態にあわせて、頼れる身内もいない。
この事態に打ちひしがれた少年は、なかなか頭の整理がつかないでいた。
やることが思いつかず、呆然とケータイを見つめていたとき、少年は思い出した。
そう、転校生のことである。
『あいつはどうしたいるんだ?』
さっそくコールしてみるが、やはり不通。
『どうしよう? どうすればいいんだ!?』
またもやパニックが足りない少年の頭を襲う。
なんとはなしに窓から外を見てみると、そこは相変わらずの修羅場。
怒号と悲鳴の阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
その時、少年の住むマンションの居間のガラスが割られる音が聞こえた。
1階なので、何者かが割って入ってくるのかもしれない。
一瞬にして、戦慄する少年。
『ここにいては危険だ!』
イジメのときの習性で、危険の察知能力だけは人一倍長けている。
そう思うや否や、脱兎のごとく玄関を目指して走り出し、足早に部屋から逃げ出した。
◆■◆
「はぁ……はぁ……」
ない体力を振り絞り、かなり遅い速度で走り続ける少年。
倒れている人をよけ、暴徒と化している人の目を避けながら、ひたすらに走り続けた。
そうして気がついたときには、なぜか転校生の家の前に来ていた。
転校生の家はまだ暴徒の手に落ちていないらしく、ガラスなどが割られている様子はない。
玄関ドアの前で声を出しながらドアフォンを押し続ける少年。
「ぼくだ! おい! いないのか?」
ドアを叩いてもみたが、いっこうに誰も出てくる気配はない。
ドアノブを回してみると、開いた。
大声を出しながら一階、そして二階を確認してみたが、もぬけの殻。
転校生の部屋らしき場所で立ち尽くす少年。
ふと机の上に目をやると、一冊の本を見つけた。
少年は、何とはなしに本を手にとって見た。
それは、帝王学に関する有名な書物だった。
かろうじて名前だけは知っていた。
図書館で見かけたことがあったのだ。
いまどこに居るのはわからないが、少年は転校生がもうここには戻ってくることはないだろうな、と感じた。
当然だろう、籠の中の鳥から、やっと解放されたのだから。
一階に戻り、キッチンに行く。
ガスコンロをオンにして、丸めた新聞紙に火をつけた。
まもなくすると、一本の松明となり、煌々と燃え始めた。
居間に敷かれている毛皮の絨毯に火をくべる。
ボゥと毛皮から火が立ち上がると、見る見る火の手は広がっていくのを見てから少年は家を出た。
安全な場所まで逃げた後、そこから赤々と燃えさかる家を見つめていた。
火は美しい。
『人間は利便を求めてではなく、美しさを欲して、火を見つけ出したのではなかろうか?』
などと、少年は勝手な解釈をしてみた。
家は、燃え続けている。