第1話
「カレン、第一がこれ見ておいてって」
「また?」
アリシアの呆れたような声に、カレンは書類から顔を上げた。
肩から滑り落ちた濃灰色の髪を背へ払う。胸元を越す長い髪が、緩やかに波打ちながら背へ流れた。
深緑の瞳を向けると、アリシアは「その、またよ」とでも言いたげに、わざとらしくうんざりした顔を作ってみせる。
魔法塔の二階、第三魔道具管理室はそこにある。
六人分の机と、小さな打ち合わせスペース。
壁を埋める書類棚には細かく索引が付けられ、整然としている。
反対の壁には扉が二つ。こちらは応接室と休憩室に続いている。
その横には、小さく仕切られた棚があり、色も形も異なる魔石が並ぶ。種類と用途を書いた札が付いたそれは、まるで薬品棚のようだ。
庭に面した壁には縦長の窓がいくつか並び、まだ冷たい春の風を隔てて、柔らかな朝の光が室内へ差し込んでいた。
窓から最も離れた入り口近くには、受付係のブレットの机がある。
手元を照らす小さな魔石灯と、彼の管理する確認待ちの箱が置かれていた。
いつものように、そこから書類を持ち上げようとしたところ、同僚のアリシアに別の書類を手渡され、カレンは眉をひそめた。
第一が順番を守らないのは日常茶飯事だ。彼らはいつだって、自分の研究しか眼中にない。他人の都合なんてお構いなしだ。
渡された書類を広げ、書かれた術式を一瞥する。流れが複雑に絡んだ箇所を何か所か見つけ、迷わず印をつけた。
「これ、すぐに返しに行きますけど、他に第一に持ってくものあります?」
確認を終えた紙束を手に、狭い室内でそれぞれ机に向かう同僚へと声をかけると、先のアリシアを含む四人は皆一様に首を横に振り、再び机へ向かった。
カレンは立ち上がると視界の端で、窓の外に淡い煌めきを捉え、つられるように視線を向けた。
朝日に照らされた庭では、春を迎えた芝が青々としている。その一角には二脚並んだ木製のベンチ。
片方には今日も見知らぬ男が横たわっている。身なりからして、騎士団の一員だろう。
その銀色の髪が、朝日を受けてひときわ明るく輝いていた。
今日もいる。
「じゃぁ、いってきまーす」
思わず緩んだ口元を引き締め、切り替えるように明るい声をあげて、カレンは執務室を後にした。
***
第一へ向かう足取りは、不思議と軽かった。
目的地の"第一"の根城は塔の最上階にある。
紙束を片手に、階段を二階分上る。途中の階では何人かとすれ違ったが、最上階まで来ると途端に人影が減った。
廊下を奥へ進むにつれ、背後の仕事の音も遠ざかっていく。
そうしてたどり着いた目の前の扉は同じ素材のはずなのに重暗く見えた。
小さく深呼吸をし、ノックをしようと空いた片手をあげたところで、扉の奥から叫び声が聞こえた。
「第三のウェルナーです。開けて大丈夫ですか?」
思わずこぼれそうになったため息を飲み込み、あげた片手で三回扉を叩き、大きな声で呼びかける。
ガタガタと何かが崩れる音の後、ギィと軋んだ音を立てて、扉が開いた。
「なに?」
開いた扉の隙間から覗く室内には、積み上げられた本や紙束、用途のわからない器具が所狭しと並んでいる。
きっと扉を開けるのに、いくつか山を倒したのだろう。出来れば関わりたくない。
本能的にそう思ったところで、顔を出した相手を見て、カレンは内心ほっと息をついた。
「なに? じゃないでしょう」
栗色の髪に似た色の瞳。半身程覗いた体は白衣に包まれ、無造作にまくられた袖から、白く細い手首が覗いている。
ノアだ。
「さっき回ってきた申請。動かすのに必要な魔力が多すぎて、とてもじゃないけど通せないわ」
手にした紙束から先ほど印をつけたページを抜き出す。
「ここと、こっち。導線を変えればもう少し抑えられると思う。作った人に伝えて」
印をつけた箇所を順に指で示してから書類を差し出す。ノアはそこへ視線を落とし、小さくうなずいて受け取った。
自分の申請でもないというのに、早速紙面に目を走らせている。
話が通じるというだけで、研究者としてはしっかり第一の人間らしい。
「ありがと。じゃぁまたよろしく」
「はいはい、どうも。次は是非受付を通していただけるとありがたいですわ」
用が済んだなら帰れと言わんばかりの態度にこちらも軽口を返す。
割り込みで依頼してきた仕事をすぐに片付けてやったというのに、ずいぶんな態度だ。
――もっとも、ノアの申請ではないのだが。
こうして、部屋にも入らず踵を返し、元来た道へと向かう。
しかし、ノアで助かった。
第一の研究者は、書類を返すだけでも一苦労だ。
機嫌が悪ければ指摘にへそを曲げ、受け取りまでに時間がかかる。
逆に機嫌が良ければ「もっと説明しろ」「ならばこれはどうだ」と議論が始まり、気付けば一時間立ち往生していることも珍しくない。
その点、ノアは書類だけ受け取れば「ありがとう」で終わるのでありがたい。
廊下を歩きながら、カレンは出発前の光景を思い返した。
庭で煌めく銀色の髪。それは彼女にとって小さなジンクスだった。
それがいつ頃からだったかは、もう覚えていない。
ある日、自席で仕事をしていると、視界の端で何かが光るのを捉えた。
窓の外を見ると、隣の庭のベンチで一人の男が眠っていた。陽を受けた銀色の髪が、きらりと輝く。
何故だか気になって、その日は眩しい彼の姿からしばらく目が離せなかった。
それ以来、彼女は仕事がひと段落するとなんとなく、窓の外を眺めることが増えた。
銀色の彼はお昼よりもすこし前に見かけることが多かった。
そして、不思議なことに彼を見かけた日は少しだけ物事がうまく進むのだった。




