■孝編 その7
20XX年7月17日 日本・某所 19:47
町に着くと、日が暮れていた。
さすがに歩き通しで疲れたので、休めるところを探す。
ガラスが割られ、破壊された民家が立ち並ぶ。
しかし、簡単には入らない。
それは以前、休もうとして入った民家で暴漢と出くわし、乱闘となったことがあったからだ。
その時の相手は生きているのだろうか? などと孝は考えた。
孝は相手を完膚なきまでに叩きのめしたからである。
それはもう、殺すくらいの勢いで。
こんな時代にあって暴漢など迷惑以外のなにものでもないし、いっそ死んだほうが残された人間のためだと思ったからだ。
パニック以前なら、その相手にも家族や兄弟がいるであろうと思い、手心も加えようものだが、みんなの顔が同じになったいま、そのようなつながりを意識させることは皆無となった。
そして、なにより、憎しみの象徴である同じ顔であることが大きい。
これが一番我慢できないことだった。
同じ、顔、顔、顔……もう、うんざりだ。
それはアリを踏みつぶしても罪悪感を覚えないのと、たぶん同じことなのだろう。
なぜならアリからは、それぞれの違いを感じられないから。
個性も、家族も、背景も。
いま、世の中はまさにそんな状態だ。
同じ顔をした赤の他人がいなくなったところで、いったい誰が困るというのだ?
むしろ、気味の悪い同じ顔がひとつなくなることで、かえってせいせいするのではなかろうか。
そう、孝、そして一部の正気を保っていると思っている人間たちも、確実にマヒした感覚があるのに気が付いてない。
それは罪悪感の崩壊。
町にあふれかえった多くの死体を見ても、恐怖や脅威を感じたのは最初の数時間で、その後は見慣れた光景となった。
また、目の前で暴漢に襲われるなどの惨劇を見たところで、助けてやろうという気すら起きない。
それどころか孝自身、食料の奪い合いで、年寄りから強奪したこともあった。
孝は、昔の孝にあらず。
顔が同じになるだけで、こうも倫理や道徳が変わってしまう。
アリが一匹死んだところで……そんなふうに感じてしまうようになってしまったのだ。
だから、孝はまもなくして、半殺しにした暴漢のことなど忘れてしまった。
そしてもう、たぶん二度と思い出すこともないだろう。
少し歩くと、大きな建物があった。
『今日はここで寝るとするか』
図書館だった。
まず、入口から覗きこみ、様子をうかがう。
館内には静けさであふれかえっていた。
よし、と思い中に入る。
館内は広かった。
警戒の意味も込めて、少し奥のほうで寝ることにした。
リュックを置いて、そこに頭をのせる。
『みんなはどうしているのだろうか?』
梢、両親、そして学。
ふと、以前、学と飲んでいたときに交わした会話を思い出した。
「学はうらやましいよ。美貌、頭脳、運動神経、そして性格。どれをとっても満点なんだからな。嫉妬する余地すらない」
これは偽らざる孝の本音だった。
そして、そんな人間が親友であるということが誇らしくもあった。
自分自身に自慢できることがない孝にとっては、学が友達であることが唯一の自慢の一部となっていた。
「ん? そうか? 俺は満足なんてしていないけどな」
「そう謙遜するなよ。それとも100%じゃ足りなくて120%を求めているのか?」
茶化すように孝はいったが、学は大真面目な顔をしていった。
「80%かな? 俺の人生の満足度は」
そういうと、学は静かにウィスキーのグラスをあけた。
「……」
なんとなく、それ以上の質問はできない雰囲気。
『足りない20%ってなんだ?』
気にはなったが、相手がしゃべらない以上は聞かない絡まない、という酒飲みの暗黙のルールに従って、孝はあえてその話題を打ち切った。
『足りない20%か。学に限らず多くの人にとって満たされなかったことも、これからやろうとしたことも、もう続行は無理だろうし、取り返すこともできない』
その点俺は恵まれているのかもしれない、と孝は思った。
『梢……きっと探し出してやるぞ』
そのためにも疲れを取り、明日に挑む。
そして寝る前の恒例となった梢への連絡をする。
電話を鳴らす。
しかしつながらない。
『本当に電話はつながっているのだろうか?』
あまりそちらの方面に詳しくない孝にとっては、いつまでも電話がつながらない状況からすでに利用できなくなっているのではないかと気になり始めている。
念の為に現在の状況を記したメールを打って送信しておく。
いつどのタイミングで見てもらえるともわからないだ。
生きていることを伝えておく意味でもある。
孤独の絶望感から自殺をしないとも限らないからだ。
とはいえ、ちゃんと梢のケータイとパソコンに届いていればの話だが。
すべてを終わらせて目を閉じる。
すぐに深い眠りが孝を襲い、まもなく夢の中の人となった。